「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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タグ:ミヒャエル・ハネケ ( 9 ) タグの人気記事

カフカの「城」

1997年/オーストリア 監督/ミヒャエル・ハネケ

「私にはコメディでした」
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私の感性が変なのでしょうか。可笑しくて可笑しくてしょうがありませんでした。笑いのツボとなったのは、「ふたりの助手」であります。まず、その登場シーン。「君たちはそっくりだね」って、画面が切り替わると全く似ていないふたり。女と寝て、ふと見やると一部始終を見ていたであろうニヤつくふたり。帰れと言われても、どんどんとドアを叩き続けるふたり。どこにでも現れる神出鬼没ぶりが可笑しくてたまりません。

書類を探すシーン。戸棚には書類の山。探せば探すほど山が崩れてきて、挙げ句の果てには、戸棚から書類がドサーンと落ちる。ほら、これじゃ見つからないよねって、どこかで見たことあるようなベタなギャグシーン。一時が万事、K氏が猛吹雪の中を歩くシーンから始まるショートコントの連作のようなのです。

私にとって不条理とは、解決不能な苦悩ではなく、笑い飛ばしてやるシロモノと言うことでしょうか。なんて、自己分析。

「城」が何を意味するのかと言うことに明確な答などなく、もがいても辿り着けない物としての対象物は、観賞する人によっていろいろ想像できるのではないでしょうか。ゆえに、「城」を何と捉えるかは、観賞者の現在の心境を如実に反映する物語のような気がします。私の場合、「城」など実在しておらず、よそ者を困らせてやりたい村人たちの意地悪、なんてことも考えたりするわけです。何せ、わたくし都会からのIターン人間ですから。あの助手ふたりは、精神的に追い込まれたK氏が生み出した想像の産物かな、と思ったりもします。怒りの矛先を自分に向けると心が参ってしまうので、その対象物を架空の人物として創り上げたのでは、なんてね。

エンディングがどのようなものかは、何となく知っていたので、ハネケ作品でも後回しにして見てしまいました。さて、みなさんは「城」は何だとお感じになったのでしょうか。
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by galarina | 2008-06-06 22:25 | 映画(か行)

ファニーゲーム

1997年/オーストリア 監督/ミヒャエル・ハネケ

「悪夢を見て、我々は変われるのか」
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映画を気分転換や楽しく過ごすためのものと捉えている方は、ご覧にならない方が良いと断言します。

こんなに胃が痛い映画は他にはありません。馬鹿馬鹿しい話ですが、最初から最後までスクリーンの前で神に祈り続けました。この家族を助けてください、と。そもそも、観客を裏切ることを得意とする監督ですから、いくらこちらが期待しても駄目なんだろうなというのは、予測できます。しかし、これだけきっぱり撥ね付けられると、今度は、「これは映画なんだ、現実じゃない」なんて心が叫び出します。すると、そういう心を見透かしたかのように、この馬鹿男どもが、したり顔で「現実」と「虚構」について話し始めるのです。

「虚構は今見ている映画」「虚構は現実と同じくらい現実だ」とね。

この期に及んで、事態を正視できぬ心の弱さにがつんと一撃を食わせる。ハネケの意地悪ぶりには本当に参ります。しかし、本作が観客をただ不快にさせるだけの暴力映画でないことは、この「現実」と「虚構」にまつわるハネケの提示があるからこそでしょう。目の前で行われている暴力をただ眺めているしかできない、我々観客。スクリーンの向こうの出来事ですから、何の手出しもできない。当たり前です。しかし、パウルは、スクリーンに向かってウィンクしたり、話しかけたりして、我々を挑発します。それはまるで「アンタももっとゲームを面白くして欲しいんだろ?」と言わんばかりです。そして、虚構は現実と等しいというテーゼ。

確かにこの映画を見始めた時から、我々は強制的にゲームの参加者にさせられています。しかし、そんなのあんまりではありませんか。観客にだって意思はあります。もしかしたら、「ファニーゲーム」不買運動でもして、DVDを燃やして見せたりすれば、ハネケは満足なのでしょうか?

何度も見る気になれない映画。こんなゲーム一度参加すれば十分でしょう。なのに、ハネケはハリウッドでリメイクしたようです。ハネケは「映画が娯楽のためにあるというのなら、私の映画は存在する意味がない」ときっぱり言っていますし、これまでの作品を見ても、アメリカという国を意識しているのはわかります。よって、ハネケ作品の中でも「暴力」に絞った本作をハリウッドという場所でリメイクする、ということそのものに意図があるのでしょう。リメイクのトレーラーを見ましたが、特にナオミ・ワッツの演技に背筋がざわざわとしました。アメリカの有名人俳優が演じることによって、この突然もたらされる理解不能な暴力は、さらに我々の身近なものに感じられるに違いありません。私は再びこのどうしようもない物語を見るのでしょうか。またゲームに参加してしまうのでしょうか。それは、私もまたパウルのような邪悪さを持っていることの証明にはならないでしょうか。恐ろしい映画です。
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by galarina | 2008-03-20 20:38 | 映画(は行)
2003年/フランス・オーストリア・ドイツ 監督/ミヒャエル・ハネケ

「忍耐力テスト」
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どこの国かも、何が起こったのかもわからないまま、粛々と物語が進み、最初の30分くらいは本当にイライラさせられます。これなら、まだ断片手法のほうがマシです。断片がヒントだと思えば、まだ謎解きをしてやろうという意欲も湧くものです。しかし、本作は一応時間通りに物語が進みますので、その成り行きを観客は眺めているしかありません。でも、何も提示してくれないので、我慢するしかありません。そして、全て見終わってようやく、合点が行きます。どこぞのサスペンスみたいにラスト30分で盛り上がるんではないですよ。全てです。全て見て、ああっ!となるんです。ある意味、ミステリーですね。しかし、忍耐力を伴います。

本作、主人公アンナのふたりの子供とはみ出し者の少年以外に子供が全く出てきません。それは、一つの伏線なんですね。いくら大災害とは言え、子供はみんな死んだということはないでしょうから。しかし、諍いの絶えない飢餓状況にどうしても目が奪われてしまいます。そうこうするうちに、姉の方が、死んだはずの父に手紙を書くことで精神的な安定を図ろうとしたり、盗みを繰り返す少年とコミュニケーションを取ろうとしたりします。つまり、極限状態に置かれた子供(姉)が、何とかぎりぎりのところで生き抜こうとする心理状況は見て取れるわけです。しかし、これまたハネケのいじわるな「引っかけ」であることを、最後の最後になって思い知ります。

弟の名前は「ベニー」。「ベニーズ・ビデオ」のベニーです。こんな大きなヒントを見逃していたとは迂闊でした。冒頭、青い鳥が死んだ後、私はすっかりベニーの存在を軽視していました。時折、集団から外れて家族を心配させたりしますが、姉のように行動を起こすことはほとんどなく、まるで存在していない、またはいても邪魔な存在のようになっていく。まさにそれこそ、ハネケの目論見だったわけです。

ショックでした。私には、大人のエゴイズム、無神経さを描いた作品のように思えるのです。私が本作でベニーのことなどすっかり忘れていたように、大人は少年たちの抱える闇に気づこうとしない、というハネケの警告ではないかと。(何せ名前がベニーですから)しかも、ベニーが取った行動のやるせなさを考えると、大人の何気ないひと言でも少年は傷つき、深く己と対峙するのがわかります。これは、まるで絵本のような語り口ですね。もし冒頭、「あるところにふたりの姉弟がおりました。そして、大きな災害がやって来て、人々は食べるものもないほど困っていました」というテロップが流れれば、きっとすんなり物語に入っていけるのになあと思います。でも、意地悪なハネケはそんなことしません。我慢して、我慢して見続けた後に、大人である我々は大目玉を食らい、深く反省させられるのです。
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by galarina | 2008-03-19 20:44 | 映画(た行)

71フラグメンツ

1994年/オーストリア 監督/ミヒャエル・ハネケ

「世界一周する71フラグメンツ」
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<感情の氷河期三部作 完結編>
「コード・アンノウン」を観て何だかよくわからなかったと言う方は、この作品が良い肩慣らしになるのではないでしょうか。とにかく、ハネケの構築する力にただ驚くばかりです。天才ですね。才能ではなく、天才。私は彼のあまりにも冷徹な客観性とピースを積み上げて壮大な理論を作り出す様から、天文学者のようなイメージを持っています。

本作を観て我が家にあるおもちゃを思い浮かべました。これは、建築をやっている夫が気に入り息子にプレゼントしたもので、「STUDY ROOM」という教育玩具を販売するショップで買った物です。(化石や恐竜の模型なども置いてある店で息子は大好きでしたが、なぜか最近クローズしてしまいました)そのおもちゃの材料は、直径1センチほどの白いゴム製のリングと長さ10センチほどの竹ひごだけ。リングには6箇所の穴が空いてあり、そこに竹ひごを突き刺します。そうして、3つのリングと3本の竹ひごで、基本形となる正三角形を作ります。で、どんどん正三角形を繋げていくと、最終的には大きな球体ができあがるのです。

球体の表側の白いリングと裏側の白いリングは、場所こそ遠くに離れていますが、何本かの竹ひごをルートにしっかりと繋がっています。しかも、そのルートは1方向だけではなく、何方向も存在している。球体なのですから、どんなルートを通ろうと、必ず目的の白いリングが目指せます。しかも、それぞれのリングは各ルートで中継地点としての役割も担っているのです。ここで、ハネケの示す断片は白いリング。観客が断片同士を何とか繋げようと試みるのが、竹ひごを刺していくという作業。そして、最終的にできあがる球体は、地球だと考えてみると、何だか楽しくありませんか。

さて、この初期三部作では、全てラジオニュース及びテレビニュースがとめどなく流されています。それらは文字通り、世界の出来事と「個」の距離感を示し続けているのでしょう。この物語は最終的に登場する人物たちが偶発的に銀行強盗事件に遭遇してしまいます。それは、単純に言えば世界は繋がっているということなのでしょうが、ハネケが示す断片は、さらに別の繋がりを示唆し続けているので、我々のイマジネーションもぐんぐん広がらざるを得ないのです。不法滞在で逮捕される貧しい子供が万引きをするのはディズニーの絵本です。カメラは意図的にドナルド・ダッグの表紙を映していますので、これはアメリカを中心とする消費社会を示しているのでしょう。アメリカを意識しているのは、そこかしこで見受けられ、強盗事件が起きた後のニュースがマイケル・ジャクソンの児童虐待の報道であることからも明らかです。日本の寿司を食べてみたらどんな味だったか、なんてニュースも流れてきます。

このように、銀行強盗事件へと集結するという基本路線はあるものの、断片が内包しているものは別のルートからまた違う断片を我々に想像させ、その作業は観客の意思次第で無限に行うことができると言っても過言ではありません。これはもう、いつまでもしゃぶり続けることのできるキャンディのようなものです。しかも、中にはピンポンのレシーブ練習を延々と続けているというどこに繋げていいか分からない断片すら紛れ込んでいます。だから、観客は最終的に、球体を作れなくてもいいんです。おそらく、それはハネケの頭の中にしかないのでしょうから。でも、どこかで竹ひごを繋げるという作業の面白さが分かったら、きっとあなたもハネケ作品の虜です。観れば観るほど、竹ひごを繋げるのも上手になってくるはずです。
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by galarina | 2008-02-06 23:54 | 映画(さ行)

ベニーズ・ビデオ

1992年/オーストリア 監督/ミヒャエル・ハネケ

「もはや現実は映像の中にしかないのか 」

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「感情の氷河期 第二作」

ベニーは「映像」と「現実」の境がつかなくなっているのだけど、その曖昧さと言うのは、観客である我々自身も既にどっぷりそうなっているんじゃないか、と思って戦慄してしまう。なぜなら、このベニーと言う少年の心情、そして死体を隠蔽しようとする両親の異常性、共にスクリーンを通じて観ていると何となくわかったような、共鳴してしまうような感覚に陥ってしまうから。例えば、自分の隣の家の少年が実際に犯罪を犯し、両親が隠蔽工作をしたとする。それを、私は事実として受け止められるだろうか。おそらく、理解したくない、知りたくない、拒否反応が先立つような気がする。つまり、スクリーンの中のベニーには深く入り込めても、実在する隣の少年には入り込めないかも知れない。

結局、現代人って「何かを媒介する」ことでしか、物事を受け止められない体質になってるんじゃないのだろうか。その媒介がビデオであり、テレビであり、ラジオであり、映画である。本作では、戦争や政治などのシビアな話題から、天気予報に至るまで、ラジオのニュースもあちこちで挿入されている。ラジオから聞こえてくる戦争のニュースは、あまり現実味がない。だけど、実際に起きていることには間違いない。その事実を確かめたくて、今度はテレビを見る。戦場で逃げまどう人々を見てようやく戦争を実感する。時には、かわいそうになって涙を流したりするかも知れない。しかし、その涙は映像と言う媒介物があってこそ、生まれたものであって、本当に戦争を心から憎んで生まれる涙じゃない。

また、息子と母がエジプトに逃避行した時に、ホテルの部屋のテレビ映像が幾度となく映されるのだけど、もしかしたら、ベニーは実際に観光しているよりも、そのテレビ映像によって、そこがエジプトなんだというのを強く実感しているのかも知れない。そう考えると、旅行先のホテルでテレビを見て、自分がどこにいるかを実感することって、我々にもよくあることだと思い出す。

だから、映像って実に怖いメディアなんだ。映画だと思って見ているものが実はビデオだったという二重構造も、ハネケから映像を鵜呑みにしちゃいけない、という我々に対するお仕置きのような気がしてしまう。もちろん、このラストにもたらされる二重構造が驚くべきどんでん返しになっていることは、映画作品としての大きなカタルシスを観客に与える。つまり、お説教しながら、映画としての楽しさも味わわせてしまう。そこが、ハネケの凄いところ。

それにしても、物事をこれほど客観的に捉えるという作業は、一筋縄じゃ行かないだろう。殺害の事実を知った後の母親の愚鈍な描写なんて、私が女優なら降板したいと思うくらい。とはいえ、デビュー作ほど、登場人物の行動は不可解ではないし、ハネケ作品の中では比較的わかりやすい部類だと思う。少年の抱える闇とメディアがテーマなので、多くの人にぜひ見て欲しいと思う。
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by galarina | 2008-01-19 23:21 | 映画(は行)

セブンス・コンチネント

1989年/オーストリア 監督/ミヒャエル/ハネケ

「デビュー作からサディストぶり全開」

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「感情の氷河期 三部作」なんてネーミングからして哲学者みたいだな。とんでもない展開の映画ながら、ふーんとかはぁーとかほぉーとか感心している内に終わってしまった。

最初から最後まで観客は不安で不安でたまらない。両親と娘ひとりという核家族の日常が淡々と描かれてゆくが、物語がちっとも紡がれない。断片的にそれぞれの生活シーンが挿入されていくだけ。特に娘は何か精神的な問題を抱えているように見えるが、その原因など全く不明。
そして、表情(顔)を映さない。手元を映したシーンが実に多い。おそらく、全体の半分以上は手元、または静止画ではないだろうか。つまり、そこで人物は喜んでいるのか、悲しんでいるのかが予測できない。しかし、手の動きはイマジネーションのきっかけは与えてくれる。買い物をする手、食器を片づける手…etc。それらの映像から、観客は何とか物語の前後を埋めようと苦心する。もしかしたら、手元の映像だけで映画って作れてしまうものじゃないか、なんてあらぬ方向へと考えが及んでしまった。映像から温度を感じられないことも不安の一端。
最後に、スクリーンが真っ暗になること。エピソードとエピソードの間、必ずスクリーンが真っ暗になる。その間、約3秒くらいか。これが実に中途半端で居心地の悪い間(ま)なの。このまま、映画が終わってしまうんじゃないかってくらい。

これだけ、観ていて不安でありながら、スクリーンに惹きつけられて仕方ない。もういいや、と止める気にはなれない。それは、物語の断片と手元の映像というほんの少しの「エサ」に、観客がつられているからだろう。これは、人間の本能かも知れないなあ。ちょっと見せられたら知りたくなるっていう人間の本能。そういう条件反射的な本能をつついてくるハネケって、やっぱ根っからのサディストなんだろう。

ラストの破壊シーンは息を呑むばかりだけど、一方でその徹底ぶりに爽快感すら覚えてくる。我々が享受している文明を全てこの世から排除する彼らの行動は、もしかしてとても真っ当な行為なんじゃないかとすら。大学で哲学と心理学を学んだということで、その世界観は彼なりの理論でがっしりと構築されているようなんだけど、一方モノだけを取り出したカットなんて、そのままポスターやポストカードにしても映えるような機能的な美しさがあるのね。本当に一分の隙もない作品。天晴れというしかない。
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by galarina | 2008-01-16 22:03 | 映画(さ行)

コード・アンノウン

2000年/フランス・ドイツ・ルーマニア 監督/ミヒャエル・ハネケ

「断片で語る力。ハネケのウルトラC」
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まず見終わって、ため息。これはすごい。こういうやり方もあるんだ、と見せ方の斬新さに驚くばかり。物語が時間通りに進行するというごく当たり前の作り方ををぶっ壊すような作品って、最近よくありますね。時間が逆行するとか、複数の話を同時進行させるとか。でもこの「コード・アンノウン」という作品のような作りは、今まで見たことない。

本作は、ほんの5分~10分程度の短いエピソードが次々と展開される。ジュリエット・ビノシュがぼんやりとテレビを見ながら延々とアイロンをかけるといった一見して全く意味の見いだせない短いシーンがあったかと思うと、これだけで1本のショート・フィルムになりうるような完成度を保つシーンもある。そしてラストまで個々のエピソードがどう繋がるのかという観客の好奇心も掴んで話さない。

短いエピソードの中には、ほんの小さな断片が見え隠れしている。その小さな断片で奥に隠れている問題、それも一つや二つではなく幾重にも重なった問題を顕わにする。その断片が登場人物のちょっとした仕草だったり、一見物語とは関係のないようなセリフだったり、画面の隅にぼんやり立っている人だったりするもんだから、いちいち「そういうことか!」と膝を叩きたくなるような面白さがある。何か表現したいものがある時に、水面に一滴のしずくをたらせばそれで良い。そんな感じ。

なので、小難しい作品は嫌、という方にも映画表現の可能性として、こういう方法もあるんだとぜひ知って欲しい。そう思わせるだけの力を持っている作品。この作品の中で語られているテーマで5、6本は映画が作れる。人種差別、戦争、地域格差、児童虐待…。社会が抱える問題がてんこ盛りです。なのに、それらの出来事は物語として語られるのではなく、断片で語られるのです。その分、観客の想像も刺激される。こんな離れ技ができるのは、ハネケしかいない。
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by galarina | 2007-07-25 23:41 | 映画(か行)

隠された記憶

2006年/フランス=オーストリア=ドイツ=イタリア  
監督/ミヒャエル・ハネケ

「罪と向き合う」
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(ラストシーンについて触れていますのでご注意下さい)

ミヒャエル・ハネケ、フランソワ・オゾン、黒沢清。この3人を私は勝手に「ざわざわ3兄弟」とネーミングしている。彼らは、人の心をざわつかせるのが非常にうまい。正直、人間的に信用ならない人物ではないかとさえ思いたくなる(笑)んだけど、きっとご本人にあったら全くそのようなことはなかろう。

さて、ハネケ監督のざわざわ作戦、この作品ではいきなりオープニングからやってくれます。どこかの家を遠景でとらえたストップモーション。全く画面が動かない。すると、微妙に上下に揺れ始める。これ、これ、この感じ!と叫びそうになりました。いやあ、これだけの演出でこのざわつき感が出せるって、やっぱ才能だな。

テーマは罪。人はどれだけきちんと罪に向き合っているか、罪を罪と認識しているか、それが1本のビデオテープをきっかけに顕わになっていく。誰か知らない人から一方的にビデオテープを送りつけられているという設定から、どうしても「犯人は誰か」と考えたくなるんだけど、これは、犯人探しは二の次のこと。「罪ときちんと向き合えない人間の墜ちていく姿」を描くことこそが、この映画の最大のテーマだろう。

それに、ささいなことがきっかけで、夫婦なんてすぐにダメになるんだってことがよくわかる。だいたいね、嫌がらせのようなビデオテープが送られてきて、これは誰の仕業なのって夫婦がグチグチ言い合っているなんて、実にどーってことない話ですよ、話そのものは。それがね、ここまで深いものになるわけだから、ハネケってすごいなあ、と素直に感心しちゃう。

さて、ラストシーンなんだけど、これはほんとにいろんな解釈ができる。確かに、思わせぶりなシーン。「あの人」と「あの人」が話をしているわけです。で、ふたりが共犯だった、と結論づけたくなるんだけど、どうも私にはあるひっかかりが。それは、ラストシーンもまたビデオテープに見えたんですよ、私には。つまり誰かがあれを撮っているように、私には感じた。

それから、服装。ラストシーンだけ夏の服装なの。ピエロはTシャツだしタンクトップの人もいる。ところがね、物語に出ている人々は、いつもコートやジャケットを羽織ってた。つまり、ラストシーンは、本編の話から、少し時間が経っているか、またはこの物語より以前の映像、ということ。そのどちらかでこのシーンそのものが持つ意味は異なってくる。

いずれにしても、これは誰かと一緒に見ていろいろ語りたくなる映画だ。ネットで検索すれば、それはそれは、いろんな解釈が見て取れる。あなたは、ラストシーンにどんな解釈を与えるだろう。

そうそう。このラストシーン、黒沢清の「キュア CURE」を思い出したな。
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by galarina | 2007-03-03 01:12 | 映画(か行)

ピアニスト

2001年/フランス・オーストリア 監督/ミヒャエル・ハネケ

厳格な母親に育てられたピアニストの歪んだ性と自己崩壊を描く傑作
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愛に飢えた中年女は、痛々しい。今作の主人公エリカは、その求めるべき愛の形すらわからずに彷徨う。その姿は痛々しいを通り越して滑稽ですらある。ここまでエリカという女をこてんぱんに描く、ミヒャエル・ハネケという監督はなんて奴だと思ったけど、この映画には原作があるんだそうだ。しかも女性作家というんだから、この作品は己のことを己自身でえぐり傷つけできあがった作品なのだ。どうりで強烈なわけです。(ちなみにこの原作者エルフリーデ・イェリネクは2004年にノーベル文学賞を受賞)

エリカの歪んだ性。それは「女として」愛を享受された経験がないことに起因している。のぞき部屋に入って個室でポルノを見ながら男の使い果たしたティッシュの臭いを嗅ぐ。ドライブインシアターでカップルをのぞき見して放尿する。いずれも普通の女の性処理とは言い難い不可思議なものばかり。エリカが精神科医にかかったら、その医者は嬉々として彼女を分析するだろう。そんなエリカにも年下の愛してくれる男が現れたというのに、エリカが彼にお願いしたことと言ったら…。

父と息子が対立するとそこには憎悪が生まれる。父は息子に越えられることを畏れ、息子は差し違えても乗り越えようとする。しかし、母と娘という関係性は不思議だ。そこには憎悪とともに同化が存在する。母は自分を娘に重ね、娘も自分を母に重ねる。今作のエリカと母の関係は異常で、母は常にエリカを監視し檻の中に閉じこめるように育て、かつ同性として耐え難い罵詈雑言を娘に放つ。こんな母親、放っておいて出ていきゃいいのに、娘はできない。そこで自分を傷つけ、歪んだ性行動を取ることで精神的不安をごまかす。母親による変質的な愛によってここまで娘が無惨になる作品は他にはないだろう。

中年女の憂鬱という観点で考えれば、さすがはヨーロッパ、描き方が半端じゃない。中年女でもまだまだ恋ができるわ、なんてなまっちろいテーマを扱ってるようじゃ、まだまだひよっこ。これくらい冷徹にその存在自体をこれでもか、これでもかとえぐり出すような作品は、日本じゃなかなかお目にかかれませんもの。

イザベル・ユペールは、エリカという難役に体当たりで挑み、この実に哀れな女を魅力的にみせている。物語だけを追えば、エリカほど乾いた痛々しい存在はなく、見方によっては侮蔑や嫌悪が沸いてもおかしくない。しかし、イザベル・ユペールが演じるエリカの孤独と焦燥、そして愛への渇望は観客の心を揺さぶる。

そして驚愕のエンディング。ここにあなたは何を見るだろう。これはエリカの自己破壊衝動か、それとも過去との決別か、はたまた生まれ変わりを意味する希望か。沈黙のエンドロールが流れる中、我々はエリカの悲しみを心の奥深くで共有する。
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by galarina | 2007-02-09 21:23 | 映画(は行)