「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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月光の囁き

1999年/日本 監督/塩田明彦

「ふたりだけの世界」
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素晴らしいデビュー作です。原作の漫画は読んでいませんので、そのSM嗜好がどの程度作品に反映されているのかわかりませんが、これは見事に私の大好きな「一途な愛を受け入れる」物語なのです。周囲の人間がどんなに歪んでいると捉えようと、女がそれをかけがえのない愛だと感じるのならば、それに全身全霊で応えようとします。その瞬間、ふたりの間には誰も足を踏み入れぬことができない完璧な関係性が完成するのです。

結局、頑ななのはマゾヒストの拓也の方です。どうあがいても、彼は自分の愛し方を変えることはできない。SMの関係は、Mが奉仕しているのではなく、本当はSがMに奉仕しているのです。大けがを負った拓也に何度もジュースを買いに行かせ、いらないと撥ね付ける紗月。愛を受け入れた紗月の姿は感動的です。そして、川べりで寄り添うふたり。この一連のラストシークエンスは、愛の受容を映し出す素晴らしいエンディングだと思います。紗月はなぜか眼帯をしています。確かに滝壺で目の下に傷を負いましたが、眼帯をするほどのものだったでしょうか。これは、眼帯の女と松葉杖の男、というラストカットにしたかった監督のこだわりかも知れません。

前半部は、これぞ青春という淡い恋物語のように見せておいて、トイレの盗聴マイクという実に低俗な行為によって、晴れやかな恋模様がズドーンと一転、様相を変えて動き出す。この辺の進行具合も巧いです。また、舞台は香川県で登場人物たちの話す方言がすごくいいです。標準語なら、これだけ生々しい感じにはならなかったでしょう。主演のつぐみと水橋研二もすばらしくいいです。

このデビュー作はもちろんのこと、他作品を見ても塩田監督が足フェチだと言うのは想像に難くありません。本作のつぐみ、「害虫」の宮崎あおい、「カナリア」の谷村美月。どの主演女優もすらりと長い生足をぞんぶんにさらけ出しています。以前私はアニメ「時をかける少女」で長い生足に嫌悪感を覚えると書きましたが、不思議と塩田作品には全く感じません。それは彼が描く少女たちの存在がとてもリアルだからでしょう。細くて長い生足が、彼女たちの危うさ、力強さ、美しさなど実に多彩な面を引き出している。世のオヤジどもが少女幻想を抱く時にまっさきに思い浮かべる生足とは、むしろ対極の位置にある。そんな風に感じられるところが、私が塩田作品に惹かれる大きな要因かも知れません。
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by galarina | 2008-08-03 16:52 | 映画(か行)
1966年/日本 監督/今村昌平

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これまた大傑作。原作は、野坂昭如。エロ事師というのは、文字通りエロに関することなら、何でも商売にしている男。素人を連れてきてポルノを撮ったり、いやらしい写真をお堅いサラリーマンに売りつけたり、それはもうエロを尽くして生きぬいている、それが主人公スブやん(小沢昭一)。

人類学入門というタイトルからも窺えるように、スブやんを取り巻く人間どもを、まるで生態観察しているようにカメラは捉え続ける。これは、前作の「にっぽん昆虫記」と同じ。馬鹿で情けなくて非道の限りを尽くしている人間どもを遠くから客観的に眺めているようなロングショットが多数見られる。例えば、スブやんが会社の会議室でエロ写真をサラリーマンに売りつけているシーンは明らかに隣のビルからのショット。こうして、彼らと一定の距離を保ちながら、冷徹に見つめる手法で、人間の愚かさを際だたせている。しかし、目の前で繰り返されるのはあまりにも情けない人間模様でありながら、作品自体には品格のようなものすら漂う。それは、ロングショットを含め、そこかしこで見られるモノクロームの美しいカットが作品を彩っていること、前夫の形見として飼われているフナ(後の「うなぎ」に繋がっていると思われる)など様々なメタファーが作中で導入されていることなど、今村昌平のセンスと知性が全編にあふれているからだろうと思う。

こういっては失礼だが、坂本スミ子が布団の上に倒され悶えるシーンのアップなんて体して美人でもないのに、何と妖艶に見えることか。今村監督は、紅潮した頬というのがどうもお気に入りのようで、「赤い殺意」でも春川ますみのぷっくりした頬を非常に美しく撮っている。男に迫られる女の「ほてり」をこれだけ見事に表現できる監督は、他にいないと思う。

スブやんは内縁の妻の娘(中学生!)と寝てしまうし、その妻にしたって結局娘のレイプを容認してしまうし、ポルノの現場に自分の娘を差し出す男優だっているし、どいつもこいつもあきれてモノが言えないような奴ばっかり。ただ、そこに渦めくエネルギーたるや圧倒的で、「生」と「性」が渾然一体となって人間がそもそも持っている原始的な情熱とか、生きていくための狡猾さなんかが、まざまざと迫ってきて、本当にパワフル。ディスコミュニケーションだの、引きこもりだの、他人との距離をどう取ればいいのか悩んでいる現代にこういう作品を見ると、さらに感慨深いものがある。

スブやんのラストは、原作と違うらしいが、これまた今村監督らしい粋なエンディングだと思う。インポになって、娘や息子からも疎まれ川べりのぼろ船で生活するスブやんが最後に選んだ仕事は世界一のダッチワイフ作り。「陰毛を1本1本埋め込むんや」と言い、人形に向かうスブやんは狂っているようにも見えるし、崇高な仕事に携わる職人にも見える。そんな彼を乗せたぼろ船は、停泊中の川岸からいつのまにか縄がちぎれ、大海原へ。海上でぷかぷかと儚く浮かぶ船の中で陰毛と格闘するスブやん。嗚呼、人間とはなんと滑稽な生き物か。そして、船を捉えた映像が、冒頭の8mmフィルムへとつながり、それを馬鹿話しながら眺めるスブやんを映す。今村監督、巧すぎます。
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by galarina | 2008-07-29 14:34 | 映画(あ行)
「余裕でかます自虐の面白さ」
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説教ぶっこいたり、世界を憂いたり、そういうアニメって本当に苦手。それに最近映画館で、ぽ~にょ、ぽにょ、ぽにょって声を聞くと背筋が「さぶっ」ってなるんですけど、そういう人でなしは私だけなんでしょうか。

さて、この鷹の爪団。TOHO系のシネコンで予告前にお目にかかって以来、このユルユルムードの面白さが気になって、気になって、ついに映画を見てしまいました。FLASHアニメだから低予算。まさにアイデアとセンスで勝負しているところがすばらしい。この面白さの元って、徹底的な自虐なんですね。

予算がないという自虐と、世界征服という野望の前に何をやってもダメな総統の自虐。つまり、作り手もストーリィ中の人物も「俺らはダメダメだぁ~」って言いっぱなしなワケです。ところが、ダメな割には余裕しゃくしゃくのムードが漂っています。駄目なヤツのひがみやねたみを第三者が見て爆笑できる。それは、紛れもなく笑い飛ばせる余裕が作り手にも観ている側にもなくてもダメで、非常に高度なコメディではないかと思ってしまいました。

本編に集中したい作品ならば、予算ゲージの上昇と降下なんて、邪魔になってしょうがないですよ。もし、これが他の作品についてたら、どうです?絶対気が散りますって。この作り手側の勝手な事情が、本編アニメにもきちんと溶け込んでいて破綻していない、ということも凄いなあと思うわけです。

各種有名映画のパロディってのは、文字通り大人の映画ファンへのサービス。そして終盤、予算がなくなり効果音も出せなくて、口で「ババーン」とか言いながら戦うシーンでは小学生の息子が腹を抱えて大爆笑。大人のツボにも子どものツボにもしっかりハマる。これは侮れません。
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by galarina | 2008-07-18 18:14 | 映画(は行)

カナリア

2004年/日本 監督/塩田明彦

「複雑な感情が私の中でせめぎあう」

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あまりに語りたいことが多い作品で困ります。まず「黄泉がえり」というミーハーキャストの大作を撮った後で、このような暗くマイナーな長編、しかも実に感動的な傑作を撮ったことが素晴らしい。ひとりの映画監督としての「ぶれのなさ」を強く感じます。

オウム真理教については、我々はまだまだ何のケリもつけていないと、強く思っています。あの事件を検証することも、熟考することも、反省することも、何もしていない。確かに本作の軸となっているのは、過酷な状況に置かれた少年と少女の生き様であります。親の身勝手で追い詰められる子供たちを捉えたストーリィは数多く存在しますが、やはりそれがオウム真理教であることで、私は再びあの事件の矛盾を深く考えざるを得ませんでした。教団内の様子など、本当はどうだったのかとも思います。しかし、一も二もなく描くことそのものが大事なのであり、またこのテーマに対して塩田監督が真正面から取り組んでいる覚悟が全編からびしびしと伝わり、それがとても感動的でした。

さて、「害虫」で感じた関西弁の「生」のイメージを、本作で再び感じることになるとは思いもしませんでした。谷村美月演じる少女の関西弁は、由希という少女の生きるエネルギー、タフさを象徴しているように思えてならないのです。由希という少女が発する全ての台詞は、光一の世界観を揺さぶる「リアル」そのものです。虚飾に満ちた光一の道しるべにざくざくと音を立てて切り込む由希の剥き出しな生が、実に印象深く心に残ります。力強く、生々しい谷村美月の演技を見て、関西弁という共通点もあるのでしょうが「大阪物語」でデビューした池脇千鶴を思い出しました。とてもいい女優です。

ラスト、絶望の淵に追いやられた光一が、ある衝撃的な変化を宿して、由希の前に現れる。それは、まさに生まれ変わりを示唆する劇的な変化なのですが、この展開にはやられました。エンディングらしい衝撃と言っていいでしょう。子どもを描く映画のラストは、希望であって欲しいと「害虫」のレビューでも書きましたが、手と手を取り合い、生きると宣言した彼の行く末は、一見希望があるように思えます。ですが、一方あの彼の姿、そして祖父にかけた言葉「我は全てを許すものなり」というセリフを見るに、あの忌まわしい教団の教え、彼の母親がそうなりたいと願ってやまなかった「解脱」の境地に達したかのようにも見えてしまい、苦々しい思いが私の心を満たすのです。最初から最後まで、様々な割り切れぬ思いが心を占めます。しかしながら、私にとっては非常に吸引力の強い魅力的な作品でした。目をそらさずに見るべき映画だと私は思います。
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by galarina | 2008-07-17 22:57 | 映画(か行)

山のあなた~徳市の恋~

2007年/日本 監督/石井克人
<TOHOシネマズ二条にて観賞>

「カヴァーすると言う大いなる意義」
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清水宏監督のオリジナル「按摩と女」が傑作であると多数の方から話をいただき、これは見るしかないと、最終日最終上映回ですべり込み観賞。いやはや、鑑賞後、呆然。これは参りました。カメラの動き、間、演出、全てにおいて実に良くできた作品だと感心しました。これは早速オリジナルを観なければなりません。

リメイクではなく、カヴァーである、ということ。これは、オリジナルのすばらしさを現代に伝えたいという石井監督の強い意志に他なりません。また、それほどオリジナルが良いと言うことでしょう。このすばらしさを現代の良い音響、良い映像で観客に届けたい、と言うことでしょう。もしかしたら、この成功を受けて小津や溝口のカヴァーと言うのも生まれるのかもしれません。そう考えると、何だかワクワクします。

ちょっとした心の動き、機微の見せ方が実に巧みなのです。それを、セリフではなく、間と映像で語る。これこそ、映画の醍醐味です。起きている出来事は大した事件ではありませんから、これを退屈だとか、淡々とした話だとか言う人がいるかもしれません。しかし、侮ってはなりません。これは実に緻密な計算がなされているのではないでしょうか。例えば、按摩さんを呼びに来た女中さん(洞口依子)が宿の扉を怒ったようにぴしゃっと閉める。これはおそらく、客人のいい男(堤真一)が東京から来た女にデレデレしているのが気にくわないのでしょう。そういうちょっとした仕草でもいろんなイメージが広がるのです。

そして、子供の使い方が秀逸。帰りたくない、早く帰りたい。おばちゃんと過ごしたい、一緒にいてもつまらない。彼の心の揺れが物語の振り子の役割をしています。そして、彼の登場と退場が各エピソードの繋ぎとなっているのです。静かな物語の中で彼の「ちぇっ!」と言うイライラしたような舌打ちがざわざわと波を立てます。物語の結末から言えば、堤真一の役どころだって、通りすがりの男Aと言う感じですが、偶然出会った女に惹かれる心情の揺れが実に巧みに伝わってきます。

草薙剛の按摩はやや大袈裟な感じもしますが、よくがんばりました。むしろ、感心したのは美千穂を演じたマイコです。「そうなんですの」「~ですわね」など、おっとりとした昔ながらのていねいな日本語が実に堂に入っていました。往年の名女優の雰囲気を見事に体現していたと思います。橋の両側に男と女がそれぞれ立ち、その間をわざと知らぬ顔で按摩が通り過ぎてゆくカットの切なさ。女が男を追いかけ、川を渡す桟橋に按摩がひとり残された時の不安感。「お客様!」と土下座した按摩のやるせなさ。胸をわしづかみにされるのではなく、心のどこかをツンと突かれるような感傷が沸き起こるのです。日本を形容する時に、侘び寂びなどと言いますが、それは一体何を指すのかと思っていましたが、本作を見て初めて侘び寂び的なるものに触れたような、そんな気が今しています。
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by galarina | 2008-06-27 23:34 | 映画(や行)

害虫

2002年/日本 監督/塩田明彦

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作品としては決して悪くないけど、暗い話だなあ。中学生が主人公で、暗い話と言うのが、私は苦手なのだ。高校生ならいい。この差は私の中でかなり明確になっている。気が滅入るようなストーリィでも惹きつけられる作品はたくさんあるが、中学生の場合、なぜかいたたまれない気持ちになる。高校生になったら、世の中なんてこんなものさ、人間なんてみんな孤独なものだよ、と言ってみせても大丈夫だろうが、中学生にはまだそのセリフは早い、それが私の考えだ。

誰とのやりとりかわからない手紙の文面が黒いスクリーンの中央、白ヌキ文字で入る。即座に「リリイ・シュシュ」で味わった嫌な気持ちが蘇る。あの映画が私にとって、いかに酷いトラウマになっているかがこの作品を見てよくわかった。そう言えば、あれにも蒼井優は出ていたっけ。

棒っきれのような細い生足を包む白いソックス。宮崎あおいの足元を映すショットが幾度となく繰り返される。まあ、何なりと読み取れるシーンではあるのだろうが、最終的に彼女が救われないということにおいて、思考も停止する。なぜか、男どもが心惹かれる女。学校の教師も、コンビニで出会った男も、友人が思いを寄せる同級生も、ひいては母親の愛人までもがサチ子の虜となってしまう。13歳のファム・ファタール。害虫とは、まさしく彼女のことなのか。そこにポイントを絞れば、宮崎あおいの魅力もふんだんに表現され、面白い作品かも知れない。しかし、元に戻るが、彼女を取り巻く環境の無責任さにいたたまれなくなり、まともにサチ子という女に向き合えなかった。どう転んでも、うまくいかない人生ならば、いっそのことエンディングはサチ子を地獄に突き落とせば良かった。いや、あの展開は地獄の入口に入ったことのしるしか。そう考えれば、余韻の残るエンディングではある。

映画とはあまり関係ない話。ヒッチハイクをするサチ子が最初に乗せてもらうトラックの運転手、木下ほうか。「遠慮せんと、リンゴ食べや」。彼の柔らかい関西弁が、まるで暗い森の中にひと筋きらめく光のように心を満たした。関西弁のまろやかなイントネーションに、物語は一気に希望に向かうのだと言うイメージすら湧き起こされたのだ。何だかおかしなところで、関西弁の良さを確認した。
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by galarina | 2008-06-26 23:18 | 映画(か行)

机のなかみ

2006年/日本 監督/吉田恵輔

「こいつぁ、おもしれえ!」
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漏れ聞いていた噂からもっと手法のこだわりが前面に出た作品なのかと思っていたのだが、見事に裏切られた。見せ方に凝った映画が、後半ただの種明かしで終わって、チャンチャンとなってしまう虚しさとは無縁。むしろ、ますますドラマは面白くなり、オバサンも胸キュンの高校生の恋バナへと変貌。こいつは面白い!

家庭教師馬場のあまりの調子の良さ。こんなヤツいるぅ~と言う軽いノリとオフ・ビートな雰囲気。そして、いよいよ馬場が女子高生に襲いかかる…となったその瞬間、フィルム途切れて暗転。ドラマは最初に巻き戻し。ええ~っ。このだまし討ちのような意外性にまず拍手。第一部において、望の家庭教師に対する反応が徐々に変化しているのは、わかった。そして、それが馬場のせいではないことも。しかも、望が好きな相手も実は薄々感づいてはいたのが、それでも第二部がますます面白い。それは、主人公望を演じる鈴木美生の嫌味のない愛らしさ、揺れ動く乙女心が実に瑞々しく、観客のハートをがっしりと掴むからだ。その点において、私は吉田監督の演出力に感心した。だって、この望というキャラクターはうっかりすると、女性陣から猛反発をくらう「いじけキャラ」だからだ。カラオケ場面から展開される、まるでアイドルのPVみたくなシークエンスも、その確信犯的なやりように思わずニンマリとしてしまう。

全く内容を知らずに見たので、馬場から望へ、というバトンタッチが実に鮮やかで気持ちいい。「リップ貸して」を始めとする、高校生活のコミカルなシーンもそこかしこで効いている。親友とは名ばかりの友人、男たちのずるさ、父娘家庭のやや異常な日常など、明かされる机の中身は実にバラエティ豊かなテーマを内包していて、一体この物語がどんな結末を向かえるのかとラストに向けて期待がぐんぐんと高まる。何せ巻き戻ったシーンがあれですから。

そして、切なさ満開の第三部へ。男たちはあくまでもずるく。一方、女たちは愛をつかんだ者とまだつかめない者、対称的なエンディングへ。脚本をいじって小技を効かせた作品だろ、と高をくくっていた私は、強烈パンチを喰らいましたよ。お見事。
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by galarina | 2008-06-24 21:09 | 映画(た行)

アフタースクール

2007年/日本 監督/内田けんじ
<梅田ガーデンシネマにて観賞>

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前作「運命じゃない人」を見ていない、と言うのが返す返すも残念なのですが、なかなか楽しめました。

「伏線」と言うよりも「錯覚」によるマジックという方が正しい気がします。たまたま、観賞前日に錯覚を利用した視覚アートを紹介する番組を見たのですが、非常に近いものを感じました。 つまり、そのシチュエーションでそのセリフを聞くと、 この物語はこうだ、と勝手に脳が思いこむということ。 冒頭妊婦がいて、スーツを来た男が部屋から出て行く。「朝ご飯ありがとうね。」「新しい靴を買っておいたよ。」と聞けば、誰しも新婚夫婦の朝の風景だと思ってしまう。視覚アートの場合も立体を把握する時に脳が勝手に補完するのを利用しているのですが、これもまさにそうでしょう。新婚夫婦の物語だな、と一旦脳にインプットされると、その後の展開も勝手に脳が補完してしまう。しかし、もちろん本筋はそこからどんどんずれていくわけで、そのズレが面白さのミソなんですね。

最終的に話が1本の筋道になった時に全体を見渡してみると、 なんてことないごくごく普通のストーリー。ここがとてもいい。それは、本筋がシンプルだからこそ、組み替えで複雑に見える、という構造上の問題もあるだろうけど、むしろ観客に取ってのメリットの方が大きい。つまり、騙された時の爽快感。全てが終わった時に、あれはどういうこと?という煮えきらなさが残らない。内田監督は、なかなかの策士ですね。

今回は有名俳優が出ていますけど、 彼らがもともと持っているイメージもうまく利用していると感心しました。 俳優頼みなんて意見もあるようですが、私は逆ですね。 このキャスティングそのものも錯覚のひとつに組み込んだ監督はクレバーだと思います。 中でも光っていたのは、大泉洋。ぼんやりの後のピリッとした演技が良かった。

惜しむらくは、最初の1時間くらいが冗長に感じられたこと。前半部で映画的な快楽が得られるかどうかと言われるとちょっと微妙。 風景が美しいとか、ドキッとするショットがあるとか、 ぐっとスクリーンに入り込めたらもっと良かった。 ラスト、三角関係の甘酸っぱい余韻とほんわりした幸福感を残したのは◎。全てがわかった上で、最初から見直すとどうなるんだろうと言う別の興味が湧いてきました。
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by galarina | 2008-06-18 14:25 | 映画(あ行)

ザ・マジックアワー

2008年/日本 監督/三谷幸喜
<TOHOシネマズ二条にて観賞>

「みんなから好かれたい作品」
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三谷幸喜は、なぜここまで大風呂敷広げた作品ばかり作るようになっちゃったんでしょう。陪審員が集う小部屋、ふたりきりの取調室、ラジオ局の小さなブース。小宇宙の中で繰り広げられる悲喜こもごものドタバタ劇のあの密度の濃い面白さは、もう二度と見られないのでしょうか。評判も高く、客入りも上々なんて話が飛び交う中、原点回帰して欲しいと全く逆のことで頭がいっぱいになるのでした。

映画へのオマージュ、ですか。映画を愛する人たちへ、映画に関わる人たちへ、そのアピール具合が目に余ります。オマージュを捧げると言うのは、一部をパクって見せる、またはパロって見せる、と言うのとは全く別次元です。自分自身の作品がしっかりと地に足を付けて完成された上で、あるシーンをふと思い起こさせるものであったり、同じテーマをそこはかとなく内包させたりするもの。これ見よがしにつぎはぎで並べ立てるものでは決してない。もはやこれはオマージュではなく、コラージュ。

もちろん、脚本家としての彼の力量がこれらのつぎはぎを何とか1本のうねりに仕上げているのは、間違いないでしょう。それでもなお、なにゆえ今の彼がこれほど映画に愛を捧げるフリをしなければならないのか、全く合点がいかないのです。決して、つまらないストーリーではなく、所々笑わされる部分もありました。しかしながら、私にとっては彼の「映画愛」が全ての観客、全ての業界人に愛されたいという媚びに見えて仕方ないのです。市川監督の「黒い十人の女」のパロディシーンも出てきます。これまでの三谷作品が、市川作品の一体何に影響を受けたというのでしょう。カッティングですか?セリフ回しですか?

フジテレビのバック、ということも大きいのでしょう。ここまで、有名俳優を出演させて、お金もかけておいて、お客さんが入りませんでしたというわけには死んでもいきませんもんね。でも、これで興行成績上がったら、三谷さん、もっと大きいセットでどーんとでかい映画やりましょうなんて話になるのかな。フジテレビは三谷幸喜の才能をつぶしてしまわないだろうか。私の周りでは大声で笑う人も結構いましたが、そんなに?という感じ。戸田恵子のヘアスタイルが違うのも、笑えるのは二度目まで。136分という尺も、長い。カメオ出演も、もう飽きました。95分くらいのミニマムな三谷作品が私は見たい。
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by galarina | 2008-06-10 15:09 | 映画(さ行)

接吻

2008年/日本 監督/万田邦敏
<梅田シネ・リーブルにて観賞>

「鑑賞後、どすーんと強い衝撃を胸に受けたような感触が残る。傑作。」

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彼を理解できるのは私だけ。彼を愛する資格があるのは私だけ。天啓を受けたかのように、殺人犯を一途に愛し始める女の孤独と狂気の物語。

万田監督のデビュー作「Unloved」の主人公光子は、仕事ぶりを評価されレベルの高い職を与えられるのを拒み、金持ちで分別もある若くてハンサムな男の愛を一途に拒否する。その拒否の物語は、世の中の価値観、とりわけ、女性ならきっと素直に喜ぶはず、喜んで受け入れるはずという価値観の真っ向否定だった。そこには、現代を生きる女性が抱える社会への矛盾が実に攻撃的な形となって現れている。まるで棒読みのセリフで淡々とした演出。しかしながら光子のあまりに刺々しい拒否反応が肌をざわつかせるほどの恐ろしさを見る者に与えた。

同じように「接吻」でも京子は、分別ある大人の代表としての役回りである弁護士、長谷川の再三の警告を拒否する。ただの思い込みと他人に見えるものも、京子にとってはもはや純然たる愛。唯一無二の愛だから、受け入れることなどできはしない。しかし、「Unloved」のように観賞者そのものを撥ね付けるようなムードはこの作品にはなく、極端な展開ながら、私は京子にどんどん呑み込まれていった。それは、この作品が恋愛映画としての強い吸引力を持っているからだ。

好きな男のそばにいたい。彼を励ましてあげたい。無理解な周りの人々に闘いを挑む我らは運命共同体なのだ。どんどんエスカレートしていく京子の行動を100%否定することができない私がいる。相手は、何の落ち度もない幸せな家族の命を奪った殺人犯。なぜそのような男を、と長谷川も言う。「あなたは彼が人の命を奪った事実を棚に上げている」と責める。だが、一度愛し始めたその感情は坂を転げ落ちるかのようにスピードをあげ、止めることができない。彼が殺人犯であること。それはそれ、なのだ。もはやそこに理性など存在せず、高ぶる感情がただあるのみ。その興奮、女性ならわかる、いや羨ましいとすら思えてくるのだ。そして、とうとう京子の狂気に長谷川までもが呑み込まれてしまう。なんと恐ろしい展開。

そして、驚愕のエンディングへ。あれは、一体どういう意味だろう、と頭が真っ白になった後、さらに追い打ちをかける京子のセリフ。そして、幕切れ。私は完全にノックアウトされた。エンディング時に味わうこの茫然自失な感じ。どこかで味わったことがある。ハネケの「ピアニスト」だ。

京子のあの行動、私は、坂口は運命共同体であるからこそ成し遂げられたが、長谷川には一瞬とまどった。そのとまどいに自分を愛する男への哀れみのような感情が侵入してきたからではないか、と推測した。しかし、恐らく正解などないのだろう。

無駄のない緊迫感に満ち満ちた演出もすばらしい。冒頭、事件の一連のシークエンス。襟首をつかまれ恐怖におののきながら、家に引きずり込まれる少女の表情がほんの一瞬映る。それ以外は直接的な描写はないが、これだけで背筋が凍った。また、坂口が獄中、事件当日を思い出す場面でも、前作「ありがとう」にも出てきた「手」の演出が登場。ぞくりとさせられる。そして、「私たちは謂われのない罰をたくさん受けてきた」と語る京子のセリフ、一つひとつが胸に刺さる。台本だけをじっくり読んでみたいほど、すばらしい脚本。

難役を自分のものにした小池栄子、お見事です。どこにでもいそうなOLがずぶずぶと狂気の世界に足を踏み入れていく様をリアルに演じた。田んぼのあぜ道で、刑務所のガラス越しで、切々と己の境遇を訴える京子のセリフにどれほど引き込まれたことか。そして、恐らくこれほどまでに凶悪な殺人犯は初めてであろう豊川悦司とじわりじわりと理性を失う弁護士、仲村トオル。まるでこの世には3人だけというほどの濃密な世界を見事に創り上げていた。もう一度、見たい。
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by galarina | 2008-06-09 00:00 | 映画(さ行)