「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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ハンニバル・ライジング

2007年/アメリカ・イギリス・フランス 監督/ピーター・ウェーバー

「ハンニバルがハンニバルたる由縁はどこに」

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シリーズファンとてしては、とりあえず見ておこう、というスタンスの映画よね。
これは、しょうがない。

結果としては、シリーズを貫く崇高なムード。これが、一歩及ばず、という感じ。リトアニアのレクター城や、レディ・ムラサキが創り上げたミステリアスな祭壇、人間の臓器が陳列する研究室など、それらしいムードを作るバックボーンはかなり揃ってる。なのに、物足りない。それは、レクター本人、つまりサー・アンソニー・ホプキンスが身に纏うムードなのかも知れない。そこんところをギャスパー・ウリエルに求めるのはもちろん、酷な話ではあるんだけれど。ただ、レクターという男の尊大さやプライドの高さなど、様々な面でギャスパー・ウリエルは熱演だったと思う。

これまでの作品で創り出されたハンニバル・レクターという男を見るに、彼の殺人者としての有り様は、「復讐」という泥臭い言葉など本来最も遠いイメージだと思う。レクターは生まれながらにして、あのハンニバル・レクターであるはずなのだ。だから若き日のレクターの内面に迫る演出が少ないのがとてもひっかかる。ひとり、またひとりと殺していくごとに、彼の中の凶暴性が目覚めたのではないか。殺すこと、そのものが快感になっていったのではないか。殺した人間のまさに血と肉を得ることによって、レクターはモンスターとなった、その瞬間をもっと鮮烈に描けなかったか、と思う。これならば、妹の復讐が終わった時点で、目的は果たせたことになる。つまり、もう誰も殺す必要はない復讐犯の物語だ。レクターは妹の復讐を完遂させてもなお、「あの」ハンニバル・レクターでなければならないはず。

さて、コン・リー演じるレディ・ムラサキを始めとする日本的描写の部分なんですが、これは意外と違和感なかったですねえ。確かに鎧武者を拝むってのは変ですけど、「八つ墓村」でも小梅さんと小竹さんは、洞窟の中で鎧武者を奉ってますからね(笑)。レクターの冷静沈着さと日本武道のストイックさを結びつけるって言うのは、いかにも外国人の視点ですが、それほど的外れでもない感じがします。むしろ、レディ・ムラサキを愛していると言ったレクターですけれど、これまたその内面があまり見えず、違和感が残りました。

本作、原作者のトマス・ハリスが脚本を担当しているので、レクターの内面に迫れていない、というのがなおさら引っかかるんでしょう。もしかして、「ハンニバル・ライジング」→「レッド・ドラゴン」に繋げるために、もう1本作ろうとしているのか!?
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by galarina | 2007-11-30 23:49 | 映画(は行)

ラブ・アクチュアリー

2003年/イギリス 監督/リチャード・カーティス

「クリスマスよ早く来い!って気分にさせられる」
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まあ、イギリスのスターが勢揃いって感じですね。クリスマスを前に誰もがあったかい気持ちになれる良品と言ったところかしら。アクの強い作風が好みの私としては、ビル・ナイ扮する売れない中年ミュージシャンのエピソードがいちばん面白かったかな。新しくレコーディングしたクリスマス・ソングを自ら「クソみたいな曲」(全く同感!)と自虐的に言ってみたり、売れたからエルトン・ジョンのパーティに呼ばれたなんて話を入れたりして、業界を皮肉るような表現がイギリスらしくて面白い。

ヒュー・グラントが首相ってのは、かなりアリなんじゃないでしょうか。各国女性大臣はメロメロで、外交もスムーズに行きそうだなあ。そんな彼がややおデブちゃんの秘書に恋をするなんて、かなり好感度アップよね。本当に実現するかも。シュワルツネッガーの知事より、何十倍もスマートだわ。ポインター・シスターズの曲に乗ってノリノリで踊ってるヒューを見て、こりゃやっぱり「ラブソングができるまで」を見なきゃ、なんてことも思いました。この曲ディスコでよく踊ったもんです。

親友の妻に恋してしまった、大好きな相手と言葉が交わせない、と言う切ない物語があったかと思うと、ラブシーンのリハーサル専門の女優と男優がいつもすっぽんぽんで親交を深めていくなど、それぞれの恋のカタチのバリエーションがとっても豊かなのね。それが本作のすばらしいところ。恋のカタチは十人十色。それを巧みにまとめあげてる。ちょうどクリスマス3週間前からスタートするので、今が見頃かも。クリスマス気分を盛り上げるには格好の作品じゃないでしょうか。
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by galarina | 2007-11-29 23:15 | 映画(ら行)

赤い殺意

1964年/日本 監督/今村昌平

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この時代の今村監督の作品は、モノクロのコントラストが実に美しい。市川崑が「黒を作り出す」巧さだとすると、今村昌平は「白を作り出す」巧さではないでしょうか。いや「白」と言うより「光」の使い方と言った方が正しいか。

春川ますみ演じる主人公貞子は、いつも毛糸の帽子に野暮ったいスカートを履き、体も太っているし、はっきり言って美人ではない。そんな彼女が幾度となく強盗犯に陵辱される。のけぞる彼女の顔、特にぽっちゃりとした頬に光が照らされる。その時の彼女の艶めかしさと言ったらこの上ない。それは、レイプされる女を美しく撮ろうというごまかしの映像では決してなく、言われなき陵辱に為す術もない女の顔に迫れば迫るほど、恐ろしいような美しさが際だってくるのだ。

このようにどこに光を当てるかで、見せたいもの、強調したいものを瞬時に観る側に悟らせる。これは、モノクロ映画ならではのテクニックだろう。光の存在は、特に室内の撮影で効果を発揮している。安普請の日本家屋、無理矢理連れて行かれる連れ込み宿、強盗犯が勤めるストリップ小屋。どこにいても光の存在が際だつ。不幸を絵に描いたような貞子と言う女の物語の泥臭さと「白」の強調がもたらす映像の美しさが見事に溶け合っている。先に書いた「にっぽん昆虫記」も同様だ。

夫、姑、社会、制度。あらゆる呪縛にただただ耐える女、貞子。夫からぶたれようが、姑からいじめられようが、愛人から馬鹿にされようが、「わたしはなにもできない女」という思い込みは、骨まで染みている。あげくの果てに強盗犯にレイプされ、付きまとわれ、いいことなんかなんもないと世の中を嘆く。貞子という女はとことん無力で、自分を卑下して生きている。その様は、現代人にはとてつもなく愚鈍に見えるが、しかし、女という生き物の一つの側面であることには間違いない。一方、貞子を囲むふたりの男。妻をいびることしか頭にない夫(西村晃夫)と死期を前に強引に女に迫る男(露口茂)は非常に身勝手だし、器が小さい。が、しかし、その狭量さもまた、男という生き物の確かな側面なのだろう。人間の醜さやずるさを切り口にして、「生」を鮮やかに描く。これぞ、今村昌平の真骨頂。

自ら自分を変えようという積極的な意思はかけらもなく、ただ男の好き放題に呑み込まれるだけの貞子だが、それゆえ、多くの修羅場を切り抜け、ほんの少しの強さを身につける。夫には絶対服従だった貞子が、夜中にザッザッと編み機を動かす。「うるさい」と言われても動かす。「子どもの学費がいりますから」と初めて口答えする。そのほんの少しの第一歩は貞子をこれからどう変えていくのか、彼女の後ろ姿に思いを馳せる、秀逸なラストシーンだ。
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by galarina | 2007-11-28 23:19 | 映画(あ行)

アラキメンタリ

2004年/アメリカ 監督/トラヴィス・クローゼ

「ドキュメンタリー以前」


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若い外国人監督と言うことで、ほとんどアラーキーの紹介に終始していて、ファンとしては目新しいことがなく、ちょっと残念な作品。外国人の目から見た、日本的エロスの代表者なんでしょう、アラーキーは。ゆえに緊縛などのヌード写真の様子をメインに展開している。が、しかし、緊縛写真だけで荒木を語ることができないのは、ファンなら誰しも知っていることで、確かに陽子夫人の話やその他の写真も展開されているが、全体的には女性の局部の残像だけが残ってしまった感じだ。もう少し、違う切り口があっただろうに。

例えば、女性の緊縛写真を海外で発表する際、フェミニズムの観点から「こんな写真は展示できない」と拒否されることがあると言う。その摩擦はなぜ起きるのか。海外に向けて荒木というカメラマンを紹介するには格好の材料だと思うのだけど。なぜ、荒木の前で女たちは何もかもさらけ出すのか。見た目ただのエロ爺にしか見えない荒木をなぜみんなはモンスターと恐れるのか。ネタはいっぱい転がってるのに、ただ撮影風景と関係者のインタビューをダラダラと撮っているだけなんだなあ。これは、ドキュメンタリーと言うよりも、もっと前段階のフィルムですよ…

ダイアン・アーバスを見たばかりなので、ちょっとその観点で。フリークスを撮影したいという衝動に逆らえなくなったダイアンを夫のアランは理解できなかった。ダイアンはその後離婚し、48歳という若さで自殺している。一方、女性の裸を追い求め、局部にまで迫る荒木を、陽子夫人は理解した。いや、彼女こそ、最大の理解者であった。赤裸々なセックスの写真も含む新婚旅行での日々を撮った写真集を当時電通に勤めていた陽子夫人は自ら売り込んでいたと言う。(このエピソードは本作の中で荒木自身の口から語られていて、こういう部分をもっと突っ込めなかったかなあ、と思う)

やっぱり、自分の傍に理解者がいるかどうかということは、表現者の生き方に大きな影響を及ぼすんだなあ。だって、アラーキーはどこに行っても歓迎され、多くの人に愛され、陽気にふるまう。きっと、それは陽子夫人が彼を理解し、彼に大きな自信を与えていたからだと思う。というわけで、作品が今イチだったので、今から「センチメンタルな旅」でも見て気分を盛り上げるのだ。
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by galarina | 2007-11-27 23:21 | 映画(あ行)

犬神家の一族

1976年/日本 監督/市川崑

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横溝作品の映画化が大成功を収めた一番大きな要因は、市川崑の「様式美」が持ち込まれたことだ。横溝作品に美しさがないということはないが、作品に「品格」を与えるような美しさが生まれたのは、やはり市川監督の手腕に他ならない。その「様式美」を成すのは市川流の流麗なカメラワーク。そして、古い日本建築の徹底的なこだわりようだ。犬神家では、壮大なお屋敷の中の襖絵や金屏風、古びた商人宿の柱時計に至るまで戦後の日本が美しく再現されている。超都会っ子の小学生の私にとっては、横溝+市川版は一種のファンタジー映画だった。その完璧なまでの世界観は、ありえない世界。おとぎ話だったのだ。

そして、原作よりもコミカルな部分が多いこと。原作において、喜劇的な側面はほとんど金田一耕助がひとりで担っている。しかし、映画では「よーし、わかった!」の名ゼリフの橘警部を演じる加藤武を始め、三木のり平や坂口良子といったメンバーがそこかしこで軽妙なムードを作り出す。それは、おどろおどろしい殺人事件と絶妙な緩急を作り出している。そして、ルパンシリーズで有名な大野雄二の音楽が、実に現代的でいい。

こうした、現代にマッチさせるための工夫がある一方で、市川監督は本シリーズに横溝作品における大切なモチーフを、より増幅させて表現している。それは「哀切」のムードだ。最も代表的なのは、ラストの金田一の別れのシーンだろう。「見送られるのは苦手なんです」と事件現場を去る金田一の後ろ姿に、事件のやるせなさが余韻としてじんわりと残る。このラストの切なさこそ、金田一シリーズの肝になった。犯人松子を殺人に駆り立てていたのは、佐兵衛翁の怨念ではないか、という含みも実は映画独自の解釈なのだが、これまた悲しき殺人者像を作り上げるすばらしいアイデアであったと思う。

何度も見てもラストまでぐいぐい引っ張る。横溝作品に限らず、あらゆるミステリーにおいて真犯人の独白は、この上ないカタルシスを見る者に与えるが、本作においては高峰三枝子の熱演が光る。最初は金田一の来訪にも堂々とふるまっていた松子。が、観念して静馬殺害を告白し回想シーンの後、アップに切り替わった時の、あの魂が抜けたような表情。本作以降、殺人犯こそ、女優としての気概を見せる格好の役どころになった。これまた、実に画期的な出来事だったのではないだろうか。
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by galarina | 2007-11-26 22:34 | 映画(あ行)

原作/犬神家の一族

発表年/昭和25年
舞台/昭和2×年 信州・那須


「オープニングを飾るにふさわしい作品」

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私は、ドラマや映画の横溝作品が大好き。特に「市川+石坂版」が。小学生のくせに、毎週古谷一行も観てました。ところが、こんないい年になるまで、原作をひとつも読んだことがなかった。なぜなら、映像世界だけで十分満足していたからなんですねえ。

そもそも、私が映画を観てから原作を読もうと思う動機は、原作を読んで何か明らかにしたい場合があった時、つまり映画で完全燃焼できなかった時がほとんどなのだ。しかし、横溝作品においては、なぜだか一度もそう感じたことはなかった。そして、映画は一体どれほど繰り返し見たことだろう。しかし、こうやって記事を書くようになり、もしかして原作を読めばより映画が楽しめるんだろうか、という考えに遅ればせながら辿り着いたというわけです。

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のっけから驚き。いきなり犬神佐兵衛の生い立ちで始まるプロローグで、育ての親野々村大弐との男色関係が語られる。映画ではずいぶん後で明らかになる秘密が、いきなりのネタバレです。しかし、初めて読む読者はこの淫靡な世界に、開いた数ページで一気に横溝ワールドに引きずり込まれるのでしょう。

私は以前、横溝正史と江戸川乱歩の作風が似ていると耳にしたことがあったのですが、映画でしか横溝作品を味わったことのない私には、似ても似つかぬものとしか思えませんでした。しかし、こうやって実際に読んでみると、登場人物、特に女性たちの「お黙り!うそをおっしゃい!」とか「なんでもありませんのよ」などと言った仰々しいしゃべり言葉に、なるほど乱歩との共通点を見いだしました。そして、何より絶世の美女が出てくる、ということ。

「犬神家の一族」ではもちろん珠世だ。原作での珠世登場シーンはこんな風。「珠世の美しさは、ほとんどこの世のものとは思えなかった。----美人もかえってここまでくると恐ろしい。戦慄的である」いやあ、すごい褒めようですね。他の作品もそうだが、この浮世離れした美女の描写は、およそ現実世界とは乖離しており、それを映像化するとどうにも嘘くさくなったはず。しかし、映画化を市川監督が出がけたことで、そこは難なくクリアできた。横溝正史と市川崑という組み合わせ、これは実に幸福な巡り会いだったんだと原作を読んで改めて思った。

そして、角川書店が映画界に進出する、その先陣を切るために、なぜ本作を選んだのかよくわかる。遺言状の公開という実に鮮やかなオープニング、莫大な遺産相続を巡る殺人事件、松子、竹子、梅子など子供にも分かるような家族関係、「よき・こと・きく」という言葉遊びを絡めた謎など、本作を構成する要素はまさにミステリーの王道のアイテムばかり。平家の怨念や田舎の因習など、日本の民話や風習をふんだんに盛り込んだ作品も多い横溝正史だが、こと「犬神家の一族」に限っては、そのようなじめじめした村社会は出現しない。「八つ墓村」や「悪魔の手鞠歌」などが「陰」とすれば、本作は間違いなく「陽」。シリーズのオープニングにふさわしい華やかさを持っている。

原作ではお琴の師匠が青沼菊乃だったんですね。映画版にどっぷり浸かっている身とすれば、原作と映画との違いがあちこちで目につく。しかし、これもまた楽しい作業。市川監督が何を省略して、何を加えたのかよくわかる。これまで何度も見てきた金田一シリーズだが、「読んでから観る」とまた違った味わいが出てきそうだ。
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by galarina | 2007-11-25 23:28 | 映画の原作

毛皮のエロス

2006年/アメリカ 監督/スティーヴン・シャインバーグ

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「アーティストが目覚める時」

「写真」ほど、「自己」と「対象物」の関係性がシビアなメディアはないと思う。確かに映像の世界も、映すモノがあってこそ成り立つものだけれど、カメラのシャッターを切ると言う行為は、その「一瞬を切り取る」ということ。それは、映すモノがそれでなければならぬ必然性、その瞬間でなければならない必然性がある。この作品は、ダイアンの自己開放の物語であると同時に、カメラマンという人種が撮りたいものをどう捉え、どの瞬間に撮る決意に至るのかを示している。つまり、本作の主人公ダイアン・アーバスその人もその作品もかなり特異ではあるが、撮るに至るプロセスは全てのカメラマンも彼女と同じであると私は思う。

ダイアン・アーバスは撮影前には彼らとベッドを共にすることもあったと聞いたことがある。本作では、ダイアンにとっての「対象物」が彼らでなくてはならない理由が紐解かれていくが、そのベースにあるのは「好奇心」と「自己開放」。ダイアンは元々持っていた自己顕示欲をいいところのお嬢さんであったため、満足させることができなかった。それが多毛症の男との出会いから一気に開放されていく。彼らの前ではダイアンは自分らしくいられた。夫のことも娘のことも忘れてのめりこむ様子は、まさにひとりのアーティストの目覚めのプロセス。有名なドイツ映画で「フリークス」という作品があるが、彼らのような障害を抱えた人たちを神の子と捉える人もいる。対して、ダイアンにとっての彼らは、自分が自分でいるための存在。自分が生きるために必要不可欠な存在ではなかったのだろうか。

しかしながら、本作は実話に基づいたものではないと言っている。夫と共に広告写真を撮っていたことなど、取り巻く環境のある程度は事実に基づいているけれども、まさにこの作品のモチーフである「目覚め」については完全にフィクションである、と。しかし、ダイアン・アーバスの人生と作品が観るものの様々なイマジネーションを掻き立てるものであったからこそ、このような作品が生まれたと言える。私は仕事でいろんなカメラマンさんとご一緒するのだが、「撮る」という行為は、実にストイックだと思う。対象物が自分の撮りたいものであればあるほど、自分の身も心も削られていくよう。本作は、ダイアン・アーバスをニコール・キッドマンという有名女優が演じたことで、写真に興味のない方でも本作を観るきっかけができた。それは、新しい世界への誘いとして実に意義あることだと思う。
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by galarina | 2007-11-24 23:51 | 映画(か行)

ラッキーナンバー7

2005年/アメリカ 監督/ポール・マクギガン

「どんでん返しと言うほどでも…」

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あんまり「大どんでん返し」ばかりを宣伝文句にしちゃうと、おもしろい映画も見方が変わって来ちゃう。そんなことを本作でしみじみ感じました。というのも、どんな大どんでん返しが行われるのか、そこばっか気になっちゃって。やっぱりストーリーそのものに興味をそそられて、見るべきなんですよね、映画って。

本作で言えば、ニックという男に間違われたことで2つのマフィアから目を付けられてしまう男、スレヴンの物語。そこに、なぜかグッドキャットと呼ばれる殺し屋の影がちらつく。一体彼は誰の味方なのか、そしてスレヴンはこの危機をどう脱することができるのか…と言ったところでしょうか。

時折挿入されるフラッシュバックの映像をヒントに、振り回されながらも何か企みがありそうなスレヴンの真意を読み取る作業はなかなか楽しい。映像もとてもスタイリッシュで、マフィアが潜むホテルやニックのアパートなど、ニューヨークらしいオシャレな建築物も全体の雰囲気とぴったり合ってる。

ただね、私はだいぶ前からオチが何となくわかってしまいました。だけども、件の「大どんでん返し」が頭にこびりついていたため、まさか私の予想通りではないだろうと、もっともっと裏をかいたオチがあるんだろうと思っていたのですが…果たして予想通りでした(悲)。というわけで、あまり深く考えずに見るのが正解かと。

それにしても、ルーシー・リュウってアジア人で若く見えるからなのか、実年齢より若そうな役が回ってきて、結構おいしいポジションですね。
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by galarina | 2007-11-20 23:27 | 映画(ら行)

あの子を探して

1995年/中国  監督/チャン・イーモウ

「とてもいい話なのに、どこまで素直に受け止めていいかわからない」

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過疎の村の小学校の代用教員になった13歳の少女ウェイは、1ヶ月間生徒が誰ひとり学校を辞めなかったら50元もらえるということで、授業もそっちのけでひたすら生徒たちの監視を続けていく。そんなある日、クラスのひとりホエクーが、出稼ぎに行ってしまった。ウェイはチャンを探しに町へ赴くのだが…。

これほど、感想を書くのが難しい作品は未だかつてないかも。なぜなら、セミ・ドキュメンタリーという構成は、どこまでが現実でどこからが虚構なのか、わからなくなってしまうからだ。表向きは感動作品であり、もちろん、このまま素直に受け止めればいい。ラストの黒板のシーンなんて、とっても美しくて思わず泣けてきた。ところが、このシーンにとあるナレーションがかぶさって、一気に私の涙が止まる。それは、ウェイがテレビに出たことによって、これこれの寄付があり、そのお金をこのように使いました、と言う内容のものなのだ。

ホエクーが出稼ぎに出かけ、必至にウェイが街で彼を捜し、テレビで涙の訴えをする。それらは、私はあくまでも素人の子供たちを使った架空の物語だと思っていた。もちろん、この物語の背景である中国や抱える教育問題は事実なんだろうと思う。過疎で貧しい子供たちが直面している現実。それこそがこの作品の訴えたいことであろう。しかしながら、この物語がきちんとした脚本に基づいたものだとしたら、この寄付をした人はいっぱい食わされたということにならないだろうか。

それとも、ウェイが代用教員になったことも、ホエクーが出稼ぎに出かけたことも、事実なの?だったら、寄付の話も納得できるんだけど。本作、メイキングが出ているらしいので、この疑問もそれを見ればわかることなのかも知れない。でも、メイキングを見ないとはっきりとした感想が書けない作品って、どうも納得できない。だから、セミ・ドキュメンタリーという作風は感想が書きづらいのだ。

出てくる大人が、子供たち対して冷たい。これにしても、本当にそういう反応だったのか、それともイーモウ監督の演出なのか。どちらかによって、私の感想も変わってくる。ああ、ややこしい。

子供たちの生き生きとした様子は見ていて気持ちよかった。貧しいながらも女の子たちが来ている洋服がかわいくてね。やっぱり女の子だから赤い色の洋服が多くて、それが村の景色と相まってすごくきれいに見える。ホエクーに勉強をさせたいわけじゃなくて、ただお金が欲しいから探しに行くんだって言う動機も実に子どもらしくていいなと思う。ウェイという女の子の性格は、とても頑固なのよね。融通が効かないの。いつもぶすっとしているし。その辺は妙なヒューマニズムを持ち込んでなくて、とてもいいと思う。ラストに向けて「いい話だなあ」とじわ~んとしていただけに、なんで最後の最後になって現実に戻すようなナレーションを入れたのか、本当に合点がいかない。
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by galarina | 2007-11-19 23:21 | 映画(あ行)

ビッグ・リバー

2003年/アメリカ 監督/舩橋淳


「どこまでも高いアメリカの空」

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何も起きない淡々と流れる映画といろいろ聞いていたのですけど、
いや、これがね、意外と良かったんだな。

砂漠のど真ん中、まっすぐに進む道。時折見えるのは、巨大な岩だけのアメリカの大地。こういう景色を舞台にしたロードムービーは多い。しかし、撮る人間によってこうも印象を変えるものなのかとこの作品を通じて再確認できた。例えば「イージーライダー」ならワイルドで荒くれたイメージ、「バグダッド・カフェ」なら憂いのイメージ。本作では、この広大な景色に私はアメリカの「包容力」を感じた。小さな摩擦を起こしながらもほんのひと時の旅を続ける3人をすっぽりと包む込むアメリカの大地。

構図も非常に計算されていると思う。狙ったショットが多い。そこが、ジャームッシュもどきと感じてしまう方はダメなのかも。でもね、私はとても気持ちよく受け止めることができた。たぶん、それは高い高いアメリカの空のせい。そして、常にシンプルである続ける絵の美しさ。車のボンネットに座る3人と青空。画面の中にそれしかない。そんな最小限の情報しか存在しない映像がやけに心地いい。

「袖振り合うも多生の縁」。バックパックで旅した私にも経験がある。旅が終われば二度と会うことはない、そんな人たちとのひと時の邂逅。それらは、後で思い出すとやたらにセンチメンタル。そして、彼らを思い出す時には、必ず出会った場所も同時に思い出す。哲平がサラを思い出す時、そこには必ずアメリカの大地のぬくもりが伴うだろう。舩橋監督は、アメリカで映画を学んだ方のようだが、アメリカに対する温かい目のようなものを私は感じた。

さて、白人の金髪女性とベッドシーンを演じられる日本人の俳優は、今のところオダギリジョーしかいないんじゃないでしょうか。渡辺謙や真田広之のような「私はニッポン代表です!」みたいな看板しょってる俳優はまず無理ではないかと。「ニッポン」という記号性と金髪美女の組み合わせは、どうしても滑稽に見えるんですよ、悲しいかな。でも、オダギリジョーの無国籍なイメージは、「ニッポン」という看板を観客に忘れさせる。これは、海外作品に出るにあたり、大きなメリットだと思う。ぜひまた海外作品にもチャレンジして欲しい。金髪美女を振り回すなんてカッコ良すぎるよ、オダギリくん。
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by galarina | 2007-11-18 22:16 | 映画(は行)