「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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アキレスと亀

2008年/日本 監督/北野武
<TOHOシネマズ二条にて鑑賞>

「自虐の三部作、最終章。そして出発」
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てっきりみなみ会館での上映だと思ってたら、驚きのTOHO系シネコン上映でした。本作は、途切れることなく絵画が出てきますので、大きなスクリーンで鮮やかな色彩を堪能できて、これはこれで良かったです。日曜日の昼間の鑑賞でしたが、(私の)予想以上にお客さんは入っていました。6割程度でしょうか。これまた、驚き。これは、樋口可南子効果なのでしょうか。よくわかりません。

「好きではないけど、自分にしかできないものなら全うすべき」という仕事論にいたく感動した「デトロイト・メタル・シティ」と対極の作品。こちらは「好きなことなら、何が何でも続けるべき」という主張です。これはこれで、とても感動しました。敢えて言うなら「絵を描くのが好き」ではなく「絵を描くことしかできない」男の物語。

主人公、真知須の周りでは、ばったばったと人が死んでいきます。まるで、疫病神のようです。その中には、その人の死が明らかにトラウマになるようなものも多数あるのですが、真知須は絵を書くことを止めません。 それらの死が彼にどんな影響を与え、また、その死を彼がどう受け止め、乗り越えていくのかに物語をクローズアップさせれば、これはもっともっと感動的なストーリィに仕上げられることは、間違いありません。しかし、ご存じのように北野武は、そのような感傷的に物語を進行させることは一切しません。実に飄々と何事もなかったかのように、ただただひたすらに真知須は絵を描き続けるのです。

さて、「TAKESHI’S」「監督、ばんざい!」と三部作だと考えるのならば、真知須はやはり「好きな映画を撮り続ける北野監督自身」だと言えるでしょう。そうすると、親子二代に渡って彼の絵をけちょんけちょんにけなしたり、あれこれ文句を言っては売り飛ばしてこっそり儲けている悪徳画商の存在は、さしずめ映画プロデューサーになるのでしょうか。大森南朋が嫌味な男を演じていますが、バッチリはまってます。 基礎を勉強しろだの、流行を知らないだの、言いたい放題です。映画の勉強をせずにいきなり監督デビューした北野監督に浴びせられたこれまでの罵詈雑言を彼に言わせているのかとこれまたオーバーラップします。

映画の中盤では、真知須が仕事を抜け出しては仲間たちとアート活動に興じるのですが、ここがとても楽しいんですね。スクリーンには常に鮮やかな色彩が踊っていますし、若いからこそできる無茶ばっかりやって、アートとは何ぞや!と青臭く息巻いている様子が観ていて微笑ましい。この、中盤の高揚感こそ、北野マニアではなく、一般的な観客からもこの映画が支持される(とするならば)ポイントではないかと私は思いました。

本作では、それまでの多数の死も含め、人々の目を楽しませ、心豊かにさせるという芸術が持つ良い側面は、一切描かれません。真知須の志す芸術はただ周りを不幸にし、己に何の見返りももたらさない。真知須自身絵を書くことで、心が満たされているかというと全くそんなことはない。最終的には狂気をまとい、遺影の中に収まる自分をアートに見立てて、死と隣り合わせの時を過ごす。それでも、描かずにはいられない。そんな心境を北野監督は、「ようやくアキレスは亀に追いついたのだ」と自ら終結させた。これにて、いったん己を見つめる作業は終了、ということになるのでしょう。次回作は何になるのか楽しみです。
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by galarina | 2008-09-22 14:13 | 映画(あ行)

みんな~やってるか!

1994年/日本 監督/北野武

「賢く見せないためのお下劣」
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この作品は「監督、ばんざい!」と構造的にとてもよく似ています。これがベースなのでは?と思えるほど。「カーセックスがしたい」という目的のために、手段を選ばずあれこれ挑戦するバカ男。この前半部は、ヤクザ映画は撮らないと宣言した北野監督があの手この手でいろんなジャンルに挑戦するくだりとそっくり。そして、そのバカ男が主人公だったのに、突然北野博士の手によってハエ男に変身させられ、件の「カーセックスがしたい」という話はどこかに行ってしまい、ハエ男駆逐作戦へと物語はまるきり違う方向へと転換します。これも「監督、ばんざい!」において北野監督の苦悩はどこかへ行ってしまい、鈴木杏と岸本加世子が主人公に取って代わるのと非常に似ています。

「目的を持った主人公=主体」が、何かのきっかけで客体に転じてしまう、という構造。「監督、ばんざい!」の場合は、この客体となった北野武は人形であり、さらに構造的には複雑になっていると思います。この作品は5作目で、直前に「ソナチネ」を撮っていますので、北野監督としては、物語の構造を壊して、再構築するという作業に、挑戦してみたかったのではないでしょうか。まあ、それを何もこんなお下劣なネタで…と思わなくもないですが、知的な見せ方にするのをシャイな北野監督は嫌がったんじゃないかな。最初の目的は「カーセックスがしたい」でも「宇宙飛行士になりたい」でも何でも良かったのかも知れません。

「大日本人」は、あまり気に入りませんでしたけど、「笑い」というツールを使って実験したい、という意思は、さすが同じフィールドで活躍する者同士。また、それが同年に公開であった、という偶然には、ある種の感慨を覚えます。でも、北野監督が4作撮って、この実験を行ったことと、デビュー作でいきなり実験をやっちゃったこととの間には大きな隔たりがある気がしてなりません。
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by galarina | 2008-04-19 22:37 | 映画(ま行)

監督、ばんざい!

2007年/日本 監督/北野武

「徹底的な自己破壊は全ての映画監督への挑戦状」

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「小津的空間で首を吊る」
「TAKESHI’S」で分裂させた自己を、徹底的に破壊するのが目的で作られた本作。何を撮っても駄目な北野監督が続く序盤。その駄目な作品群は、全てが「○○モノ」というジャンルで称されるものばかりだ。「悲恋モノ」「忍者モノ」「昭和モノ」…etc。それらが撮れないと自虐的に嘆いてみせるものの、これは明らかな「○○モノ」とイージーにカテゴライズされてしまう映画への徹底的な批判。そして、それは同時に「○○モノ」という冠がつけばヒットする映画を撮っている監督たちへの批判であり、挑戦状ではないだろうか。ここまで、同業者をこてんぱんに批判して大丈夫なのかと心配するのは、私だけだろうか。面白いのは、そのようなジャンル別作品の中で、小津安二郎の作品だけが固有名詞で挙げられていること。しかも、この小津的空間で北野監督の分身人形は首を吊っている。映画ファンなら、この一瞬のカットにドキリとしないわけがない。果たして、このカットが意味するものは何か。小津作品について語るものを持っていない私など、このカットをどう理解していいのかお手上げだ。小津作品には叶わないという白旗なのか、それとも小津的なるものを追いかけることは、すなわち己の首を絞めることであるという日本映画への示唆か。

「脱線しまくる映画は、一体誰のものか」
脱線に脱線を重ね、物語としては全く破綻してしまう後半部。その破綻ぶりを岸本佳代子と鈴木杏が嘆くシーンにおいて、「そんなのコイツに聞きなさいよ」と分身人形は何度も殴られる。そして、延々と続く笑えないベタなギャグ。果たして、ここに「観客」という概念が存在しているのかどうかすら疑わしい。北野監督が試みているのは、「映画」と「観客」の断絶なのだろうか。己を否定し、観客との関係性を断ち切った上で、最終作にとりかかる。本作はそのための準備作品のような気がしてならない。首をくくっても、殴られても、ラストの宣言は「監督、ばんざい!」。好調と言われる今の日本映画界において、映画監督たるものを見つめることに徹する北野監督。そもそもタイトルは、「OPUS 19/31」だったとか。そう言えば、フェリーニの「81/2」は、スランプの映画監督が現実と妄想を行ったり来たりする話だったけ。こりゃ、完結編をじっと待つしかないのかな。
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by galarina | 2008-02-29 18:19 | 映画(か行)
1991年/日本 監督/北野武

「優しさと、愛と」

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「退屈な映画」とは、何をもって退屈と感じるのだろう。私は何度もこの作品を見ているが、このあまりにセリフの少ない、あまりに静かな物語を、退屈だと思ったことは一度もない。主人公が泣き叫んだり、爆弾がひっきりなしに落ちたりしても、退屈だと思う映画はいくらでもあるのに。

主人公二人のバックボーンについて、映画は一切を語らない。しかも、二人は言葉が不自由だからセリフがない。我々は見ながらそれらを想像するしかない。しかし、この作品には、想像しなければならないことの「もどかしさ」がない。そこが退屈だとは思わない大きなポイントなのだと思う。なぜ、わからないことがもどかしくないのか。それは、セリフではなく映像が我々に語りかけているからだ。全てのシーンが、私たちに語りかけている。それに耳を傾け、想像することの何と楽しいこと。

例えば、主人公の彼女がサーフボードの値引きを頼んでいるシーン。カメラは主人公の位置にあり、彼女はガラス越し。聾唖の彼女が一体どうやって値引きを頼むのか。その様子もガラス越しゆえによくわからない。こんな些細なシーンでも、私は様々な想像が頭をよぎる。もしかして、彼女は耳が不自由でも、言葉はしゃべられるのかも知れない、というストーリー上のイマジネーション。

そして、北野監督は彼らが聾唖であるという事実をことさら映像で強調したくないのかも知れない。または、主人公の彼女を思いやるハラハラした気持ちを観客に同化させるためにこのようにしたのかも知れない、という演出上のイマジネーション。北野作品の場合、「このシーンはこういうことかしらね」と自分なりの想像や感じ方を誰かと語りたいシーンが本当に多い。本作は、セリフがとても少ないので余計なのだが、挙げ始めるときりがないのだ。

サーフボードという小道具の使い方で二人の思いや距離感を表現するやり方も実に巧い。前と後ろをふたりで持って堤防を歩く様子で、心の動きが手に取るようにわかる。いつも、ボードのお尻を持って、彼の後を控え目に歩いていた彼女。なのに、主人公の死後の回想シーンでは、彼女がサーフボードの前を持って、大手を振って浜辺を行進している様子が挿入される。もう、これには、参りました。涙腺弾けちゃうし。

この幸せだったあの頃の一コマが次々と挿入されるラストシークエンスは、見せないことを信条とする北野作品にしては珍しいと言えるほどのわかりやすさ。しかし、やはり「愛」を描くんですもの。最後にこれくらいは盛り上げてもらわないと。「愛」を真正面から捉えた北野作品は、今のところこれしかなく、何とかもう1本作ってくれないかな、と願うばかり。

そして、本作では「思いやり」や「優しさ」と言ったものが実にストレートに表現されている。(ストレートと言っても北野武なんだからハリウッドばりのストレートさじゃないですよ、もちろん)清掃車の相棒の河原さぶとサーフショップの店長。この二人が示すじんわりとした優しさの表現を見れば、北野武なる人物が死と暴力の表現にがんじがらめになっていないことは明らか。愛はもちろんのこと、難病や介護などヒューマンなテーマだってきっと面白い作品が撮れそうな気がする。まあ、武のことだから、そんなストレートな題材選びはしないんだろうけど。
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by galarina | 2007-08-28 23:13 | 映画(あ行)

ソナチネ

1993年/日本 監督/北野武

「死に向かう美しい舞踏」
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およそ映画作家であるならば、物語の起伏や役者の演技に頼らず、「映像の力」だけで、とめどないイメージの喚起を呼び起こせる、映画にしかなし得ない力強くも美しい瞬間を創りたいと誰しも願うはず。「ソナチネ」における浜辺での相撲シーンはまさにそれでしょう。私は、このシーンを見るというだけでも、この作品をお薦めできる。

浜辺に打ち上げた藻で土俵を作り、シコを踏む男たち。一糸乱れぬ相撲の所作は様式的な美しさを見せるし、これから死にゆく男たちの儀式のようにも見える。映像が醸し出すイメージに胸を打たれるということほど、映画鑑賞における至高の体験はなく、北野武は、4作目にしてその至高の瞬間を作ってしまった。

間違いなく俺たちは死ぬ。その確信を目の前にして繰り広げられる男たちのお遊び。それは、時におかしく、時に切なく、時に美しい。私は、この作品を見てなぜだか一遍の舞踏を見たような感慨に見舞われた。人間は誰でも死ぬのだとするなら、この作品は全ての人に訪れる死の前のダンス。無音の舞台の上でしなやかな体の男が静かに粛々と踊り続け、そしてまた静かに舞台の上で死んでいく。そんな映像が頭から離れない。

北野武は決して「そのもの」を描かない。銃声が響き、血しぶきが湧いている場面でも、画面に映し出されるのはそれを傍観している男たちの顔だ。殴り込みに出かけすさまじい殺し合いが起きても、そこに映っているのは明滅する弾丸の火花。それらの静かな映像は常に「死」と隣り合わせであるからこそ、切なくリリカルに映る。

また本作では武ならではのユーモアも非常に冴えている。殺し合いに行くのに遠足バスのように見せたり、スコールの中シャンプーをしていたら雨が突然止んでしまったり。これらの「笑い」は何かの対比として描かれているのではなく、もしろ「死」そのものが「笑い」を内包しているから描かれている。つまり、人は誰でも死ぬ、そして死にゆくことは滑稽なことである、という武独特のニヒリズムがそこに横たわっている。

繰り返すが、浜辺での一連のシークエンスは本当にすばらしい。北野武以外の誰も思いつかない、誰にも描けない映像だと思う。
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by galarina | 2007-08-15 14:53 | 映画(さ行)

3-4x10月

1990年/日本 監督/北野武

「間」の才能
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原案・脚本・監督全て北野武メイド。本来の意味では、これが監督デビュー作と言える本作。実に面白いです。もちろんサスペンスやエンタメ映画を見て「あ~おもしろかった」という「面白い」ではございません。やはりこれは北野武にしか作り出せない面白さ。しかも、出演者のほとんどが「たけし軍団」。演技という演技は、全くと言っていいほどない。それでこのような映画が作れるのだから、全く演技って何だと叫びたくなる。

HANA-BI」でも書いたけど、「間」の使い方がうまい。もう、ほんとそれに尽きる。タイミングと長さが絶妙。例えば、ぶんぶんとバットを振っているだけのシーン。それが、やけに長いと何かが起きるのかなと言う期待が生まれる。例えば、バットが飛んでいっちゃうのかな、とか、ボールがどっかから飛んできて頭に当たっちゃうのかな、とか。ところが、何も起きなくて突然ぱっと違う画面になってしまう。そこで観客は裏切られたような感触が残るのだけど、それはバットを振っているという映像と共にしっかり心に焼き付いていて、「バットを振る」という行為に何か意味があるのだろうか、という考えにまで及んでいく。「間」のもたせ方ひとつで、こんなに観客の感じ方に奥行きが出せるところに、北野武の才能があるんだと私は思っている。

主人公は、柳ユーレイ。その他、比較的出演シーンの多いのが、ガダルカナル・タカとダンカンなのだが、この3人の演技が非常にいい。それは「演技している」とはおよそ言えたものではない。セリフは棒読みだし、でくのぼうみたいに立ってるし。だけども、武が描き出す世界の雰囲気にぴったり合っている。たぶん、監督による表情の切り取り方がうまいのだと思う。人物はバストアップで捉えた画面が多く、語り手は手前で映っておらず、ぼんやり話を聞いているダンカンだとか、ユーレイの間抜け顔が映っているだけなのだけど、やはりその間抜けな雰囲気に独特の「間」が存在していて、どうしても画面に引きつけられる。ぼんやりしたムードなのに、画面に吸い寄せられてしまうという感覚も、これまた北野武ならでは。

目の前では実に直接的な暴力が描かれているにも関わらず、全体のトーンはあくまでも一定で、波風が立たない。しかし、だからこそ、ドキッとするんですね。ピストル出して、何かセリフ言って、ツカツカ歩いていって、と言う暴力描写は、観客に対して「さあ、これから始まりますよ」と教えてあげているわけだけども、北野武はそうやって観客を甘やかしたりしない。予告もなければ、余韻もない。撃たれたら、もんどり打って苦しんで死ぬまでのたちうちまわるようなこともない。ゆえに暴力のリアリズムが際だつ。

さて、沖縄のインテリヤクザとして、豊川悦司が出演。彼は今までの役者人生で最も大きな影響を与えた人は誰かというインタビューで、渡辺えり子と北野武だと語っているのだけど、影響云々を語れるのかしら、というほどのちょい役。でも、現場での衝撃は強烈だったと語っており、北野武の何がそれほど彼にショックを与えたのか、実に興味深い。

前作「その男、凶暴につき」では、子供が遊ぶバットが一瞬のうちに凶器になってしまうシーンがあったが、本作でものんびりした草野球チームの様子とそんな彼らが暴力に呑み込まれる様子が淡々と描かれ、静かな日常と暴力を同じ平野で捉え続ける北野武らしい作風を堪能できる。興行的には失敗したらしいが(そりゃそうだろう)、興味深い作品であることは間違いない。暴力映画でありながらも、冴えない男の少し遅れた青春ストーリーとしても見ることができるところもこの作品のすばらしいところだと思う。
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by galarina | 2007-08-06 23:26 | 映画(さ行)

その男、凶暴につき

1989年/日本 監督/北野武

「排除の美学の始まり」
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深作監督が急遽降板して…と言われている本作だけども、そこから一体どこまで北野色に変えることが可能だったのだろう。この徹底的に乾いた暴力描写と、物語の排除という北野スタイルがすでに本作で確立されているのを見るに北野武の中で作りたいものがくすぶり続けていたのは、間違いなかろうと思う。代打に備えて、十分にバットを振ってきたということだろうか。

まず主人公吾妻という人物に関しては、ほとんど詳細を語られることはない。しかし、静かな日常にもたらされる突発的な暴力を通して浮かび上がるのは吾妻の絶対的な孤独感である。また、サティの音楽に合わせて歩道橋を登ってくる吾妻の登場シーンが実に印象的。しかも、この登場シーンからすでに死の予感が漂っている。後輩の菊地がラストで同じように歩道橋を上がってきて、吾妻をオーバーラップさせる見せ方なんて、とても代打とは思えない旨さがある。

物語の排除の最たるものは吾妻の友人岩城が麻薬の密売人になったいきさつを全く見せないところだろう。その核心は、吾妻と岩城が喫茶店で話している姿をガラス越しに映す、という数秒のワンカットで過ぎ去る。警察内部に麻薬を回している人物がいること、しかもその張本人が主人公吾妻の友人であるという2点において、物語上大きな起伏が出る場面である。こういう物語のターニングポイントを、無言のワンカットで済ませてしまうという大胆ぶり。そして、続けて岩城の死体。岩城のいきさつが何も語られないからこそ、突如現れるこの「死」のイメージが強烈に刺さってくる。

この物語の排除というのは、「観客の想像にお任せします」という類のものとはまるで異質なものだろう。例えば、ラストを意味深なものにして後は「自分で考え、感じて欲しい」というシーンには作り手が観客に想像を委ねるという意図がある。しかし、北野武は浮かび上がらせたいイメージをより鮮烈に見せるために、物語を排除していく手法を使用しているのだと思う。そういうテクニックをすでに処女作で自分のものにしていることにも驚きだ。

そして、凶暴と言うよりも静けさの際だつ演出の中に、時に浮かび上がるホモセクシュアル的匂い。黒幕仁藤と仁藤のためなら何でもする殺し屋清弘との関係はもちろん、清弘と主人公吾妻においても追いつ追われつの関係性の中でふたりの魂は互いを惹きつけ合っていることを想像させる。もちろん感情的な演出は全くないため、そのような匂いをかぎ取る私の感じ方は監督の意図からは外れているのかもしれない。それでも、ストーリーとは別のイメージが自分のアンテナに引っかかってくるというのは、おそらく排除された物語を埋めながら映画を見ているからに他ならないからだと思う。

そして、この乾いた暴力描写は、近年多数公開されている韓国映画の暴力シーンに影響を与えているのは間違いなかろう。

このデビュー作において「お笑い芸人ビートたけしが作ったんだから、わかりやすい映画のはずだ」という人々の勝手な思いこみは根底から覆された。この時広がった拒否反応は未だにくすぶっている。「お笑いの人が作る映画=面白くてわかりやすい」という勝手な認識と「北野作品=わかりづらい映画」という後付けの認識がいつもねじれを起こしているように感じる。しかし我々は映画作家、北野武の作った映画をただ受け止めるだけだ。
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by galarina | 2007-05-31 23:06 | 映画(さ行)

TAKESHIS'

2005年/日本 監督/北野武

「たけしのイマジネーションの豊潤さを堪能」
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もうひとりの自分だとか、入れ子構造だとか、そういうややこしいことばかり頭に残しながら見ると、この映画の面白さを味わうことは無理だと思う。先入観なく、最後まで見れば、実にわかりやすい構造だと思う。なんで、難解とか、実験的映画とか言われているのか。その方が私には不可解。

結局、「ある時点」から夢に突入して、最初の物語とは辻褄が合わなくなって来て、そこで物語全体を受け取るのを辞めてしまう人がいるみたいでね。それは実に残念なこと。私はずっとワクワクして見ましたよ。物語の辻褄なんていったんさておき、ただ身を委ねて見続ける。それは、映画を見る基本姿勢だろうと思う。それができない観客が多すぎるんでは?わかりやすい、説明過多の物語を見過ぎているから、これしきで「難解」とか言う。これじゃあ、北野武が気の毒だわい。

さて、映画に戻って。登場人物がたけしのイマジネーションの産物として夢の中で縦横無尽に遊び回っている様子は実に楽しい。冒頭寺島進を見て「あの人カッコイイわね」と言った京野ことみが夢の中では寺島進と付き合っているし、タクシー運転手にやさしいマネージャーの大杉漣は夢の中ではタクシー運転手になってる。(この関連性を見れば、どこから夢になったかは、一目瞭然なんだけどなあ)で、私のツボは岸本加世子ですね。この唐突に怒る様子が実におかしい。今度は、いつ出てくるんだろうと出没を期待しちゃった。

で、その登場人物がまた違う人物になって繋がってくるあたりが実に面白い。夢的破綻を見せつつも「夢の中の物語」はきちんとキープしている。このバランスが才能だなあとつくづく。そして、夢というのは自分の深層意識の産物ですから、この夢の中の「素人・北野武」の行動は、ビートたけしの自意識の表れとも言える。そうすると、何で死体の山をタクシーで通るんだろうとか、何で部屋で食べるのはナポリタンなんだろうとか、だんだん「夢判断」的面白さも湧いてくるんです。

そんでもって、そもそも冒頭の「素人・北野武」は実在しておらず、「有名人・ビートたけし」が見たドッペルゲンガーかもと思って、もう一度見ると、それはそれでまた楽しめたりもするんですよ。手帳に「ピエロさんへ」って書いてるでしょ。なるほどピエロね~と1人でうんうん唸ったりして。

というわけで、この夢の世界で繰り広げられる、たけし流イマジネーションの豊かさに触れ、この人にはどんどん映画を撮って欲しいなあと思うのでした。時間があれば「監督、ばんざい!」も観に行きたい。
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by galarina | 2007-05-29 19:46 | 映画(た行)

HANA-BI

1997年/日本 監督/北野武
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北野武の映画は、静かで退屈なのに、なぜか一生懸命見てしまう。それもこれも、「間」のせいなんだ。絵が止まる、音が止まる。なんなんだろう、この静寂は。居心地のいいような悪いようなむずかゆい気分になった時に、すばらしいタイミングで次の絵が始まる。その繰り返しが奇妙な高揚感を生む。

物語は、すごくベタな展開である。不治の病の妻、金がなくてヤクザから金を借りての逃避行、下半身不随になった同僚。普通に撮れば、Vシネマ。だけど、もうこれは頭の先からつま先まで「キタノ映画」なんだ。

スクラップ工場のオヤジ、渡辺哲が登場するシーンが、もの凄く唐突。前のシーンと全く関係なくいきなり道ばたで当て逃げされた軽トラックが映る。、その横をダンプがさらに扉に体当たりして通り過ぎてゆく。そして、すぐに全く違うシーンへ。一体今の挿入は何だったのか、と妙な居心地の悪さが残るのだが、件のダンプを運転していたのは渡辺哲で、同じようなシーンが随分後になって現れ、ようやく観客は先のシーンを理解する。この当たりの見せ方がまさに「キタノ流」で、編集が一番好きと語る北野監督の手腕がこういう場面に存分に現れている。

また、このオヤジと武演じる西刑事のやりとりがかなり可笑しい。例えば座頭市で、まぶたに目の落書きしてたり、落ち武者がわーわー言って走り回る場面は、正直全然笑えないんだけども、HANA-BIにおける、武と渡辺哲の掛け合いは、非常に面白い。キタノ映画には、こういった、乾いたローテンションの笑いの方がぴったりハマると私は思うんだけど。

そして死にゆく西と、生を選び取る堀部の対比がすばらしい。特に私は堀部が花屋の前に佇み、そこに監督が描いた「頭が花にすげかえられた動物たち」の絵が次々と挿入されるシークエンスが好きだ。頭が花になった動物の意味するものは一体何か、堀部はその絵に一体自分の何を投影しようとしたのか。北野監督自身が描いた絵の使い方に関しては賛否両論あるようだが、これほど内的な世界を表現するのなら自分で描くしかない、というのもわかるような気がするのだ。


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by galarina | 2006-08-18 13:17 | 映画(は行)