「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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タグ:役所広司 ( 9 ) タグの人気記事

THE 有頂天ホテル

2005年/日本 監督/三谷幸喜

「ドタバタ劇にも群像劇にもなってない」
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大晦日にホテルで起きた奇跡がコンセプトなんだろうが、豪華なおもちゃ箱をひっくり返して、適当に遊んでまた箱に戻しました、みたいな印象。で、一体どこが有頂天なんだろうか?タイトルからしてわからない。

まずこの作品は非常に登場人物が多い。ここまで多くさせるなら、とことん「あの人とあの人が!」という仕掛けやハプニングをもっともっと出してハチャメチャにしないと。この程度の繋がり具合なら、この手の作品の批評によくある「あの話はいらなかった」という意見が出ても当然だろう。「このネタはいる」「このネタはいらん」という意見そのものがまかり通ること自体、ひとつの作品としては大きな欠陥と言わざるを得ない。

大晦日の奇跡に絞ったドタバタ劇ならそれに徹すればいいものを、群像劇として心温まる物語にしようという無理矢理感も全体の統一感のなさの一因。ラストシーンはお客様を出迎える役所広司なわけで「ホテルはあなたの家、ホテルマンはあなたの家族」というコンセプトもこの作品には見受けられるが、これに関しては描き方が甘すぎる。これをメインコンセプトにして、「ホテルマンとゲスト」の衝突や対話、信頼などにスポットを当てれば、物語としてはもっと面白くなったと思う。伊東四朗、生瀬勝久、戸田恵子。この3名のホテルスタッフが全然お客様と絡んでこない。これはもったいない。

「好きなことをあきらめないで」というセリフや、鹿のかぶりもので笑いを取るなど、驚くほどベタな演出も多い。ボタンの掛け違いから次々と笑いを生みだすいつもの手法も、引っ張りすぎでつまらない。そうつまらないのだ。三谷幸喜ならもっとウィットに富んだ会話や笑いが作れるはずなのに、どうして?という悲しい声がぐるぐると頭を駆け回る。

結局ハチャメチャにできなかったのは、ハートウォーミングで上品な作品に仕上げたかったからだろう。(元ネタの『グランドホテル』ってそういう感じなんでしょうか?未見なのでわかりません)でも群像劇としてしっかり作り込むのには、登場人物が多すぎる。このジレンマに苦しんで生まれた作品と感じた。豪華役者陣勢ぞろいで舞台はホテルです!みたいな企画がまず最初にあったのかなあ。三谷幸喜は好きな作家だけにこの作品は非常にがっかり。見所は昔のワルに戻る瞬間の役所広司の演技。さすが、ドッペルゲンガー。
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by galarina | 2007-05-10 21:47 | 映画(さ行)

バベル

2006年/アメリカ 監督/アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
<TOHOシネマズなんばにて鑑賞>

「伝わらぬ思い、そして絶望の向こうに何を見る」
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(ラストシーンについてふれています)

この映画は、1本のライフルが狂言回しとなり、複数の物語がラストに向けて繋がっていく、という筋書きではない。何だかそのような宣伝をされているため、話が最後にどう繋がるのかと期待してしまう人もいるようだが、そうではない。思いを伝える術を失ってしまった人間どもの痛々しい姿を、白日の下にさらす。それが「バベル」という映画だ。

「バベルの塔」の物語は、本来同じ言葉を持つ人間が神に近づこうとして裁きを受け、異なる言語を持たされてしまったということだが、この「バベル」では現代人のディスコミュニケーションは単なる言語の壁だけによるのではない、ということを訴えているように思う。その最もシンボリックな存在が菊池凜子演じるチエコだ。なぜなら、チエコは聾唖であり、言語を持たないからだ。

アメリカ人のリチャードがモロッコ人に助けを求めて叫ぶ。メキシコ人のベビーシッターがアメリカの警察に子どもたちを助けようとしたのだと訴える。共にその願いは聞き入れられることはないが、ふたりは語りかける言語を持っている。ところがチエコの存在はこの両者とは違う。どんなに思いが強かろうと、訴える言語を彼女は持たない。そして、言葉を発することができないからこそ、さらに膨れあがる彼女の「誰かと繋がりたい」という強い衝動が胸を打つ。その痛々しい姿こそが、言語という壁よりもさらに深い溝を抱えている現代人の絶望のシンボルにも見える。

よって、私はモロッコの事件も、メキシコの事件も、まるで、チエコの絶望という主旋律を際だたせるために存在する副旋律なのか、とすら思えたほどだった。つまり、この映画の主人公はチエコではないのか、と。一糸まとわぬ彼女が父親に抱きしめられるラストシーンを観て、ますますその思いは強くなった。なぜならこのシーンは救済を連想させるからだ。

もちろん、映画の見方はいろいろあって当然であり、私がこのように感じたのは、それだけ本作において菊池凜子に圧倒的な存在感があるからだ。
前作「21g」でのナオミ・ワッツのように、菊池凜子は人間の内なる叫びを体の奥底から絞り出すようなすばらしい演技を見せている。本物の聾唖者を起用したいと考えていたと言う監督の意向に100%応える渾身の演技だったと思う。他者に受け入れられない絶望が彼女の表情からあふれ出し、私の心に突き刺さった。

それにしても、モロッコの物語も、メキシコの物語も観ていて感じるこの「はがゆさ」は何だろう。伝えられない、叶わないものたちに立ちはだかるのものは一体何か。もはや、それを言葉で乗り越えることはできない。この作品はその事実を痛烈に描いている。言葉を持たぬ者、チエコが救われ、言葉を持つ者はいつまでも理解しあうことはない。では、思いを伝えるために人間は一体どうすればいいのか。そんなことを考えずにはいられない。
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by galarina | 2007-05-06 16:30 | 映画(は行)

叫(さけび)

2007年/日本 監督/黒沢清
<梅田シネ・リーブルにて鑑賞>

「絶望と孤独を喰らう赤い服の女」
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(ラストシーンについて触れています)
まず、黒沢清監督の作品について、好きか嫌いかと聞かれると嫌いである。で、すごいかすごくないか、と聞かれると、すごいと答える。だから、しょうがなく見る(笑)。こういうのを、いやよいやよも好きのうち、と言うのだろうか…。

さて、最新作「叫(さけび)」について。これまでの黒沢作品というのはおおむね「目に見えない存在がもたらす恐怖」について描いたものが多かった。しかし、新作では「幽霊」がちゃんとした人の成りをして登場してきたのが非常に新鮮であった。ただ、これまたややこしいのは、一応「赤い服を着た幽霊」は映像として登場しているけど、これは何かの象徴であるかも知れないし、実ははなから存在していないなんて解釈も可能なのが、黒沢清。私は基本的にパンフレットを買わない主義なので、その辺は勝手に想像するしかない。

で、まさにこの「勝手に想像する」ことが黒沢作品の一番大きな醍醐味なんである。以前、「SAW」のレビューでも触れたけど、映画を見終わってあれこれ検証するのが私は好きではない。「答を求めて検証する作業」と「勝手に意味を想像する作業」には雲泥の違いがある。何せ後者の方は自分の出した答が正解なんだもの。

赤い服の女(葉月里緒菜)は、耐え難い孤独を抱えた人間の前に現れる。彼女は彼らに「全部なしにすること」を示唆する。おそらく赤い服の女は、さまざまなの人々の前にも現れているのだろう。役所演じる吉岡のカウンセリングを行う精神科医(オダギリジョー)も、幽霊の話になった途端、動揺し机の上のものをぶちまけたりしている。彼もすでに赤い服の女を見ているのかも知れない。

赤い服の女は、律儀にドアを開けて出て行く時もあれば、スパイダーマンのような飛行で空高く飛んでいくこともあって、この行動の一貫性のなさはどう考えればいいのか、非常に悩むところ(笑)。私は、ドアを開けて出て行くような描写の時は、実は死んだ恋人の春江(小西真奈美)が赤い服の女として目の前に現れているんではないかな、なんて想像してみたりもした。ラストシーンは、春江の叫びである。ただし、音は消されている。その叫び声は、劇中赤い服の女が発していたものではないかと思うのだ。そもそも、最初の死体も赤い服を来ていたし。

しかし、あの叫び声はすごかったですね。声でR指定出されてもおかしくないんじゃないでしょうか。落ち込んでる人が聞いたら狂ってしまいそうです。

埋め立てられる湾岸地帯が土壌となり、人間の孤独を糧に赤い服の女は増殖し続ける。ただひとり「許してもらった」吉岡は、誰もいなくなった湾岸地帯をひとり彷徨い続けるのだろうか。この「許される」ということをどう解釈するのか、というのも面白いところだろう。

あなたもふと、鏡をのぞくと、赤い服の女が見えるかも知れない。なぜだか知らないけど海水を汲みたくなるかも知れない。そう思ってしまう人は、十分に鬱状態。黒沢作品は、カウンセリングに行くより簡単なリトマス試験紙だ。
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by galarina | 2007-03-26 22:52 | 映画(さ行)

砦なき者

2004年/日本 監督/鶴橋康夫 脚本/野沢尚

「テレビを信じてはいけない」
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破線のマリス」に引き続き、テレビ局の功罪をよりセンセーショナルに描いた傑作。テレビドラマだけど、DVDも出ているので多くの人にぜひ見て欲しい。

「破線のマリス」よりもメディア批判はさらにパワーアップしてる。実際公式HPの原作者よりというページで野沢氏自身が、『この「砦なき者」のテーマは、テレビを信じてはいけないということ』、と言い切っている。テレビドラマというジャンルで曲がりなりにもギャラをもらっている人が、ここまで痛烈な批判を行う勇気はあっぱれだと思う。

そして、恋人の自殺はメディアの報道にあると訴えて一躍カリスマになっていく妻夫木聡が非常にいい。実は、私はオンエア当時、この悪役を妻夫木君がやると聞いて、少々不安だった。でも、蓋を開けてみればなんの、なんの。影のある青年を見事に演じてる。2003年の「ジョセと虎と魚たち」、2004年の「砦なき者」で妻夫木聡は、確実に演技派への階段を上ったと思う。

妻夫木聡演じる八尋樹一郎は、報道の被害者という世間の同情をうまく利用してカリスマになっていく。これは、メディアそのものが「叩かれることに慣れていない」ことをうまく利用しているわけだ。つまり、被害者だと訴えられたことで萎縮してしまい、彼に対してまるでお手上げ状態。お祭り騒ぎは上手だが、批判されるとめっぽう弱いメディアの体質。しかし、メディアをそのように甘やかしているのも私たち自身なのだ。メディアに映るものを本質と受け取ってしまう、大衆心理の愚かさ。我々、日本人は実に「批判精神」が欠けている。

メディアに復讐したい男、八尋と八尋によって人気キャスターの座を追われた長坂(役所広司)が対決するラストシーンもすばらしい。揺れ動く人間心理を巧みに描く野沢尚氏の脚本が、一級品のドラマを創り出す。最初から最後まで続く緊張感は見応え充分。見終わった後、確実にメディアなんて信用できない、という気持ちになるだろう。そして、そんな批判精神でメディアを捉え続けた野沢尚のドラマがもう見られない、という事実もまた、深く胸に迫る。
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by galarina | 2007-03-04 14:07 | TVドラマ
2007年/日本 監督/周防正行
<新京極シネラリーベにて鑑賞>

私は、なぜ映画が好きなのかと考えてみる
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正直に言っていいですか?私はこの映画、あまり楽しめなかった。「映画を楽しむ」ってことは、私にとって何なのか、自問自答したくなるような映画でした。

「楽しむ」と言っても、笑ったり、喜んだりすることだけを指すのではもちろんなく、つらかったり、悲しかったりしてもそれは「映画を楽しんだ」ことになるのです。ところが、この作品はそうは感じなかった。まさにこの映画は日本の裁判制度の不備を広くいろんな人に知らしめたい、という周防監督の並々ならぬ思いが詰まった映画です。それは役所広司自身も劇中語っています。痴漢冤罪事件には日本の司法制度が持つおかしな点が全て詰まっていると。だから、周防監督は徹底的にリアリズムを追求した作品を仕上げた。それは、重々承知しているのです。

その徹底したリアリズムを出すために、この映画には情緒的な演出が一切排除されている。そこが私が入り込めなかった一番の理由。例えば無実の罪で3週間も留置されて徹平がようやく外に出てきた時、彼は何だかんだを力を尽くしてくれた友人(山本耕史)にありがとうのひと言をかけることもない。それが、すごくひっかかってしまった。何も「おまえのおかげで俺は助かったよ。なんていい友人を俺は持ったんだろう」と泣きながら加瀬亮に言って欲しいわけじゃない。そういう演歌的世界って、私は好きじゃないから。

心の動き、なんです。そこが何だか物足りないって一度思ってしまうと、淡々と続く裁判制度の歪みばかりが重くのしかかってくる。しかも、何だかみんなすごく「かたくな」な人物ばかりだなと思うのです。どの人物も裁判を通じてでしか、そのキャラクターが伝わらない。勝手な調書を作り上げる刑事も、嫌々ながらも裁判を引き受ける新米弁護士も、この裁判に関わることで様々な心の揺れがあるはず。だけども、その心の向こう側を感じられない。

おそらく、周防監督は敢えてその心の揺れを排除している。だから、観客はそのまま受け取るしかない。そこで、私はなぜ映画が好きなんだろうという自問自答に戻ってくるわけです。あまりにも絶賛レビューが多いので、私が鈍感なのかなあと思ったりもして。日本の裁判ってヘンだ!ってのは、よーくわかったんですが、私の心は揺れなかった…。

いい人、悪い人ということは抜きにして、裁判官役の二人が光ってましたね。この2人の演技には、向こう側を感じました。特に小日向文世。裁判官が彼に変わったことが、この映画で最も大きなうねりを出していた。公判が始まってからの描写があまりにも静かに淡々と進んでいたのでなおさらです。

日本の裁判制度がいかにおかしなものか、それ1点のみを痛烈に伝えたかった。ええ、周防監督、それはとてもよくわかりました。心して受け止めました。でも、私はもっと心を揺さぶられたかった。それは、次回作にお預け、ということなんですね。
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by galarina | 2007-02-13 23:49 | 映画(さ行)

Shall we ダンス?

1996年/日本 監督/周防正行

「ウンチクを捨て、男の居場所を描いた」
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修行僧、相撲と来て社交ダンス。マイナーな世界にスポットを当てた周防作品のトリを飾った作品がこれ。「ファンシィダンス」「シコふんじゃった」と連続して見て気がついたのは、この作品は社交ダンスのウンチクを訳知り顔で語ったりはしていない、ということだ。「ファンシィダンス」では主人公の生活ぶりをていねいに見せながら修行僧の作法や寺の習わしを語っていたし、「シコふんじゃった」では穴山教授が相撲の歴史や面白さを語ってくれた。

しかし、「Shall we ダンス?」では、社交ダンスってのはね、とあれこれ語るシーンはほとんどない。しかし、主人公の心の流れとオーバーラップさせながら社交ダンスを見せることで、最終的には「社交ダンスって面白いもんなんだ」という気づきを観客に与えている。その押しつけがましくない手法こそが、社交ダンスをここまでブームにさせた一因ではないだろうか。

また、マイナーな世界をおもしろおかしく紹介するだけではなく、周防監督は今作で「男の居場所」について提示して見せたことが多くの人々の心を捉えた。会社でもない、家庭でもない、ダンス教室こそが主人公杉山(役所広司)の居場所だった。ステップ一つ踏めない杉山が努力してどんどん上手くなる姿は、まわしが似合うようになるモックンよりも様々な意味を含んでいる。

しかも、杉山の思いはいったん断ち切られる。上手になりました、バンザイ!という結末にはしないところがニクい。杉山はダンスを好きであったと同時にダンスに逃げていたのだと観客に示すのだ。そうしていったん、落としておいてから再び心温まるラストのダンスシーンへ。この流れが実に巧みだ。

杉山に手紙を書いた後、ひとりダンス教室で踊る草刈民代のダンスシーンがいい。夕日の差し込む誰もいない教室で、白いワンピースを着て軽やかにターンする姿は、さすがバレリーナの美しさ。監督が惚れるのもわかります。
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by galarina | 2007-02-06 00:37 | 映画(さ行)
2005年/日本 監督/青山真治
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原作「レイクサイド」は読んだのだけど、正直他の東野作品に比べて、サスペンスとしてのトリックも、人間描写も今ひとつだと言わざるを得ない。このオチって、結構ミステリファンには「ありがち」な設定じゃない?ところが、である。映画で見てみると、何とも言えない居心地の悪さが妙な余韻を引きずる作品である。

この作品は、キャスティングがうまい。はまるべきピースにぴったりのものが収まっている。確かに「この人がこんな役やるの?」というアンマッチな組み合わせは、成功した時に予想以上の喜びを生む。しかし、ぴったりの役をぴったりの役者が演じる場合そこに驚きはない。それでも、面白い。

まず、何考えてるかわからない家庭教師の豊川悦司。もともと色白で細面の顔が夜の湖畔で浮かび上がるとさらに不気味。(言っておきますけど、私トヨエツ大好きですから)なんか、コイツくさい!というミスリーディングをしっかりやってのけてくれます。

それから、柄本明。飄々と死体処理をするあたりが、いかにも柄本明。言ってることめちゃくちゃだけど、何だか坊主の悟りを聞いてるみたいでつい言うこと聞いちゃう。

そして、薬師丸ひろ子。この人案外、性悪女が似合う。ちょっとツンとした顔立ちで、人当たりはいいが腹の底では何考えてるかわかんない女が妙にハマる。

で、真打ち役所広司。俺のいないところで何があったんだよーっと叫び、もがき、悩み、頭をかきむしる。その暑苦しいことこの上ない。この人が焦れば焦るほど、見ているこっちもじっとり汗かいたみたいに湿っぽくなる。役所広司が狼狽し、あわてふためき、もがく。それを見るためにこの映画が存在している。そう言ってしまってもいいくらい。だんだん、その慌てている様子がコメディじゃないか、という気すらしてくる。

お受験のためにわざわざ合宿まで同行してくる両親たち。だが、最終的に誰もが「自分の子供のことがわからない」と言う。そこにあるのは、つかみどころのない親と子の距離感。こういうモチーフは、他の東野作品にもよく出てくる。親と子の間に流れる大きな川。ただね、映画ではこの話がすごく唐突に感じるんだな。いきなり、しんみりしちゃって、ちょっと残念。この気持ち悪い不気味さでラストまで突っ走れなかったかな、と思う。

ミステリーだと思って見るとたぶん物足りない。むしろ、役者の魅力を引き出した舞台劇みたいな感覚で見れば、堪能できる。原作を読んでいた私は、はなから後者の気持ちで入ったのが幸いした。


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by galarina | 2006-09-27 23:25 | 映画(ら行)

SAYURI

2005年/アメリカ 監督/ロブ・マーシャル
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「ラストサムライ」同様、「ここが違う!」とツッコミを入れないことを肝に銘じて見始める。

さて、この作品は貧しく田舎から置屋に売られてきた少女さゆりの波瀾万丈物語である。しかし、チャン・ツィイーという女優はその感情表現の豊かさにおいてとても優れた女優であるはずなのに、今作品ではどうも全体的に表情が「こわばった」ような感じが否めなかった。「何があっても動じない、凛とした一流の芸者」を演じることが邪魔をしているのか。それとも、チャン・ツィイーには、これが精一杯なのか。

会長様への秘めた思いや戦後再び芸者として復帰する決意などがもっともっと表情で伝わってもいいはずなのに。そこがとても残念。見終わった時の物足りなさは、この部分がすごく大きいと私は感じた。

私が一番楽しめたのは「アジアを代表する美しい女優たちの競演」という点においてである。もともと私はコン・リーという女優が好きだ。女の情念をぷんぷん匂わせる妖しげな役がよく似合う。なぜか「コン姐さん」と呼びたくなる(笑)。もちろん、今作でも妖艶。ただ置屋にいる時のコン姐さん、その崩れ方は芸者というより遊女だよ…。

そして豆葉を演じるミシェル・ヨー。私、この方の作品あまり見てないんですけど、一番美しかったんじゃないですか。着物が非常によく似合ってました。売れっ子芸者としての品格が漂っておりました。そして、日本代表、桃井かおり。(えっ、工藤夕貴ですかね…)まあ、何をやってもウマイですよ、この人は。日本人を日本人が演じているわけですから非常に安心して見れましたしね。

ただね、さゆり、初桃、豆葉。この主演級3人に、やはり日本人女優が入って欲しかったな。芸者とはこういうものよ!と本物の優雅な舞いを見せて欲しかった。じゃあ、誰がいるという現実的な話はおいといて。

「さゆりと会長、延さんをめぐる三角関係」か「さゆりを巡る置屋のドロドロ模様」のどちらかにもっと中心をおいても良かったんではないかな。ちょっと大風呂敷を広げてしまったなあ。だから、どれもが中途半端な感じで。「さゆりVS初桃」なのか「さゆりVSおカボ」なのか、このあたりの構図ももっとシンプルにすれば良かったんでは…とちゃちゃを入れ始めるときりがない。

気にしない、と思い始めて見たけれど、どうしても気になったのは2点。
●日本語と英語が混在している
「ねえねえ」とか「みてみて」とか何気ない日本語のセリフの後に英語。これは絶対おかしいだろう。置屋の雑踏のざわめきも日本語。とにかく全編英語にして欲しかった。会長様を「Chairman」と呼ぶのなら「延さん」は「Mr.Nobu」にしてほしい。(おカボはPumpkin!と呼ばれていたのにさ)
●BGMの尺八
何でアメリカ人はこんなに尺八ミュージックが好きなの?ぶぅうぉうぉ~~んという尺八の音色聞くと、茂みからさ~っと忍者が出てきてそうなチープなニンジャ映画を連想しちまうよ~。でも、ジョン・ウィリアムズなんだよなあ。ラストのヨーヨー・マは良かった。全部ヨーヨー・マに任せても良かったんじゃないのかなあ。

衣装や美術は、豪華絢爛。さすがハリウッド、金かかってます!でもなあ、さゆりという一人の女の人生の浮き沈みをもっと心に迫るように表現して欲しかった。そうそう、渡辺謙より役所広司の方が発音上手。そして、いつもながら、暑苦しかった。いいぞ、役所!


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by galarina | 2006-09-21 13:31 | 映画(さ行)

CURE キュア

1997年/日本 監督/黒沢清

「今まで出会った映画でいちばん恐ろしいラストシーン」
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私は未だかつてこれ以上恐ろしい作品を見たことがない。あのラストシーンを見たときは本当に背筋がぞっとして、しばらく動けないほど怖かった。そして、思った「黒沢清なんて大嫌いだ」と。

しかし、この作品の魅力に抗えないのも事実なのだ。大嫌い、大嫌いと何度心の中で叫んでも、この作品の持つ魔力にがんじがらめにされてしまう。これほどのアンビバレンツに苦しめられる映画は、他にはない。思い切って降参してしまえばいいものを、なんだか無性にそれは嫌なのだ。そして、新作ができるたびに黒沢清の映画を見て、やっぱりこの人は嫌いだと唱える自分がいる。そうせずには、悪魔に魅入られてしまいそうで怖いのだ。

今作品は精神学的にも哲学的にも非常に深い考察ができる傑作だと思う。いわゆる猟奇殺人ものとは完全に一線を画している。しかし、私がこの映画に感じる嫌悪感は、「近寄ってはいけないモノ」だという本能だ。バカげた話かも知れないが、私は子供を産んでから明らかに嗜好が変わった。生命をおびやかすもの、健やかな精神を害するものを遠ざけようとする本能が生まれた。これは紛れもない事実だ。誤解のないように言っておくが、それは全ての女性に共通しているというわけではない。あくまでも個人的な体験。そのアンテナがこの作品には強烈に反応する。針が振り切れんばかりに、近寄ってはならぬ、と警告するのだ。しかし、物語が始まると、逃げようにも足がすくんで動けない強烈な魔力を放つ。ああ、本当に恐ろしい。

さて、今作の持つ悪魔的な魅力をさらに高めているのは二人の主演俳優であることは間違いない。癒しの伝道師、間宮を演じるのは萩原聖人。出会った人々を独特の話術で催眠にかけ、殺人者に仕立て上げる記憶喪失の放浪者。彼の人を食ったような話し方は、本当に不快だ。執拗につぶやく「あんたは誰だ」というセリフが頭から離れない。精神に異常をきたしているのは明らかだが、悟りを得たかのような雰囲気が出会う者たちを惹きつける。そういう難役を萩原聖人は見事に演じている。個人的には彼の一番の作品だと思っている。

そして、刑事の高部を演じる役所広司。この人が画面に出るだけで、非常に暑苦しい。この暑苦しさが黒沢清のダークな世界と組み合わさると、もう息苦しくて仕方がない。役所広司が悩み、苦しみ、叫ぶたびに観ている私は酸素不足ではあはあしてしまう。黒沢作品に欠かせない存在になるのも納得。精神を病んだ妻を支える一見妻思いの刑事が、間宮と出会うことで妻への殺意を表出させる。そして、間宮を追い詰め殺すのだが、伝道師としての役割は高部に引き継がれたのだった。しかも、その能力が格段に上げられた形で。

薄暗い病院の内装、間宮の異様な部屋、ひからびた猿、どこを走るのかわからないバスなど、人々の精神を逆なでするような映像の洪水。しかし、最も気分を悪くさせるのは、精神を患った高部の妻が回している空っぽの洗濯機の音だ。ぶぅんぶぅんと四六時中鳴り続ける洗濯機の音。あんな音を聞かされていたら、誰だって頭がおかしくなってしまうだろう。

ファミレスのラストシーンには、心底戦慄を覚える。しかも、これが非常に引いたショットで、まるで他人事のように醒めた視点の映像なのだから余計に怖い。誰かが死んだり、血が流れたりなどという直接的な表現ではなく、「示唆する」という方法でここまで人々に恐怖を与えることができるのだと思うと、映像表現の力とは何と大きいものだろうか、という感慨すら覚える。もし、万一街で黒沢清に出会っても、私は絶対に話しかけたりしないと思う。

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by galarina | 2006-09-03 15:11 | 映画(か行)