「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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ぜんぶ、フィデルのせい

2006年/イタリア・フランス 監督/ジュリー・ガヴラス

「人対人の信条をめぐる物語」
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1970年のパリ。裕福な家庭のもとで育てられている9歳の少女アンナは、弁護士の父と雑誌記者の母が共産主義に目覚めたことで、家庭環境が一変。前の暮らしに戻りたいアンナは、両親に反発。さまざまなトラブルが起こるのだが…

アンナはまだ小さい女の子で、「キョーサン主義ってなあに?」という質問ぶりから子供特有のストレートさ、そして「それは、ぜんぶフィデルのせいなのね。」という思考の短絡さを強調されてはいるけれど、およそ相手の信条がこちらにはさっぱりわからない類のものは、大人同士だって得てしてこんなものではないでしょうか。

夫妻はアンナを決して子供扱いせず、「子供のためにこうしよう」と言うことは全くしない。それに応じるかのようにアンナは常に親にくってかかり、疑問を問い糾そうとする。そこには「親」対「子供」ではなく、人間同士の率直な関わり合いが見て取れ、全編を覆うこのパッションあふれるやり取りがとても魅力的です。

こうして、アンナと両親は互いの思いやり、信頼を勝ち取ってゆく。ひいては、それがアンナという子どもの成長物語にまで高められているのがすばらしい。そして、そして。アンナはひとりの自立した「女性」として目覚めてゆく。これもまた、本作が単なる子ども成長物語と一線を画すところでしょう。女性監督らしい主張がしっかりと込められています。中絶の合法化運動に参加する母親。「キョーサン主義ってなあに?」という素朴な疑問と共に掲げられる「チューゼツってなあに?」という疑問。全ては呑み込めないものの、女性としての尊厳を持ち生きてゆくために奔走する母親の姿を見て、「同じ女性として」感じ、理解するアンナ。こうして、導かれるラストシーンの何と爽快なこと。

何でもかんでも「子供中心主義」の現代日本家庭から考えれば、我が子ひとりだけ授業を休ませたり、危険なデモに参加させたりする両親の行動に眉をひそめる人もいるかも知れません。当時の共産主義活動はかなりハードだったようだし、子どもが巻き込まれる可能性だってないわけじゃない。しかし、これまた大いなる問題定義のひとつだと考えれば、例えば夫婦で鑑賞するのにピッタリと言えるかも知れません。

「僕のピアノコンチェルト」「サン・ジャックへの道」に引き続き、年代や作品の好みに関係なく、幅広い層にオススメできるヨーロッパ発の佳作。アンナを演じるニナ・ケルヴィルの目ヂカラに吸い込まれました。
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by galarina | 2008-11-03 14:58 | 映画(さ行)
1977年/フランス・イタリア・西ドイツ 監督/リリアーナ・カヴァーニ

「魅力に欠けるサロメ」

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実は大学で哲学を専攻してまして、とりわけニーチェは好きな哲学者です。ですが、本作でのニーチェは「超人」なんてどこへやら、女に振り回されて病気がちなへっぽこじじいなもんで、かなり魅力にかけます。リリアーナ・カヴァーニは、「愛の嵐」が素晴らしいだけに、私は物足りないです。

で、その物足りなさの元は、ルー・サロメを演じるドミニク・サンダ。妖艶には程遠く、いかつい、いかつい。知性で男を呑み込むような威厳にも欠けます。ふたりの男を愛し、双方にもその関係性を納得させた上で同居する。誤解を恐れずに言うなら、これ理想です。でも、私は本作のルー・サロメがちっとも羨ましいとも、イカしてるとも思えなかった。やはり、こういう作品はどうしてもオンナ目線ですから、男性が見ればこの関係性に男の悲哀を感じるのかも知れません。

まあヴィスコンティ同様、いかにもイタリアン文芸エロス!な匂いはプンプン漂っております。そういうのがお好みの方は、それなりに満足できると思います。このイタリアン文芸エロスの匂いの素は、一体どういう描写に潜んでいるのか、と思いを馳せたところ、本作で言えばバレエシーン。前作「愛の嵐」でナチ将校を前に踊ったバレエダンサーが再び登場。恐らく、ニーチェの夢という設定でしょう。白塗りの全裸(!)の男がふたりで黙々とダンスします。これがね、美しいんですけど、キワモノ的ムードもいっぱい。大真面目ですけど、なんか変。見てて恥ずかしくなる。この感覚がイタリアンエロスの妙なのかしらという気がします。
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by galarina | 2008-10-16 21:06 | 映画(ら行)

明日へのチケット

2005年/イタリア・イギリス 監督/エルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチ

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有名監督による3部作ですが、どれも甲乙つけがたいほどいいですね。もう随分昔の話ですがユーレイルパスでヨーロッパを列車で旅すること、3回。「パリ、ジュテーム」に引き続き「ヨーロッパ行きたい病」に胸を掻きむしられる思いです。それにほとんど列車内の映像なのですが、あの揺れまくる列車の中で一体どうやって撮影したのだろうと驚くばかりです。通路は狭いし、機材の持ち込みも大変だったでしょう。また、あれだけ窓があれば、撮影スタッフは映り込みそうなものです。これは編集段階で処理するようなことがあったのでしょうか。いずれにしろ、その撮影の苦労を微塵も感じさせないような、軽やかで爽やかな作品に仕上がっているのが本当に素晴らしいと思います。

エルマンノ・オルミ監督による第一話
女性秘書に思いを馳せる老教授の食堂車でのほんのひと時のお話。ただ、彼女を思い出してあれこれ想像を膨らませるというだけですが、なんとまあ豊穣な世界が広がっていること。私はこの作品が一番好き。初恋の思い出も交えながら、回想と妄想が交錯する様が絶妙です。別れの後、揺れる列車内で、あれやこれやと思いを巡らせる経験は誰にでもあるはず。老人の妄想は控え目でありながら、彼女に触れられたいという欲望もちらりと覗かせます。そして、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキの何と麗しい表情。彼女の作品は結構観ているのですが、実に印象的な佇まいで魅了されました。

アッバス・キアロスタミ監督による第二話
窓に映り込む景色がとても美しいのです。青年兵士がうつろな表情で窓外を見やる。その背景に流れゆく木々の緑。老婦人に翻弄される彼の心情の揺れと見事にオーバーラップしていきます。この老婦人と青年は一体どういう関係なのかを推察したり、携帯を取られたと喧嘩になったその行く末にハラハラしたり、他の2作に比べて様々な不安が呼び起こされます。しかし、この車内の一角という限られたシチュエーションで、気持ちのすれ違いが起こす人情の機微を鮮やかに切り取っています。実に味わい深い作品。

ケン・ローチ監督による第三話
切符がない。よくあることです。そこから、まさかこんな心温まる物語に集結するとは思いもしませんでした。切符は盗まれたのだと主張する赤毛の青年の何と腹立たしいこと(笑)。そんな彼が勇気を出せたのは、難民たちが同じ車両の乗客だったからと考えるのは言い過ぎでしょうか。同じ空間の中で、同じ方向に向かって、同じ揺れを感じて旅をすることで生まれる連帯感。しかし、列車を降りれば、もうその繋がりは消えてなくなる。その刹那的な出会いに列車の旅の醍醐味が詰まっています。セルティックの応援歌は、そのまま旅ってすばらしいと言う賛歌に聞こえた、実に鮮やかなエンディングでした。
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by galarina | 2008-06-14 15:38 | 映画(あ行)

題名のない子守歌

2007年/イタリア 監督/ジュゼッペ・トルナトーレ
<京都シネマにて鑑賞>

「子を持つ全ての母親に捧げる」
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「ニューシネマ・パラダイス」のほろりと泣かせるイメージがどうしても強いジュゼッペ・トルナトーレですが、本作はサスペンスタッチのかなり硬派な作品。セックスシーンの女性をいたぶるような描写もかなり強烈です。実は前作「マレーナ」でも、そういうシーンはあったので、我々はあまりにも「ニューシネマ」のイメージを引っ張りすぎているのかも知れないです。

ウクライナからやってきたひとりの女性が、イタリアの街で家政婦として働き始める。彼女が何としてもその家で働きたい理由は、一家の娘の存在にあるようなのだが…

前半1時間ほどは、なぜ主人公がウクライナから逃れて来たのか、そして、その娘への異様な執着はどこにあるのかがサスペンスタッチで描かれてゆきます。時折挿入される映像で、どうやら彼女がウクライナでは売春まがいのことを強要されていたことがわかります。そしてフラッシュバックのように挿入されるシーンから彼女がただの売春婦ではないことがうかがえる。もちろん、その真相はここでは書きませんが、そのあまりにもつらい現実に全ての女性は怒りを禁じ得ないのではないでしょうか。

ところが本作、音楽があまりにもうるさい。エンニオ・モリコーネの音楽が良くないというわけではないのですけど、あまりにも全てのシーンに音楽がくっついているのがかなり余計。前半のサスペンス部分はまだ許せるとしても、後半実にシリアスなテーマになっていくくだりは、もう音楽はいらないからじっくり考えさせてくれとすら。それが、とにかく残念な点。

また、フラッシュバックの手法をかなり引っ張るんですねえ。私としてはもう少し前倒しにいろんなことを早く見せるべきだったように思う。主人公イレーナが前半取る行動は真相を知らされていないだけに、観客はなかなか感情移入できない。なるほど、それで彼女はそこまでやるのか、という理由がわかったら、後は彼女と共にスクリーンの中で生きたかった。そうしなければ、やたらとどぎつい虐待シーンばかりが脳裏に焼き付いて離れないからです。もう少し、手法にこだわらずにそのまま見せて欲しかった。

ネタバレになるので、詳しく書けないのがつらいところですが、イレーナの素性が明らかになる部分は、社会的にも実に重い問題です。今でもこんなことが堂々と行われているのだとしたら、悲しくてやりきれません。だからこそ映画として、きちんと告発し、そのいきさつをじっくりと観客に考えさせる余地を与えて欲しい。えっ、そうなの?どういうこと?と思っている間に、矢継ぎ早にエンドロールまで走っていってしまう。そういう性急さが実にもったいないのです。

さて、主人公を演じるロシアの女優クセニア・ラパポルトの体当たりの演技には拍手。ウクライナ時代の彼女と現在の彼女のギャップがあまりにも大きくて、こんなにも人は変わるものかな、と。非常に美人だし、スタイルもすばらしい。しかし、敢えてその美しさを封印して演じたところにイレーナという女性が背負ってしまったどうしようもない暗い運命を感じました。

それにしても、普通に結婚して、普通に子供を産み、普通に自分の手で我が子を育てている今の生活がいかに幸福なことなのかを痛感させられました。
全ての女性に幸福を、と願わずにはいられません。
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by galarina | 2007-10-08 23:41 | 映画(た行)

息子の部屋

2001年/イタリア 監督/ナンニ・モレッティ

「何かが起きてそうで、何も起きていない、奇妙な映画」
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カンヌ映画祭、パルム・ドール受賞作品と思って見始めてしまったから、正直肩すかし。最近のパルム・ドールって、問題作が多いのですごく身構えて見てしまったのが失敗の元。

本作は息子が不慮の事故で亡くなり、喪失感にとらわれる家族を描く作品。家族の突然の死によりみんなの心がバラバラになり始めた時に、予期せぬ一通の手紙が届く。しかし、その手紙の顛末もさして起伏なく、淡々と物語は進む…。息子を亡くした喪失感を家族で埋めるプロセスが描かれるわけでもなし、主人公が何かを乗り越えるわけでもなし。静かな物語でもじっくりと余韻を残す作品かと、期待して見てたら、あらあら終わっちゃった…って感じなのだ。

ただ、この作品で妙に印象に残ったのは、意図的な「外し」のような部分。例えば、息子に手紙を送った少女が家に訪ねてくる。つい先日、あなたのことが忘れられないという内容の手紙を書いているくせに、なぜかもう新しいBFとヒッチハイク中なんですね。こういう「外し」は個々のエピソードだけではなく物語全体をも包んでいる。何かが起きるんだけども、わかりやすい顛末には決してならないという。

精神科医である主人公ジョバンニは、息子とランニングに出かけようと約束していたのに、急な患者の呼び出しに応じてしまったがために、息子は別の約束を取り付けてしまい事故にあってしまう。だから、ジョバンニは、往診に出かけたことがトラウマになってるわけ。しかも、息子が死んでからもその患者のカウンセリングは続いている。普通なら、そこでその患者と何かが起きる、または、そのトラウマを乗り越える何かが起きると考えるのが普通。でもね、なーんにも起きないんだ、これが。

実はこの「外し」が気になり始めてから、私の頭には北野武の映画がよぎったんです。監督、主演も自分でこなし、淡々と進む物語でテーマは死。そして、出来事と出来事がストレートな因果関係で繋がらない、見ていてもどかしい感じ。北野武の映画がイタリアでウケるのも何となくわかるような気がした。

ただ、非常に個人的な好みの問題なんだけど、北野武の映画には、この「外し」の向こう側に様々なイマジネーションが見ていて湧いてくる。逆に言うと、そこを楽しむ作風と言える。でも、この作品では、それができなかった。息子が死んでもなおカウンセリングを続けるジョバンニの胸中を表現するシーンでいくつか味わい深いところもあったのは確かだけど、パルム・ドールなんて知らずに見れば良かったなあ。
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by galarina | 2007-06-28 23:18 | 映画(ま行)