「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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タグ:キム・ギドク ( 8 ) タグの人気記事

リアル・フィクション

2000年/韓国 監督/ギム・ギドク

「チャレンジ精神」

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夢と現実。表の顔と裏の顔、などギドク作品に欠かせないテーマですので、ギドクが好きだという方は、見てもある程度楽しめるかもしれませんが、作品単体としての強い吸引力には欠けます。

もうひとりの自分がいて、そいつが自分を見つめている。そんな表現として、白いワンピース姿の女性がずっと主人公の自分をビデオカメラで映しているのですが、このあまりにも俗っぽい表現がギドクの初期作らしいです。前作の「ワイルドアニマル」の冷凍サンマでぶっ殺す、みたいなところに通じます。何かの暗喩でしょうが、ちょっと吹き出してしまうようなひねり具合。しかし、ギドクはくじけずにその表現方法に挑戦し続け、磨き上げたんだなあ、というのがよくわかりました。

本作は、ゲリラ撮影でたった1日で撮り上げたということ。まさに実験作ですね。多作、スピード撮影で知られるギドク監督の練習風景を見させてもらったという感じでしょうか。
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by galarina | 2008-11-09 17:40 | 映画(ら行)

ワイルド・アニマル

1997年/韓国 監督/キム・ギドク

「冷凍魚の怪」
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画家を目指してパリに来たのに、今は他人の絵を売ることで生計を立てている男チェン。「鰐」に引き続き、監督お得意のサイテー男がまたまた主人公です。画家を目指しているのに、友の絵を売る。これは、裏切りは裏切りでも同胞への裏切り。同じ盗人でも店の物を盗むよりも、さらに悪い。いちばん卑劣な行為ではないでしょうか。

「鰐」は、身投げした人の金品を盗み、その上警察に死体の居場所を教えることで情報提供料をもらおうとする男、ヨンペ。その後の「悪い男」は、好きな女をスリとして捕まえさせ、あげくの果てに売春婦に仕立て上げる男、ハンギ。どいつこもこいつも、悪いことの倍掛けみたいな主人公ばかりです。この常識的な人ならば誰もが感じる彼らへの嫌悪感がふとしたきっかけで、純粋な愛、または慈しみの情を我々に感じさせるのがギドクの才能です。しかし、本作はハンガリー人女性への愛情と、脱北兵ホンサンとの友情の板挟みに苦しむため、お得意のピュアなるものを突き詰めるプロセスが分散されてしまったように思います。これまでギドク作品を見てきた人が初期を振り返るということにおいては面白さも発見できるでしょうが、これだけで楽しめるかと言うと正直難しいです。

でも、思わずギョッっとなるショットは、多々あって、その辺が初期作を見る楽しさと言えます。DV男が女を痛めつけるのが、なぜか凍った魚。冷凍庫を開けると、ずらっと並んでます。このショットが強烈で、「なんで、魚?」が頭から離れません。そして、最低男チェンが住み家としているのが、アトリエ兼用のかわいらしい白い船。このギャップ感がスゴイ。

こういう奇天烈なアイテムって、「絶対の愛」の唇マスクなんかもそう。だから、少しずつヘンなものを美しく見せるテクニックをギドクは努力して身につけていったんだろうなあ、と思います。ちょっと失礼な言い方かも知れないけど、ドニ・ラヴァンの存在自体もすごく奇抜でしょ。それらの奇抜なアイテムが浮いてしまっていて、全体を見渡すとギクシャクした印象になってしまったかな。でも、苦労してリシャール・ボーランジェとドニ・ラヴァンを口説き落としたってところは、ギドクの心意気を感じます。
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by galarina | 2008-09-07 17:31 | 映画(わ行)

鰐~ワニ~

1996年/韓国 監督/キム・ギドク

「原点を見るのは面白い」

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少々荒削りでも、はっとするカットの美しさがあれば許せてしまうことがあります。本作のそれは、ラストにありました。川底に沈んだソファに手錠をはめた二人が肩を並べて死んでゆくシーン。ギドクらしい美意識が如実に表れたラストだと思います。死んだ人間の金品を剥ぎ取るような人間性のかけらもない男ヨンペが、かくも美しい死に様を遂げることができたのは、自ら陵辱した女から赦しを得、愛に目覚めたからではないでしょうか。クリスチャンであるギドクらしい展開であるのはもちろんですが、より広い意味での「救い」を描いた作品と言えると思います。

正直、このラストシーンに至るまでは粗さばかりが目について、なかなかこの特異な世界に感情移入できませんでした。ヨンペの無軌道ぶりに対してそれほど嫌悪感を抱くこともなく、ぼんやりと眺めているような状況で。後の「悪い男」では、殴りたくなるほど主人公への嫌悪感を覚えましたので、やはり作品を作るごとに腕をあげたということなんでしょう。

橋の下の生活で、絵を描くシーンや彫像がアイテムとして使われており、今なお脈々と引き継がれるギドクの芸術精神がうかがえます。と、申しますか、近作「絶対の愛」でも彫刻は欠かせない存在ですから、逆に言うと変わってないない部分、表現の一貫性に触れることができた、とも言えます。とことん振り子を片方に振って、その対極にある揺るぎないものや美しいものを描き出す、そんなギドクスタイルも不変。荒削りだけど、芯の部分は今なお現在に引き継がれている。これぞデビュー作という佇まいの作品。
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by galarina | 2008-08-04 21:06 | 映画(わ行)

絶対の愛

2006年/韓国 監督/キム・ギドク

「愛は確認できない」
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(ラストシーンについて触れています)

冒頭、ハングル文字の真横に英語で原題が出てきます。「TIME」。私は妙にそれが頭に残って見始めたのですが、なるほど今作は愛を様々な「時間」というテーマで切り取っているのですね。私の顔に飽きてしまうのではないかというセヒの畏れは、すなわち、愛とは時間と共に風化してしまう代物なのか、という命題です。2年間付き合った彼女、整形してからマスクが取れるまでは6ヶ月など、時間を示すセリフも幾度となく強調されます。

また、ラストシーンがファーストシーンに繋がっていますが、結局これはセヒがスェヒに会うという顛末で、実際にはありえません。しかし、この連結が示すものは、メビウスの輪のような世界であり、セヒが同じ時をぐるぐると回り続けているように感じさせます。そう考えると、セヒという女性が受けるべき運命は何と過酷なものでしょう。いくら言葉や態度で示されていようと自分は本当に愛されているのか、と言う不安から逃れられない人間は、一生ぐるぐるとメビウスの輪の中を回り続けるしかない。セヒは無限に顔を変え続けるという罰を受けたのでしょうか。整形手術という現代的な事柄を切り口にしていますが、聖書のような話です。汝、愛されていることを確認するなかれ…。

ただ、「恋人として愛され続けること」と「新しい女として彼を誘惑すること」を同時に体験できるなんて、女としてこんな醍醐味はないんじゃないかと思ってしまう自分もいたりするんです。もちろん、そこには大きな矛盾があり、その苦悩もまた、罰であるんですが。まあ、男性であるギドクがこういう発想ができることに驚いてしまいます。

さて、ペミクミ彫刻公園は物語のテーマともぴったり重なり、手のひらの彫刻にふたりが座るショットなど、非常に印象に残る。しかしながら、何度も登場するため、この彫刻たちがもともと持っているテーマ性を少々拝借しすぎなように感じました。まあ、それでも左右の顔写真から成る整形外科のドアや唇がついた青いマスクなど、彫刻のパワーに負けないギドクの演出は実に愉快。教訓めいたお話ですが、こういう人を食ったような見せ方が彼らしい。来年から撮影に入る新作は、オダギリジョー主演。とても楽しみです。(結婚したのは、超悲しいが)
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by galarina | 2007-12-28 23:59 | 映画(さ行)

2005年/韓国 監督/キム・ギドク

「どんな形でも愛は、愛。」

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すばらしかったです。ため息出ました。空に放たれた矢が彼女の「中」に舞い戻るラストシークエンスは息を呑みました。自分勝手な思い込みだけで構築されている老人の愛をいったんは拒否した少女でしたが、最後はその命懸けの熱情に応えるのでした。いくら自由を束縛されようと、それはそれで崇高な愛の形であり、全身全霊でひとりの男に愛されることほど、女に生まれて無上の喜びはなかろうと思わされました。

男の性欲だけを満たさんがために一方的に女を監禁して、いつのまにやら女もその気に、なんて反吐が出そうな映画と、この「弓」という作品の違いは何かと聞かれると、実は論理的にうまく説明できません。結局は作品全体から、それを「愛」だと観客が感じられるかどうか、だと思います。主人公ふたりにはほとんどセリフがなく、目や表情で互いの意思が表現されます。抑えた演出なんてベタな表現が恥ずかしくなるほど、ふたりのシーンはただ相手に対する「想い」が一切のセリフや感情的表現を廃して示されている。その排除の仕方は、強引とも言えるほどですが、これぞまさにギドクならではのテクニックだろうと感心せざるを得ません。

そして設定は奇異でも、伝えたいことは実に単純。愛とは何か。人を愛するとはどういうことか。本作のすばらしいのは、このような突拍子もない設定の物語から最終的には誰にでも当てはまる普遍的なテーマへと視点を下ろせるところなのでしょう。そして、色鮮やかな映像、弓占いという独自の表現が絡み合って生まれる作品の超越的なムードが一つの寓話として我々を強く魅了します。これは、ギドク作品でも大好きな1本となりました。そして、その感情をほぼ「目」だけで演じきった主演のハン・ヨルムという若い女優に心からの拍手を贈りたい気持ちでいっぱいです。
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by galarina | 2007-12-21 23:35 | 映画(や行)

うつせみ

2004年/韓国 監督/キム・ギドク

「究極の愛の形を求めて彷徨うギドク」
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レイプだの、ロリータだの、ギドクって男は女を何だと思ってるんだと思ったら、こういう女性の願望をそのまま投影したようなロマンティックな作品を作ってしまうから本当に参る。結局、彼はとどのつまり“愛”って何なんだ?という旅を続けているのだろう。いろんな角度から愛を眺め、出ることのない答えを求めて作品を作り続ける愛の殉教者とでも言おうか。

通りすがりの男に何かも預け、連れ去って欲しいというのは、女の究極の憧れかも知れないと、「ヴァイブレータ」でも書いた。あれがトラックに乗った王子様なら、こちらはバイクに乗った王子様。しかも、このふたりに言葉は無用。何も言わなくても全てが通じる。夫に責められようが、警察に捕まろうが何もしゃべらない。これが実に象徴的。言葉にした途端にふたりの関係は実に陳腐な代物に成り下がってしまいますから。

テソクがソナを連れ去り毎夜留守宅に泊まる前半部を “動”だとすれば、ふたりが警察に捕まってからの後半部は“静”の展開と言えましょう。しかし、鑑賞後心に深く残るのは、“動”ではなく“静”の方。ソナがふたりの名残を求めるかのように、泊まった留守宅を再び訪ね歩くシーン。そして、テソクが「影」を体得するために刑務所で見せる幻想的な舞踏。映画とは、映像で心に語りかけるもの。その幸福感が私を満たす。

ラストはギドクには珍しく愛の成就が感じられてカタルシスを覚える。肩越しのキスシーンもいいし、影の朝食のシーンも素敵だ。しかし、抱き合ったふたりの体重計の目盛りはゼロ。最後の最後になってギドクはわずかな毒を残したか。だが、その毒は私の心を汚すことなどなかった。だって、実に映画的な恍惚感に包まれていたから。

ただ、ギドクってこうやって、幸せな気持ちにさせておいて、また突き落とすようなことするのよ。これが、ギドク・マンダラならぬギドク・スパイラル。一度はまると抜け出せません。
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by galarina | 2007-05-20 23:42 | 映画(あ行)

サマリア

2004年/韓国 監督/キム・ギドク

「懐疑心を打ち砕くギドクの才気」
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<ヨジンとチェヨンは親友同士。2人でヨーロッパ旅行へ出るために、チェヨンが援助交際をし、ヨジンはそれを嫌いながらも、見張り役をしている。ある日、警察に踏み込まれたチェヨンは、いつもの笑顔を浮かべたまま、窓から飛び降りてしまい…>


少女の「性」に対して、独自の価値観を生み出す。その視点のオリジナリティはさすがギドク。もちろんその視点を快く受け入れられるか否かというのは別物だ。第一部「バスミルダ」において、少女チェヨンはセックスを通じて男たちに幸せを与えているのだと言う。そこに感じるのは買春する男たちの正当化である。男の考える勝手なロジックかよ、と嫌悪を抱き始めたら、なんとその少女は突然死ぬ。体を与えていた少女は罰を受けたのか、といったん考えを翻されたところで第二部「サマリア」が始まる。

すると次の少女は、体を与えた上にお金を返すという。友達を見殺しにした罪を売春することで償う。今度は体を与えることが償いになるんですね。おまけに買春した男に「感謝しています」と少女に言わせる。全くこの展開には参ります。体を与える巡礼の旅って、どうしたらそんな発想ができるのでしょう。

そして第三部「ソナタ」、この少女の父親が娘の買春相手に報復する。これでようやく男たちが裁かれるのかと思ったら、そうじゃない。なぜなら、父は娘の少女性に男としての欲望があって、嫉妬に狂っていると私は感じたから。もし彼が父として娘を戒めたいなら、その矛先は娘に直接向かうはずです。だけども、彼の行動はまるで夫の愛人に憎しみが向かう勘違いな妻と同じです。

これはロリータ男のとんでもない言い訳のような解釈もできそうな映画である。でも、実はこの作品、私はそんなに嫌いじゃない。と、いうのも少女性に神秘や神性を見るというのは、女である私も理解できるから。そして、視点を変えながら「性」を切り取るこの3部構成の手法が実にうまい。

また、ふたりの少女が公園で戯れるシーンや穢れを落とす風呂場のシーンに少女性を実に的確に見せるギドク監督の才能をひしひしと感じる。極めつけは、黄色いペンキのシーン。私はこれまでギドク監督に北野監督を重ねたことなど一度もなかった。しかし、このシーンは初めて北野武が頭をよぎりました。

セリフではなく映像で、しかも実に印象的な美しいシーンで我々に訴えてくる。これは、やはりセンスがないと無理でしょう。私の心は、一歩引いて疑ったり、ぐっと惹きつけられたりを繰り返しながら、最終的にはギドクワールドをたっぷりと堪能させられてしまいました。


  
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by galarina | 2007-05-19 23:47 | 映画(さ行)

悪い男

2001年/韓国 監督/キム・ギドク

「苦痛を乗り越えて」
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<女子大生ソナに一目惚れしたヤクザのハンギ。その場で強引にキスし警官に取り押さえられたハンギは、ソナに罠をかけ売春宿へ売り飛ばしてしまう。それから、ハンギは毎夜客をとる彼女の姿をマジックミラーの中から見つめるのだった…>


本当にこの男は「悪い男」です。私はこの男が許せません。身勝手過ぎる。こんな身勝手な行為の向こうに純愛を感じ取れ、なんて無理です。これは原題も「悪い男」なんでしょうか。もしそうなら、その開き直りっぷりが腹立たしいくらいです。

とまあ、映画の物語を「自分のこととして語る」ことが適切なのか、こういう映画を見るとそのことを痛烈に感じずにはいられません。物語の中でソナは自分の運命を受け入れ、ハンギと生きていくことを選びます。ソナ本人がそれを望んだのだから、私がとやかく言うことではありません。頭では分かっていてもこのような作品の場合、物語を物語のまま受け取ることは困難を極めます。

例えば、「私もこんな人生が生きてみたい!」と思うシンデレラストーリーには、そこにそのまま自分を重ねられます。しかし、私もソナのようになりたいと思う女性はほとんどいないでしょう。ここに「物語を自分のこととして重ねる」という映画の見方以外に、別の見方があるのだと気づかされるのです。これは当たり前のことですが、やはりラブストーリーの体裁を取っている作品は女としてどうしても物語の中に自分を置いてしまいます。

だからこそ、こういう作品を見ることは鍛えられます。感情的にならずにひと呼吸置いて、作品全体を味わうことが試されます。すると、倒錯した愛の形にほんのりと甘美な味を見つけることができます。地獄まで落とされたハンギに愛を見いだすソナの心情に共鳴できる部分も生まれます。

あらすじだけ書いたら売れないエロ小説のようですが、キム・ギドクの手にかかると屈折した心理の向こうにゆらゆらと美しいものが揺れているような感覚に陥る。それは、やはり彼独特の映像の美しさの成せる技。キム・ギドク作品は私にとって修練の場のようなものです。もちろん、そこには大きな苦痛も伴うのだけれど。
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by galarina | 2007-05-18 01:02 | 映画(わ行)