「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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新宿泥棒日記

1969年/日本 監督/大島渚

「盗まれる言葉たち」

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これはとても詩的で実験的な作品。紀伊國屋書店でジュネの「泥棒日記」を万引きをした青年、横尾忠則が彼を捕まえた女性店員、横山リエと性をめぐる観念の世界へ逃避行に出る。そんな感じでしょうか。
本を盗むということは、言葉を盗むということ。故に、言葉の洪水のような作品でもある。言葉によって喚起される数々のイメージを頭に思い描きながら、新宿の街を泥棒気分で逃げ回るのだ。

性科学権威の高橋鉄によるカウンセリングシーンや佐藤慶や渡辺文雄がセックスについて大まじめに語り合うシーンなどのドキュメンタリー的なシーンと、様々な文学の一節を朗読するシーンや唐十郎率いる状況劇場の舞台などの観念的なシーン、それらが虚実ないまぜ、渾然一体となって進んでいく。

ひと言で言うと「映画は自由だ!」ってことかしら。物語とか、辻褄とか、わかる、わからないとか、そういうところから一切解放されて映像を紡ぐこともこれまた映画なり。わかるかと聞かれると全くわからんのですけど、面白いかと聞かれると間違いなく面白い。この面白さっていうのは、やっぱり作り手の「自由にやってやる」という意気込みがこっちに伝わってくるから。その鼻息が通じたのか、ラストは撮影中に出くわした新宿の本物の乱闘騒ぎの映像が入っており、当時の生々しい空気感が感じられる。

シーンとシーンの間に、時折文字のみの映像が差し込まれるのだが、冒頭は確か「パリ、午後二時」とかそんなんなのね。その中で「ウメ子は犯された」って文字がでかでかと出てくるシーンがあるんだけど、つい吹き出してしまった。犯されたことが可笑しいとか、そういう不謹慎なことではなく、そんなことわざわざ文字にするなよ、見てりゃわかるじゃんってこと。とことん性に対して大真面目に突進していく様子が何だかおかしいのだ。

それにしても、この時代の作品は大島渚だけでなく、女と言うのは、常に「犯される存在」だ。今で言うともちろんレイプということになるのだけど、この時代はやはり「犯される」という言葉が一番ぴったりくる。それは、征服するための行為というよりは、むしろ「聖なるものを穢すことで何かを乗り越える。そのための儀式」に感じられる。

それだけのリスクを冒さなければ、向こう側に行けない。手に入れたいものが見えない。そんな時代の鬱屈感を表現する一つの方法。それが女を犯すという描写ではないかと感じるのだ。このように言葉にすれば、女をコケにしたとんでもない表現方法に感じるかも知れないが、逆の視点で見れば、当時の女という概念はそれだけ聖なるものであり、乗り越えなければならない高みを示していたのかも知れない。

犯し、乗り越えていくためのシンボルとして女性が描かれることは、今やほとんどなくなってしまった。それは果たして、喜ぶべきことなのだろうか、それとも悲しむべきことなのだろうか。横山リエの妖しげな表情を見ながら、ふとそんなことを考えてしまった。
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by galarina | 2007-07-31 23:43 | 映画(さ行)

新宿マッド

1970年/日本 監督/若松孝二

「新宿の“中"と“外"」
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私が映画ファンになったのは、学生時代「大毎地下劇場」という御堂筋に面した小さな地下劇場で、日本やヨーロッパの古い作品をたくさん見たのがきっかけだ。今は子供も小学生になりハリウッド映画も見るけれど、個人的には60年代後半から70年代のATG作品が大好きだ。

モノクロームのATG作品を見て強く感じるのは、私もこの時代の息吹をリアルに感じてみたかった、というストレートな願望だ。この時代をリアルに生きた人が羨ましい。体制への反抗、あふれ出る創作意欲、表現することが生きることと同じ価値を持っていた時代が放つ圧倒的なエネルギー。それを、この自分の肌で感じてみたかった。

本作「新宿マッド」は、新宿で劇団員をしていて殺された男の父親が、息子が殺された理由を知りたいと、九州の田舎町から上京し、新宿をさすらう物語である。前衛的な作品も多いATG作品の中では、この「新宿マッド」は比較的わかりやすい物語だと思う。

息子の父親は田舎で郵便配達夫をしている。地方都市の郵便配達夫というのは、おそらく「自分の意思もなく体制に呑み込まれてしまった人間」の象徴ではないか、という気がする。なぜ、息子は殺されなければならなかったのか、息子の友人を訪ねまわり、新宿の街を徘徊し、新宿の狂気を目の当たりにするに従い、真面目に生きることだけが取り柄のような田舎の中年男の価値観が崩れてゆく。

すぐ誰とでも寝る女、麻薬に溺れ働かない男たち。新宿の人々は、真面目な田舎者の父親を嘲笑する。しかし、彼らが繰り返し叫ぶ観念的な言葉は、最終的には田舎者の父親の生きた言葉の前に屈する。映画の冒頭に出てくる新宿の街で横たわる若者たちの死体、そして新宿マッドなんてカリスマはいない、とする結末を見ても、新宿的なる世界の終焉を見事に切り取った作品と言えるだろう。

しかしながら、目の前で繰り広げられる退廃的でけだるい新宿の街の描写は、私を惹きつけて離さない。およそ、この時代に生きる人々は、新宿の“中にいる者"と“外にいる者"。その二通りしかいなかったのではないかと思わせる。「あいつは、この街を裏切った。新宿を売ってしまったから殺された。」父親が息子の友人から聞き出したこのセリフがそれを物語っているように感じるのだ。
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by galarina | 2007-07-30 23:31 | 映画(さ行)

パニック・フライト

2005年/アメリカ 監督/ウェス・クレイヴン

「悪くないけど、テロの結末自体はありきたり」
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ジョディ・フォスターの「フライトプラン」と同じ飛行機サスペンスで、かつ公開時期がかぶるということで、日本公開を見送られた本作。「プルートで朝食を」のキリアン・マーフィが謎めいたテロリストを好演しています。さて原題は「Red Eye」なのに邦題はパニック・フライト。公開を見送ったくせに紛らわしい邦題。これいかに?

しかし、邦題が変というよりも、いっそのことジョディ・フォスター主演の「フライトプラン」とタイトルを交換した方が良いのでは?だって、主人公のリサはちっともパニックなんかになっておりませんもの。むしろ、実に冷静沈着。一方「フライトプラン」のジョディのパニックぶりと言ったら!周囲の人物には八つ当たりするし、機内を走り回るし凄まじかったですからね。

さて、本作ですが大物スターは出ずともコンパクトでスリリングな展開は確かに好感が持てます。ただ、個人的にはテロの結末、犯人確保双方とももう少しひねりが欲しかったというのが正直な感想。父親の家に場面が変わってから、誰が犯人を捕まえるのかすぐに読めてしまいました。また、飛行場を出てから、一転してアクション映画のような展開になりラストに向かって物語はスピードアップしますが、電話で指示してケリつけちゃうって言うのが、なんだかフツー過ぎて…。

ジョディ・フォスターの要望によりアクションシーンを増やしてしまったことで、謎のオチが説明不足となってしまった「フライトプラン」。しかしながら、飛行機の設計士であるジョディが飛行機内のあんなところ、こんなところを縦横無尽に駆けめぐる様子は、結構楽しかった。そこには、驚きと発見がありました。しかし、本作の展開は結構読めちゃう部分が大きく、ラストのホテル内での会話も「ベタやな~」と思ってしまいました。機内の隣り合わせの様子はとてもスリルがあったのですが、そこで二転三転するくらいの物語の起伏が欲しかった。私としてはもうひとひねり足りん、といったところです。
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by galarina | 2007-07-29 23:26 | 映画(は行)
2006年/イギリス 監督/マイケル・ウィンターボトム 、マット・ホワイトクロス
<イギリス在住のパキスタンの青年たちが、テロリストの容疑者として2年以上もの間、無実の罪でグアンタナモ米軍基地に拘束された事件を基に作られた真実の物語>

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「世界の矛盾と折れない心」
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見終わって打ちのめされました。事件そのものにもですが、この作品が提示する問題について、私自身が語る言葉を何も持っていない。そのことに何より打ちのめされました。無知は恥ずべきことでしょうか。YES。この作品を見て、「知ろうとしないこと」と「知らされていないこと」は、ほぼ同義なのではないかとさえ感じるのです。

友人の結婚式に出るため母国に帰ってきたのにテロリストとして拘束され、遙か遠くのキューバのグアンタナモに収監、非人道的な取り調べや尋問を受ける3人。戦場シーンはイラクで撮影され、収容所は本物そっくりのセットを設営したということですが、その徹底的なリアリズムの追求が見事に作品の緊迫感に結びついています。

尋問のシーンなど本物ではないかと錯覚してしまうほどリアルです。適当なテレビ映像を持ってきて「ほら、ここにおまえが映っているだろ!」と強要し、証拠をねつ造しようとするシーンは、怒りよりもやり切れなさが先立ちます。こんなにも無駄なことにアメリカは人も金もつぎ込んでいるのか、と。

しかしながら、この理不尽な環境下においてなお、拘留された3人が「俺は何もしていない!」と前向きに自己を保ち続けるエネルギーにも心打たれます。本作が、グアンタナモの在り方を問うだけなく、「折れない心」をしっかりと描き出していることが、作品としての大きなパワーになっている。これは実に大切なことだと感じるのです。

つまり、世の中には不条理なことはたくさんあって、それを描き出す映画ももちろん多いですが、見終わってむなしさだけが残るのではなく、生きようとする力の強さ、前向きに己を保ち続ける意義を同時に見せるというのは、なかなか困難なことだと思うからです。

私はこの作品を見た後で「グアンタナモ」について調べました。なぜキューバに米軍の基地があるのか、なぜ半永久的に拘束するというような理不尽なことが可能なのか、米軍はここで何をしているのか。どうか、みなさんもこの作品を通じてグアンタナモとは何のシンボルなのか、自分なりの答を見つけて欲しい。

そして誰しもこの3人のような境遇に陥ってしまう可能性はある。だから月並みな言い方ですが、ひとりでも多くの人に見て欲しい。それがこの作品を語るにもっともふさわしい言葉。いや、無知なる私が胸張って言える唯一の言葉なのです。
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by galarina | 2007-07-26 23:42 | 映画(か行)

コード・アンノウン

2000年/フランス・ドイツ・ルーマニア 監督/ミヒャエル・ハネケ

「断片で語る力。ハネケのウルトラC」
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まず見終わって、ため息。これはすごい。こういうやり方もあるんだ、と見せ方の斬新さに驚くばかり。物語が時間通りに進行するというごく当たり前の作り方ををぶっ壊すような作品って、最近よくありますね。時間が逆行するとか、複数の話を同時進行させるとか。でもこの「コード・アンノウン」という作品のような作りは、今まで見たことない。

本作は、ほんの5分~10分程度の短いエピソードが次々と展開される。ジュリエット・ビノシュがぼんやりとテレビを見ながら延々とアイロンをかけるといった一見して全く意味の見いだせない短いシーンがあったかと思うと、これだけで1本のショート・フィルムになりうるような完成度を保つシーンもある。そしてラストまで個々のエピソードがどう繋がるのかという観客の好奇心も掴んで話さない。

短いエピソードの中には、ほんの小さな断片が見え隠れしている。その小さな断片で奥に隠れている問題、それも一つや二つではなく幾重にも重なった問題を顕わにする。その断片が登場人物のちょっとした仕草だったり、一見物語とは関係のないようなセリフだったり、画面の隅にぼんやり立っている人だったりするもんだから、いちいち「そういうことか!」と膝を叩きたくなるような面白さがある。何か表現したいものがある時に、水面に一滴のしずくをたらせばそれで良い。そんな感じ。

なので、小難しい作品は嫌、という方にも映画表現の可能性として、こういう方法もあるんだとぜひ知って欲しい。そう思わせるだけの力を持っている作品。この作品の中で語られているテーマで5、6本は映画が作れる。人種差別、戦争、地域格差、児童虐待…。社会が抱える問題がてんこ盛りです。なのに、それらの出来事は物語として語られるのではなく、断片で語られるのです。その分、観客の想像も刺激される。こんな離れ技ができるのは、ハネケしかいない。
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by galarina | 2007-07-25 23:41 | 映画(か行)

ハチミツとクローバー

2006年/日本 監督/高田雅博

「舞台あらし、蒼井優」

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蒼井優、恐るべしですねえ。「はぐ」としての雰囲気はもちろんですが、あのしゃべり方には度肝を抜かれました。あれは監督による演出なのか、それとも自ら編み出したものなのか。本作の蒼井優を見て、私は「ガラスの仮面」の「舞台あらし」というエピソードを思い出しました。端役でありながらも観客がみんな北島マヤを見てしまうため、座長に「あんたはもう来なくていい」と言われてしまう。「アンタは舞台あらしだよ!」と言わしめてしまう北島マヤの天性。蒼井優も天性の女優ですね。

彼女はまさに「はぐ」としてそこに存在している。個性派と言われる加瀬亮でさえ、本作においては別の俳優がやっても同じじゃなかったのか、と思わせるほど際だっている。つまり他の俳優を「食ってしまう」んです。ですから、本作のような群像劇の場合、ひとりだけ存在感が際だっていることは本来あってはならない。しかし、彼女の放つ魅力はそんな屁理屈をねじ伏せてしまうほど圧倒的。あの儚げな外見に一体どれほどの表現力が潜んでいるのかと本当に驚かされる。

さて、そんな蒼井優に並んで伊勢谷友介が今まで見てきたどの作品よりも光った演技を見せる。そりゃ、東京芸術大学美術学部大学院卒業で、アーティストとしても活動しているだもん。言っちゃあ、そのままの自分ってこと。意地悪く言えば演技じゃないってことだけど、「はぐ」がまさに「はぐ」として存在しているわけで、そのままのアーティスト伊勢谷友介が隣にいてもちっとも違和感ないわけ。まあ、イイ男ぶりがグンと上がりましたね、伊勢谷クン。

上っ面で歯が浮くような物語なんて聞いていたのですけど、いえいえ、なかなか芸大生の悲喜こもごもが丁寧に描写されていて、原作を読んでいなくとも楽しめました。まあ、蒼井優の演技に引っ張られた部分が大きいのですが。

最後に。エンディングがスピッツに続けて、嵐の曲。出演タレントの曲を使わないと出してやんないというジャニーズのごりよしには辟易する。こんなことを続けていたら、事務所のタレントはいつまでもたっても映画俳優として認められない、ということにいいかげん気づくべきじゃないだろうか。
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by galarina | 2007-07-24 23:32 | 映画(は行)

レッド・ドラゴン

2002年/アメリカ 監督/ブレット・ラトナー

「原作読んでるのに、ドキドキ」
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羊たちの沈黙」に思い入れが深いため「ハンニバル」を敬遠していたのと同じ理由で「レッド・ドラゴン」も見ていなかった。でも、これまたもっと早く見れば良かった!というのが率直な感想。まったりとしたオペラのような世界だった「ハンニバル」から一転して、本作はサイコ・スリラーとしてのスリルを存分に味わうことができる。実にテンポ良く物語が進み、原作を読んでいたのに最後までハラハラさせられた。。「ラッシュアワー」で有名なブレット・ラトナー。アクションもので培ったスピード感が遺憾なく発揮された、というとこでしょうか。とにかく最初から最後まで緊張感が持続する演出にやられました。

そして、キャストが豪華。アンソニー・ホプキンスを筆頭にエドワード・ノートン、ハーヴェイ・カイテル、レイフ・ファインズ、フィリップ・シーモア・ホフマン!何とまあ贅沢な俳優陣。しかも5人共それぞれの役どころが非常にフィットしていて、ぴたっとピースが合わさったような快感がある。

レクター博士は、本作においては脇役。そのように割り切ってしまえば、物語の要所要所で「ハンニバル・レクターここにあり!」という存在感が物語をひきしめてくれる。囚人服に青いデッキシューズという出で立ちでここまで威厳を出せるキャラクターはいないでしょう。ハマリ役なんて言葉は超越して、もはやハンニバル・レクターそのものですねえ。

クラリスがレクターを訪ねてくるところをラストシーンに持ってくるなんぞ、シリーズのファンを意識した憎いエンディング。このまま「羊たちの沈黙」を続けて見たくなる。そんな意見に私も大いに賛成です。しかしながら、一遍のサイコサスペンスとしても一級品のクオリティ。シリーズものの3作目という位置づけではなく、これのみの鑑賞の方がいたとしても大いにお薦めしたい作品。
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by galarina | 2007-07-23 23:14 | 映画(ら行)

PROMISE<無極>

2006年/韓国 監督/チェン・カイコー

「いくらなんでも、このCGはない」
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傑作「さらばわが愛、覇王別姫」と同じ監督が撮ったとは思えない。というか、思いたくない(悲)。あまりにもCGがショボ過ぎる。せめてチャン・ドンゴンの牛走りと凧揚げを何とかしてくれれば、もう少し見られた作品になっていたかも。というか、この発想がチェン・カイコーから出た物なのか本人に聞いてみたいくらいだ。

ワイヤーアクションてんこ盛りで色彩美を追求した壮大な中国ドラマって体裁は誰しもチャン・イーモウの「HERO」「LOVERS」を思い起こすだろう。しかし、アクションにおいてもCG技術においても完敗。笑うしかないCGの仕上がりは、まさか「俺にワイヤーなんか撮らせても、この程度しかできないよ!」というチェン・カイコーの悲痛なる叫びなの?一体、このCG映像を請け負ったのは、どこの事務所なの?ううむ、何を書いてもネガティブになっちゃうので、方向転換。

中国人監督にたくさん予算をかけて大作を撮ってもらおう、ということになった時に、結局ワイヤーアクション付きの大河ドラマが企画に上がってしまうのだろうか、という気がする。台湾出身のアン・リーだって「 グリーン・ディスティニー」撮ってるし。でも、中国=カンフー、予算がある=CGという発想は、あまりにも安直なんじゃないだろうか。おそらく世界をマーケットに作品を売ると考えた時に、無常とか輪廻のようなアジア的世界観が外国ではウケるのと、ある程度の収入は見込めるからなのかも知れないけどね。

でも、もうそろそろマーケットもこの手の作品は飽きたでしょう。アン・リーが「ブロークバック・マウンテン」撮ったように、チェン・カイコーも次は好きなものを撮って、本作の酷評を吹き飛ばして欲しい。「さらばわが愛」の感動をどうか再びと、願うばかりだ。

さて、真田広之。いろんな映画に出て、顔を売ることは大事だと思う。元JACってことで、アクションもいけるし、乗馬もうまいし、英語もできるし、どんどんいろんな映画に出て欲しい。この映画の内容は散々だったけど、チェン・カイコーと仕事をしたっていう実績は紛れもない事実。そこから得られるコネクションもあるだろう。「サンシャイン2057」に引き続き、「ラッシュアワー3」にも出演している模様。こちらは出ました!アジア俳優がハリウッド進出した時に避けては通れぬ道、悪玉役でございます。私、彼がJACに入った時から結構好きな俳優。だから、地道に仕事をこなしているのはとってもエライと思う。がんばれ、真田広之!
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by galarina | 2007-07-22 23:08 | 映画(は行)

時をかける少女

2006年/日本 監督/細田守

「スカート丈と私」
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映画を見て何かを感じるというのは、鏡に映った自分を見て何かを感じることと同じかも知れないと切に思う今日この頃です。映画を見ていて何かに「ひっかかった」時は、自分の中の何が反応したかを探る。それは意外と楽しい作業です。

日頃あまりアニメを見ない私ですが、この「時をかける少女」という作品は、みなさんの評価も高くちょっと期待混じりに手に取ってしまいました。ところが、始まるやいなや私は主人公真琴のスカート丈のあまりの短さに驚きました。そして、スラリと伸びたあまりにも長い生足。もちろん、この出で立ちだからこそ、真琴が走るシーンが生きてくるのだろうと思います。またこれくらいの描写は今のアニメにおいてはスタンダードなのかも知れません。しかし、結局この「スタート丈の短さ」が与える不安感を最後までぬぐい去ることはできませんでした。

そして、もう一つ私の心を乱すのは、真琴の泣き顔です。だんだん顔がくしゃくしゃになって、うわ~んとボロボロ涙をこぼす様子は「となりのトトロ」に出てくる小さい女の子の泣き顔にだぶりました。真琴が走り、跳び、泣き、笑い、その若さの全てが弾けんばかりに描写されればされるほど、私の気持ちは滅入る一方なのです。

おそらく思春期の女の子が無防備であることに私はいらだちを感じるのです。また同時に作り手のロリータ趣味を感じ取ってしまう。決して誤解して欲しくないのは、この作品を作った人やこの作品をいいという人がロリータ趣味だなどと言っているわけではありません。なぜ私のアンテナはそうキャッチしてしまうのか。全く人間の感受性とは不思議です。

これまでその感情の源は、母親が子を守るような本能から来ているのではないかと思っていたのです。「少女的」なるものが商業的な価値を持つことへの嫌悪。しかし、事ここに至って、もしかしたらこれは若さへの嫉妬なのだろうか、という考えが頭をもたげてきました。たぶんその答は今すぐ出るものでもありません。だから、私はもっと映画を見ようと思います。
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by galarina | 2007-07-21 22:30 | 映画(た行)

ボルベール

2006年/スペイン 監督/ペドロ・アルモドバル
<TOHOシネマズ二条にて鑑賞>

「男たちよ、ひざまずきなさい」

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徹頭徹尾の女性賛歌。そして、見事に男性不在の映画である。本作に出てくる男はみな、女性の手により葬られる。彼らが殺される理由、それは女性への尊厳を欠いているからだ。つまり、「女性に敬意を払わない男どもは死んじゃいなさいっ!」ってこと。全くアルモドバルには参るなあ。ここまでストレートな表現だと、額面通り受け取っていいのだろうか、と思わず勘ぐってしまう。

主演のペネロペ・クルスのナイスバディ、とりわけ「母性」の象徴としての豊かな胸がそこかしこでクローズアップされる。それは、豊かな胸と言うよりも、むしろ「おっぱい!」と叫びたくなるような映像。何しろ、胸の谷間を俯瞰で映すんですから。ペネロペは「つけ尻」も付けさせられたらしく、女性の豊満な肉体を通して、女の逞しさ、強さ、豊潤さを描きたかったのだということがひしひしと伝わる。

そんなアルモドバル監督の期待通り、ペネロペが貫禄の演技。やはり母国スペインを舞台にして、早口のスペイン語でまくしたてる彼女は、ハリウッド映画での雰囲気とはかなり異なる。鮮やかなプリント模様のファッションを着こなし、タンゴの名曲を歌いあげるシーンは、さすが情熱の国スペインの女!って感じ。

さて、ゲイであるアルモドバル監督がなぜこれほど「母性」にこだわるのか、実に興味深い。同じゲイの監督でもフランソワ・オゾン監督なんぞ、常に「女ってずるい!」という視点が作品の根底に流れているんだもん。この辺、彼らの生い立ちに関係しているのかも知れませんね。ただ、ゲイの監督だからこそ、これだけの女性賛歌を真っ当に発信し、見ている方もそのまま素直に受け止めることができるのかも知れない。だって、女性監督だったら自画自賛になるし、男性監督ならマザコンになるでしょ。

最後に。本作には、アルモドバル作品にはよく登場するトランスジェンダーの方々が出演しない。アルモドバル作品の彼女たちはあまりにも愛らしいので、私は楽しみにしていたのだけど、とっても残念。だからとは言わないけど、本作は「キワモノ」としての色合いは少ない。あまりにも真っ当過ぎて、ファンとしては、物足りないくらい。(だから、シネコンで上映できたのかな)

本作で女性賛歌三部作は終了ということらしいけど、アルモドバルにはこのまま女の逞しさ、そして美しさをどんどんアピールする映画を作っていって欲しい一方、彼らしいキモカワイイ映像やキッチュでエロな作品もまだまだ見たい。あんまり巨匠にならないで欲しいなあ。
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by galarina | 2007-07-21 16:27 | 映画(は行)