「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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タグ:ガエル・G・ベルナル ( 6 ) タグの人気記事

ブエノスアイレスの夜

2001年/スペイン・アルゼンチン 監督/フィト・パエス

「私に触れられるのはあなただけ」
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舞台はアルゼンチン。声でしか快感が得られない中年女がうら若き男娼と出会う。演じるのはセシリア・ロスにガエル・ガルシア・ベルナル。やがて、ふたりは禁断の関係に陥る…。と聞けば、これで面白くならないわけがないでしょう、という大前提があるんですね、この映画には。で、結局その膨らんだ期待感をそれ以上膨らませるには、もう一歩及ばずという感じなのです。もったいない。

主人公カルメンが背負っている過去の傷について映画が多くを語らないのは、アルゼンチン人なら誰もが共有している忌まわしい過去だからでしょう。貴族の娘であったカルメンは、軍事クーデターにより1年間の投獄と拷問を受けた。

彼女の今の状況、つまり他人に触れられることを極端に恐れ、他人のセックスを覗いたりポルノの朗読でしか性的快感を得られないことは、おそらく牢獄で性的な屈辱を受けつづけたことによるものだろうと想像できる。なんと哀れなことでしょう。誰かに抱きしめられたいというのは、女性の根源欲だと思うもの。その哀しさはセシリア・ロスの演技から痛いほど伝わってきたし、ガエルは(その後の展開を予想させる)幼さの残る素朴な若者を好演している。

結局、誰かに触れられることの拒絶反応をカルメンは我が息子によって克服するわけで、禁断の愛というよりむしろ見えない糸によって導かれた母と息子の奇跡のような物語なのだと思う。ラストシーンの「悲しい結末じゃない」というセリフは、私はとても納得。だって、グスタボによってカルメンはトラウマから解放されたんですもの。それに「オールドボーイ」でも書いたけど、親子による姦通と言うのは究極的に誰かを欲するということの実にシンボリックな表現手段だと思うし。そして、この場面のセシリア・ロスの演技がすばらしい。愛するグスタボに触れたいのだけど、女としてではなく、母として触れなければならないその葛藤が、出したり引っ込めたりする手の動きで表現される。それが切なくて、切なくて。この作品は、このラストシーンでずいぶん救われていると思う。

で、その「もう一歩感」とは、カルメンと周辺の人物との関係の描き方が中途半端なところ。特に妹の存在が思わせぶりな描き方で不満が残る。20年前に祖国を出て行ったきりの姉に対し、妹は複雑な心境にある様子が見て取れる。「母と息子」という関係に加えて「姉と妹」のいびつな関係をより深く描けば物語にもっと深みが出たんではないだろうか。父や母、カルメンをずっと好きだった医師など、大きな傷を抱えたカルメンと彼らの間に流れる溝を見せてくれればもっと満足できる1本になったと思う。

ガエルファンの目線で語れば、セクシービーム満載で嬉しい限り。売り込み中のモデルってことで、セミヌードで撮影されたポスターがでてくるんだけど、ガエルファンはある1点に目が釘付け(笑)。恥ずかしくて書けません。あのポスターは欲しいなあ。
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by galarina | 2007-07-06 23:49 | 映画(は行)

バベル

2006年/アメリカ 監督/アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
<TOHOシネマズなんばにて鑑賞>

「伝わらぬ思い、そして絶望の向こうに何を見る」
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(ラストシーンについてふれています)

この映画は、1本のライフルが狂言回しとなり、複数の物語がラストに向けて繋がっていく、という筋書きではない。何だかそのような宣伝をされているため、話が最後にどう繋がるのかと期待してしまう人もいるようだが、そうではない。思いを伝える術を失ってしまった人間どもの痛々しい姿を、白日の下にさらす。それが「バベル」という映画だ。

「バベルの塔」の物語は、本来同じ言葉を持つ人間が神に近づこうとして裁きを受け、異なる言語を持たされてしまったということだが、この「バベル」では現代人のディスコミュニケーションは単なる言語の壁だけによるのではない、ということを訴えているように思う。その最もシンボリックな存在が菊池凜子演じるチエコだ。なぜなら、チエコは聾唖であり、言語を持たないからだ。

アメリカ人のリチャードがモロッコ人に助けを求めて叫ぶ。メキシコ人のベビーシッターがアメリカの警察に子どもたちを助けようとしたのだと訴える。共にその願いは聞き入れられることはないが、ふたりは語りかける言語を持っている。ところがチエコの存在はこの両者とは違う。どんなに思いが強かろうと、訴える言語を彼女は持たない。そして、言葉を発することができないからこそ、さらに膨れあがる彼女の「誰かと繋がりたい」という強い衝動が胸を打つ。その痛々しい姿こそが、言語という壁よりもさらに深い溝を抱えている現代人の絶望のシンボルにも見える。

よって、私はモロッコの事件も、メキシコの事件も、まるで、チエコの絶望という主旋律を際だたせるために存在する副旋律なのか、とすら思えたほどだった。つまり、この映画の主人公はチエコではないのか、と。一糸まとわぬ彼女が父親に抱きしめられるラストシーンを観て、ますますその思いは強くなった。なぜならこのシーンは救済を連想させるからだ。

もちろん、映画の見方はいろいろあって当然であり、私がこのように感じたのは、それだけ本作において菊池凜子に圧倒的な存在感があるからだ。
前作「21g」でのナオミ・ワッツのように、菊池凜子は人間の内なる叫びを体の奥底から絞り出すようなすばらしい演技を見せている。本物の聾唖者を起用したいと考えていたと言う監督の意向に100%応える渾身の演技だったと思う。他者に受け入れられない絶望が彼女の表情からあふれ出し、私の心に突き刺さった。

それにしても、モロッコの物語も、メキシコの物語も観ていて感じるこの「はがゆさ」は何だろう。伝えられない、叶わないものたちに立ちはだかるのものは一体何か。もはや、それを言葉で乗り越えることはできない。この作品はその事実を痛烈に描いている。言葉を持たぬ者、チエコが救われ、言葉を持つ者はいつまでも理解しあうことはない。では、思いを伝えるために人間は一体どうすればいいのか。そんなことを考えずにはいられない。
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by galarina | 2007-05-06 16:30 | 映画(は行)

天国の口、終りの楽園

2001年/メキシコ 監督/アルフォンソ・キュアロン 

「ルイサが僕たちを大人にしてくれた」
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何の気なしに、見始めた映画が大当たりだった時って、すごく嬉しい。まあ、この情報過多の時代、そういう作品に巡り会うのはとても難しいのだが、今作はその数少ない大当たりの一つだった。そして、この作品で、私は初めてガエル・ガルシア・ベルナルを知り、「なんだこのイイ男は!」と色めき立ったのである。

ドラッグとセックスに明け暮れるふたりの少年フリオとテノッチ。そして、その間にひとりの人妻。3人は「天国の口」と呼ばれる伝説のビーチを探しに旅に出る、というストーリー。本国メキシコでは2001年の興行成績第1位を記録する大ヒットとなった。

これは、ふたりの少年が大人の男へと変わる旅である。そしてあてどない旅が南米(今作はメキシコ)であることから、「モーターサイクル・ダイアリーズ」と非常によく似ている点が多いと言える。事実どちらの作品とも、主演のひとりがガエルであるため、「モーターサイクル・ダイアリーズ」を見ている時、私は今作を思い描かずにはいられなかった。ただ「モーターサイクル・ダイアリーズ」が男たちの心の変遷を静かに描いているのに対して、今作はその大人への脱皮を「性」と「死」をベースに描いているのが、私を惹きつけて止まない大きな点なのだ。

性描写が非常にストレートなため、そこばかりに目が行ってしまう方もいるようだが、少年たちは「生」を感じるため、ルイサは「死」に向かうための、その自己確認の方法がセックスなのであり、むしろ、セックスの表現が奔放であればあるほど、その刹那的な行為の向こうに哀しみを感じる。

そのもの悲しさは、ルイサが隠している秘密によるところもあるのだが、3人が旅をしている時に出会うメキシコの風景によるところも大きい。物乞いをする人たち、銃を持った警官に取り締まられる民間人、道ばたに手向けられた花束…。車の中でセックスの馬鹿話をしている3人の窓の向こうには、そのようなメキシコが抱える社会問題や人権問題を訴える映像が織り込まれている。このさりげなさが映画に深みを与えている。

主人公ふたりの少年の設定も、実は富裕層の息子と母子家庭の息子というコントラストがある。家庭環境に決定的な溝があるふたりは親友だった。しかし、この旅はふたりの関係性も変えてしまった。ということで、この作品は「少年が大人になる旅」を軸に、実に様々なモチーフをバランス良く織り込んでいて、とても完成度が高い。

口から出任せに言った「天国の口」というビーチが本当に存在し、その美しい浜辺で過ごす3人。そして、旅の終盤、3人で交わり、そのあまりに甘美な快楽からキスをするフリオとテノッチ。僕たちは次の日、目を合わせられなかった。誰にも言えない秘密を持ってしまった。そして、僕たちはもう会うこともなかった…。

見終わって、3人の心の痛みがチクチクと残る。その切なさが、とってもいい余韻を残してくれる。フリオを演じるガエルとテノッチを演じるディエゴ・ルナは、実際にも親友同士だそうで、実に息のあった演技を見せる。大好きな作品です。
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by galarina | 2006-11-23 13:48 | 映画(た行)
2003年/アメリカ・イギリス 監督/ウォルター・サレス

「刻々と変わるガエルの表情がステキ」
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キューバ革命の指導者チェ・ゲバラ。その若き日の放浪の旅を描いたロード・ムービー。ガエル・ガルシア・ベルナルがチェ・ゲバラを演じた。

革命家チェ・ゲバラと聞くと、暴力的な荒々しいイメージを想像してしまいがちだ。「ゲバラの顔」プリントTシャツを着た若者も日本でもよく見かける。そう、ゲバラは革命の象徴だ。

しかし、今作のゲバラ(エルネスト)は、道中で何度も「バカ正直」な行動に出て、相棒のアルベルトに諭される。もっとうまくやれよ、と。若き日のゲバラは、とても純朴で素直な青年だったのだ。その最も象徴的なシーンは、旅の資金もないボロボロの身なりの彼らに飯と宿を世話してくれた教授が書いた小説の感想を求められるシーンだ。相棒のアルベルトは「すばらしい作品でした」と適当に褒める。しかし、エルネストは「陳腐な表現が多く、つまらなかった」とバカ正直な感想を述べる。

一事が万事この調子のエルネストに対して相棒のアルベルトはお調子者。時にはぶつかり合うも、長旅を共にするのにはいいコンビだ。実際の旅と同じ行程で撮影した、という南米の風景がすばらしい。砂塵をあげて走り抜けるバイク、銅山の荒々しい光景、マチュピチュの遺跡…。特に我々日本人にとっては、見たこともない景色が多く、非常に新鮮だ。その道程で巡り会う貧しい人々。自分の土地を追い出されたアンデスの先住民族や革命思想で追われて銅山で働く夫婦、そしてハンセン氏病患者たち。

お気楽にスタートした旅が彼らとの出会いによって、かけがえのない体験へと変わってゆく。まじめで正直なエルネストは「人々の役に立ちたい」という気持ちを固めていく。南米の現実を突きつけられ、次第に心に秘めたる思いを膨らませていくガエルの表情の移り変わりがいい。特に、終盤ハンセン氏病病棟での滞在で、うっすらと髭が伸び伏し目がちで思慮深くなった顔が素敵。

南米の貧困層との出会いは、ドキュメンタリータッチで撮影されており、我々も共に旅をしているような気持ちになる。旅は人を変える。優しく正直でダンスの苦手なエルネストは、この旅を経て革命家を目指した。その心の移ろいがじわじわと染みてくるいい映画です。
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by galarina | 2006-11-19 01:31 | 映画(ま行)

アモーレス・ペロス

1999年/メキシコ  監督/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

「あの彼女役はないよなあ」
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熱い、熱いよ。「トラフィック」の時も感じたけど、メキシコの風景および人々の熱情って、日本人から見るとホント異文化に感じる。熱気を感じます。熱風という方が正しいか。今、アメリカやヨーロッパの街並みを見てもなんとも思わないもんね、身近すぎて。

今作は3つの物語が同時進行し、交通事故をきっかけにそれぞれの物語が交錯する。こういう手法の見せ方は、お互いの話がつながるまでちょっとイライラしたりするんだけども、この作品は、最初の物語「兄嫁に恋する男」がとても面白くてぐいぐい引き込まれる。演じるのは、ガエル・ガルシア・ベルナル。兄嫁と逃亡するために闘犬に手を伸ばし、どんどん危ない世界へ足を踏み入れる青年をパワフルに演じてる。まあ、コイツがもの凄く積極的なんだ。で、恋する兄嫁が「なんでこの女なの?」ってくらいイカつい。美人じゃないってのも、それがそれで味なんだな。

アモーレス・ペロスとは「犬のような愛」だって。なるほど、見返りも期待せず、相手を愛して、愛して、愛し抜いた3つの物語。そして、いずれもその愛は報われはしない。ストーリーだけ見れば悲劇なんだけども、見終わった後は気持ちが沈むかと言えばそんなことは全くない。己の愛を全うするために全身全霊で生き抜いた人々の姿は、むしろ潔い。

暴力シーンや出血シーンも多いけれど、眉をひそめるような感情には陥らない。暴力を全肯定はしないが、これらのシーンを通じて人生を全力疾走で駆け抜ける生き様がよりリアルに我々にせまってくる。メキシコの街を走り抜けるようなドキュメンタリー風のカメラワークもかっこいい。

3つの物語が最終的に一つのエピソードに結実するわけではない。観客をあっと言わせるような展開に敢えてせず、突き放すようにそれぞれの物語は終わる。それは、大人だけが味わえるビターな結末。お子ちゃまのワタシは、3つの物語をつなげてあっと言わせて欲しかった、と甘い味を求めてしまうのだった。
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by galarina | 2006-10-24 22:07 | 映画(あ行)
2004年/スペイン 監督/ペドロ・アルモドバル

「ガエル・ガルシア・ベルナルのクドい女装。この趣味がまさにアルモドバル」
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ペドロ・アルモドバル作品は大好き。取り上げるテーマ、目の付け所がとても悪趣味でその趣味の悪さがスクリーンでは鮮やかな映像と個性的な俳優の怪演により、とてもキッチュでオシャレな作品に変身する。キワ物なんだけど、アートだし、文芸作品的。何だかカメレオンのような映画を作る。

ところがこの最新作では、物語が「入れ子構造」になっていて、その手法にこだわりすぎたのか、自分で酔ってしまったのか、いつものアルモドバル節がかなり弱く、拍子抜け。一番したかったのは、ガエル・ガルシア・ベルナルの女装なんて嫌みを言われてもしょうがないかも。

教会の神父による性的虐待というアルモドバルらしい目の付け所なんだけど、今作はネタとして面白かったから取り上げただけとも取られかねない消化不良な扱い方。よくこれで教会から抗議されないなあ。マドンナの十字架パフォーマンスなんかより、よっぽどひどいけど(笑)。前作「トーク・トゥ・ハー」でも非常にきわどいテーマを取り扱ってたけど、ちゃんとけじめをつけてたのに。

そもそもこの映画「入れ子構造」にする理由がわからん。語り口を凝るってことは、ラストにひねりがあったり、サスペンスとしてのオチがあったりするのかと思うがそれもたいして驚くようなものでもない。もっと素直な流れにして、ガエル・ガルシア・ベルナル演じるアンヘルという人物に深みを持たせた方がよほど面白くなったと思う。

ただドキッとさせる、これぞアルモドバル的カットが随所にあって、これが中毒のもと。今回は、ガエル・ガルシア・ベルナルがブリーフを半分ずり下げるカット。まず彼に白いブリーフを履かせるってのがね、アルモドバルでないと思いつかない(笑)。そして、クドい女装。筋肉モリモリのガエルが髪の毛カールして派手なパンプス履いてるんだもん。のけぞります。

今後もアルモドバルには、手法にこだわらず独自の変態道を突き進んで欲しい。最新作はペネロペ・クルス主演とか。アルモドバルの「オール・アバウト・マイ・マザー」で一躍脚光を浴びた彼女が主役になって恩返しってことで、期待も高まる。ハリウッドスターの仲間入りをしたペネロペがどこまでアルモドバル節に付き合っているのか、興味津々である。


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by galarina | 2006-10-22 22:25 | 映画(は行)