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「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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もしも昨日が選べたら

2006年/アメリカ 監督/フランク・コラチ

「いらん下ネタが多すぎる」

もしも昨日が選べたら_c0076382_22511620.jpg

本作、確かミニシアターでかかっていたのを覚えていてついレンタルしてしまった。割と名画座的な雰囲気を持つ映画館だったもので、そういう趣もあるのかと思いきや、エライ違いでガッカリ。おそらく最近、ミニシアター系でかかる作品までもがシネコンで上映されてしまうため、ミニシアターはシネコンから「漏れた」作品を上映しているんだと思う。日本での上映そのものが見送られる作品も多くなってきていると言うし、映画館の二極化構造は最終的には上映できる映画の受け皿を減らすだけだよね。とまあ、そんな話はさておき。

これ、邦題が全く作品内容と合ってない。もしももへったくれもなく、昨日なんて選べません。自分の人生を早送りしたり、巻き戻って見ることができる、ということ。つまり本人は傍観者であり、選択するということは全くない。どうなのよ、このタイトル付けた人。

前半、退屈で、退屈で困りました。主人公自身が仕事一筋で家庭を顧みないって設定ですけれども、それなりに仕事で成功しているし、あんなに美人の奥さんもいるし、別に不満なんかないじゃん!と思ってしまいました。明日の朝まで仕上げなければならないプランがあるなら、家族はキャンプなんぞ我慢するべきでしょうと、逆に思ってしまいましたよ。しかも、寝具売り場に入ったところで、オチがわかってしまった私。このまま見続けるのか、とつらかったです。

それがラスト30分あたりから、両親のエピソードが絡んできて、ようやく面白くなりました。はあ、良かった。このマイケルという男には何も共感できませんけど、親子の繋がりという普遍的なテーマを見せられてようやく物語のテーマが迫ってきました。今を大切に生きること、自分の周りの人を大事にすること。でもねー、最終的に自動制御状態だったマイケルは孤独な老年になっているんですが、周りの家族はそんなには不幸ではないですよ。だから、急にみんなにやさしくなるってのもえらい自己中心的な男だなあ。と、いろいろひっかかりはあるのですが、まあ堅いことは言わずに気軽に見るコメディってことで許すとしますか。

それより気になるのは、いらん下ネタが多いってこと。コメディだから笑わせたいのはわかるけど、ちょっとそれを下ネタに頼りすぎ。子供と一緒に見たいとは言わないけど、女性が男性と一緒に見てこの下ネタシーンでガハハと笑えるかと言うと、どうでしょう。少なくとも一連の犬ネタには閉口。やはり同じ下ネタでもイギリスのコメディなど、クスリと笑える程度の方が上品でよろしい。やっぱ、私にはアメリカンホームコメディタッチが合わない、ということがつくづくわかりました。
# by galarina | 2007-08-05 22:50 | 映画(ま行)
1989年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ
<episode8~episode10>

「さらなる混沌に突入」
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episode7までに提示された多くの謎が一つずつ回収されていくのかと思いきや、物語はますます混沌としていく。個性的なツイン・ピークスの人々も、ドラマの人気上昇と視聴者の期待の高まりからか、手を替え品を買え、より個性的に描かれようとしているが、調子っぱずれのオルゴールのように何だか心許ないただの変キャラへと移行しているだけのよう。そんな中、ハリーとは犬猿の仲のアルバートの嫌味がだんだん冴えてくる。ダラダラし始めた物語のツッコミのような役割を果たしている。

しかし、この期に及んで、「宇宙からの信号」なんてものを持ってくるのは、大阪弁で言うところの「いらんことしー」。本来は「クーパーの夢」と「人々が見るボブの幻想」というこの2つで、十分非現実的な面白さは表現できているはずで、そこに新たな超常現象を持ち込むのは、明らかに面白さが拡散してしまったと思う。そろそろ何か一つでも解決しないと、という差し迫った状況でようやくリーランドの逮捕を持って来たんじゃなかろうか。

人気が出たから物語が増えてしまったんだろうが、このepisode8~10で、ジョシー、ハンク、ホーンたちの裏の顔を一気に暴いていれば、物語としては絶対面白くなったと思う。つまり、日本のドラマでもよくある1クール分でしっかり結論を出していれば、全10話で実に質の高いドラマとして終われたことだろう。

この引き延ばし作戦にこれからまだまだおつきあいせねばならんのか、と思うとちょっとツライ。
# by galarina | 2007-08-02 23:08 | TVドラマ

オペレッタ狸御殿

2005年/日本 監督/鈴木清順

「爺様の壮大なるお遊び」
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見終わってすぐさま浮かんだのは「じさま演出による学芸会」。私は敬老会に呼ばれたような気分だった。いえいえ、何も鈴木清順氏をバカにしているわけではありません。とにかく壮大なお金のかかった学芸会だな、と。人を食ったかのような開き直りと、大人の大真面目なバカ騒ぎについていければ楽しめます。お気楽に手拍子でも打ちながら鑑賞すれば、堪能できるかも知れない。

しかしながら、わたくしはこの清順ワールドを呑み込み、堪能するところまで到達できなかった。と、いいますのも、オダギリくんの雨千代というキャラへのなりきり度が気になって、気になって仕方なかったから。やはりこの手の映画は役者のなりきり度が観客に伝わるもの。きっとオダギリくんは、この演技が恥ずかしいんじゃないだろうか。鈴木清順だからと、即返事したものの本当は後悔しているのではないか。そんなことばかり考えてしまった(笑)。実は「嫌われ松子」の中谷美紀を見ていても同じことを考えていたんだよなあ。

その点、チャン・ツィイーはさすが母国を出てアメリカくんだりまで飛び出しただけあって、根性が座っている。うろ覚えの日本語に臆することなく、お姫様になりきっている。墨絵や尾形光琳など日本の美術セットにしっかりおさまって、美しい表情を見せるのはさすがプロ。オダギリくんは、今この役のオファーが来たら断るだろうなあ…。

これを斬新と言うことに異存はないけど、やっぱり観る者を選ぶ作品。残念ながら私は全くついていけなかった。
# by galarina | 2007-08-01 23:48 | 映画(あ行)

新宿泥棒日記

1969年/日本 監督/大島渚

「盗まれる言葉たち」

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これはとても詩的で実験的な作品。紀伊國屋書店でジュネの「泥棒日記」を万引きをした青年、横尾忠則が彼を捕まえた女性店員、横山リエと性をめぐる観念の世界へ逃避行に出る。そんな感じでしょうか。
本を盗むということは、言葉を盗むということ。故に、言葉の洪水のような作品でもある。言葉によって喚起される数々のイメージを頭に思い描きながら、新宿の街を泥棒気分で逃げ回るのだ。

性科学権威の高橋鉄によるカウンセリングシーンや佐藤慶や渡辺文雄がセックスについて大まじめに語り合うシーンなどのドキュメンタリー的なシーンと、様々な文学の一節を朗読するシーンや唐十郎率いる状況劇場の舞台などの観念的なシーン、それらが虚実ないまぜ、渾然一体となって進んでいく。

ひと言で言うと「映画は自由だ!」ってことかしら。物語とか、辻褄とか、わかる、わからないとか、そういうところから一切解放されて映像を紡ぐこともこれまた映画なり。わかるかと聞かれると全くわからんのですけど、面白いかと聞かれると間違いなく面白い。この面白さっていうのは、やっぱり作り手の「自由にやってやる」という意気込みがこっちに伝わってくるから。その鼻息が通じたのか、ラストは撮影中に出くわした新宿の本物の乱闘騒ぎの映像が入っており、当時の生々しい空気感が感じられる。

シーンとシーンの間に、時折文字のみの映像が差し込まれるのだが、冒頭は確か「パリ、午後二時」とかそんなんなのね。その中で「ウメ子は犯された」って文字がでかでかと出てくるシーンがあるんだけど、つい吹き出してしまった。犯されたことが可笑しいとか、そういう不謹慎なことではなく、そんなことわざわざ文字にするなよ、見てりゃわかるじゃんってこと。とことん性に対して大真面目に突進していく様子が何だかおかしいのだ。

それにしても、この時代の作品は大島渚だけでなく、女と言うのは、常に「犯される存在」だ。今で言うともちろんレイプということになるのだけど、この時代はやはり「犯される」という言葉が一番ぴったりくる。それは、征服するための行為というよりは、むしろ「聖なるものを穢すことで何かを乗り越える。そのための儀式」に感じられる。

それだけのリスクを冒さなければ、向こう側に行けない。手に入れたいものが見えない。そんな時代の鬱屈感を表現する一つの方法。それが女を犯すという描写ではないかと感じるのだ。このように言葉にすれば、女をコケにしたとんでもない表現方法に感じるかも知れないが、逆の視点で見れば、当時の女という概念はそれだけ聖なるものであり、乗り越えなければならない高みを示していたのかも知れない。

犯し、乗り越えていくためのシンボルとして女性が描かれることは、今やほとんどなくなってしまった。それは果たして、喜ぶべきことなのだろうか、それとも悲しむべきことなのだろうか。横山リエの妖しげな表情を見ながら、ふとそんなことを考えてしまった。
# by galarina | 2007-07-31 23:43 | 映画(さ行)

新宿マッド

1970年/日本 監督/若松孝二

「新宿の“中"と“外"」
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私が映画ファンになったのは、学生時代「大毎地下劇場」という御堂筋に面した小さな地下劇場で、日本やヨーロッパの古い作品をたくさん見たのがきっかけだ。今は子供も小学生になりハリウッド映画も見るけれど、個人的には60年代後半から70年代のATG作品が大好きだ。

モノクロームのATG作品を見て強く感じるのは、私もこの時代の息吹をリアルに感じてみたかった、というストレートな願望だ。この時代をリアルに生きた人が羨ましい。体制への反抗、あふれ出る創作意欲、表現することが生きることと同じ価値を持っていた時代が放つ圧倒的なエネルギー。それを、この自分の肌で感じてみたかった。

本作「新宿マッド」は、新宿で劇団員をしていて殺された男の父親が、息子が殺された理由を知りたいと、九州の田舎町から上京し、新宿をさすらう物語である。前衛的な作品も多いATG作品の中では、この「新宿マッド」は比較的わかりやすい物語だと思う。

息子の父親は田舎で郵便配達夫をしている。地方都市の郵便配達夫というのは、おそらく「自分の意思もなく体制に呑み込まれてしまった人間」の象徴ではないか、という気がする。なぜ、息子は殺されなければならなかったのか、息子の友人を訪ねまわり、新宿の街を徘徊し、新宿の狂気を目の当たりにするに従い、真面目に生きることだけが取り柄のような田舎の中年男の価値観が崩れてゆく。

すぐ誰とでも寝る女、麻薬に溺れ働かない男たち。新宿の人々は、真面目な田舎者の父親を嘲笑する。しかし、彼らが繰り返し叫ぶ観念的な言葉は、最終的には田舎者の父親の生きた言葉の前に屈する。映画の冒頭に出てくる新宿の街で横たわる若者たちの死体、そして新宿マッドなんてカリスマはいない、とする結末を見ても、新宿的なる世界の終焉を見事に切り取った作品と言えるだろう。

しかしながら、目の前で繰り広げられる退廃的でけだるい新宿の街の描写は、私を惹きつけて離さない。およそ、この時代に生きる人々は、新宿の“中にいる者"と“外にいる者"。その二通りしかいなかったのではないかと思わせる。「あいつは、この街を裏切った。新宿を売ってしまったから殺された。」父親が息子の友人から聞き出したこのセリフがそれを物語っているように感じるのだ。
# by galarina | 2007-07-30 23:31 | 映画(さ行)