「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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その男、凶暴につき

1989年/日本 監督/北野武

「排除の美学の始まり」
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深作監督が急遽降板して…と言われている本作だけども、そこから一体どこまで北野色に変えることが可能だったのだろう。この徹底的に乾いた暴力描写と、物語の排除という北野スタイルがすでに本作で確立されているのを見るに北野武の中で作りたいものがくすぶり続けていたのは、間違いなかろうと思う。代打に備えて、十分にバットを振ってきたということだろうか。

まず主人公吾妻という人物に関しては、ほとんど詳細を語られることはない。しかし、静かな日常にもたらされる突発的な暴力を通して浮かび上がるのは吾妻の絶対的な孤独感である。また、サティの音楽に合わせて歩道橋を登ってくる吾妻の登場シーンが実に印象的。しかも、この登場シーンからすでに死の予感が漂っている。後輩の菊地がラストで同じように歩道橋を上がってきて、吾妻をオーバーラップさせる見せ方なんて、とても代打とは思えない旨さがある。

物語の排除の最たるものは吾妻の友人岩城が麻薬の密売人になったいきさつを全く見せないところだろう。その核心は、吾妻と岩城が喫茶店で話している姿をガラス越しに映す、という数秒のワンカットで過ぎ去る。警察内部に麻薬を回している人物がいること、しかもその張本人が主人公吾妻の友人であるという2点において、物語上大きな起伏が出る場面である。こういう物語のターニングポイントを、無言のワンカットで済ませてしまうという大胆ぶり。そして、続けて岩城の死体。岩城のいきさつが何も語られないからこそ、突如現れるこの「死」のイメージが強烈に刺さってくる。

この物語の排除というのは、「観客の想像にお任せします」という類のものとはまるで異質なものだろう。例えば、ラストを意味深なものにして後は「自分で考え、感じて欲しい」というシーンには作り手が観客に想像を委ねるという意図がある。しかし、北野武は浮かび上がらせたいイメージをより鮮烈に見せるために、物語を排除していく手法を使用しているのだと思う。そういうテクニックをすでに処女作で自分のものにしていることにも驚きだ。

そして、凶暴と言うよりも静けさの際だつ演出の中に、時に浮かび上がるホモセクシュアル的匂い。黒幕仁藤と仁藤のためなら何でもする殺し屋清弘との関係はもちろん、清弘と主人公吾妻においても追いつ追われつの関係性の中でふたりの魂は互いを惹きつけ合っていることを想像させる。もちろん感情的な演出は全くないため、そのような匂いをかぎ取る私の感じ方は監督の意図からは外れているのかもしれない。それでも、ストーリーとは別のイメージが自分のアンテナに引っかかってくるというのは、おそらく排除された物語を埋めながら映画を見ているからに他ならないからだと思う。

そして、この乾いた暴力描写は、近年多数公開されている韓国映画の暴力シーンに影響を与えているのは間違いなかろう。

このデビュー作において「お笑い芸人ビートたけしが作ったんだから、わかりやすい映画のはずだ」という人々の勝手な思いこみは根底から覆された。この時広がった拒否反応は未だにくすぶっている。「お笑いの人が作る映画=面白くてわかりやすい」という勝手な認識と「北野作品=わかりづらい映画」という後付けの認識がいつもねじれを起こしているように感じる。しかし我々は映画作家、北野武の作った映画をただ受け止めるだけだ。
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by galarina | 2007-05-31 23:06 | 映画(さ行)
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それはもう、どっぷりハマりましたね。
田舎の閉鎖的な人間関係とリンチらしい妖しげな映像、
そしてアンジェロ・バダラメンティの音楽。
全てが化学反応を起こしてなんとも幻惑的なムードを作りだしていた「ツイン・ピークス」!
これで私がリンチファンになったことは言うまでもありません。
1990年ですから、17年前ですねえ。

その後、ビデオが発売され、WOWWOWで再放送したりしてましたけども、
どうも版権の問題があって、なかなかDVD化には至らなかった。
で、ようやくなったかと思えばシーズン1のみの発売だったんですね。
それが2002年のこと。
で、やっぱり版権がらみなのか、なかなかシーズン2が発売されない。

で、今年ついにシーズン2がアメリカで発売されたとか。
日本でもDVDレンタルも始まるようだし、楽しみ、楽しみ。
あれからずいぶん経って、少しは物語を読み込む力もついただろうし
ゆっくりツイン・ピークスの世界に浸りたいなあ、と今から楽しみなのだ。
17年前に気づかなかったことがきっといっぱいあるはずだ。
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by galarina | 2007-05-31 00:32 | 映画雑感

TAKESHIS'

2005年/日本 監督/北野武

「たけしのイマジネーションの豊潤さを堪能」
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もうひとりの自分だとか、入れ子構造だとか、そういうややこしいことばかり頭に残しながら見ると、この映画の面白さを味わうことは無理だと思う。先入観なく、最後まで見れば、実にわかりやすい構造だと思う。なんで、難解とか、実験的映画とか言われているのか。その方が私には不可解。

結局、「ある時点」から夢に突入して、最初の物語とは辻褄が合わなくなって来て、そこで物語全体を受け取るのを辞めてしまう人がいるみたいでね。それは実に残念なこと。私はずっとワクワクして見ましたよ。物語の辻褄なんていったんさておき、ただ身を委ねて見続ける。それは、映画を見る基本姿勢だろうと思う。それができない観客が多すぎるんでは?わかりやすい、説明過多の物語を見過ぎているから、これしきで「難解」とか言う。これじゃあ、北野武が気の毒だわい。

さて、映画に戻って。登場人物がたけしのイマジネーションの産物として夢の中で縦横無尽に遊び回っている様子は実に楽しい。冒頭寺島進を見て「あの人カッコイイわね」と言った京野ことみが夢の中では寺島進と付き合っているし、タクシー運転手にやさしいマネージャーの大杉漣は夢の中ではタクシー運転手になってる。(この関連性を見れば、どこから夢になったかは、一目瞭然なんだけどなあ)で、私のツボは岸本加世子ですね。この唐突に怒る様子が実におかしい。今度は、いつ出てくるんだろうと出没を期待しちゃった。

で、その登場人物がまた違う人物になって繋がってくるあたりが実に面白い。夢的破綻を見せつつも「夢の中の物語」はきちんとキープしている。このバランスが才能だなあとつくづく。そして、夢というのは自分の深層意識の産物ですから、この夢の中の「素人・北野武」の行動は、ビートたけしの自意識の表れとも言える。そうすると、何で死体の山をタクシーで通るんだろうとか、何で部屋で食べるのはナポリタンなんだろうとか、だんだん「夢判断」的面白さも湧いてくるんです。

そんでもって、そもそも冒頭の「素人・北野武」は実在しておらず、「有名人・ビートたけし」が見たドッペルゲンガーかもと思って、もう一度見ると、それはそれでまた楽しめたりもするんですよ。手帳に「ピエロさんへ」って書いてるでしょ。なるほどピエロね~と1人でうんうん唸ったりして。

というわけで、この夢の世界で繰り広げられる、たけし流イマジネーションの豊かさに触れ、この人にはどんどん映画を撮って欲しいなあと思うのでした。時間があれば「監督、ばんざい!」も観に行きたい。
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by galarina | 2007-05-29 19:46 | 映画(た行)
2007年/日本 監督/松岡錠司

「もっとオカンを見たかった」
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ようやく見ることができました、東京タワー。公開からかなり日にちが経っているにも関わらず、館内はほぼ満員で、かつ、実に年齢層が高いことにビックリ。中高年マーケットの間でクチコミで広まっているのかしら。

原作も読んだし、2時間ドラマも見たし、ストーリーも、泣きのポイントも重々分かっているため、やはり物語への感情移入は難しかった。それでも、この映画を見に行ったのはオダギリジョーが見たかったから。いつもクセのある役が多いオダジョーがボクをどう演じるのか見たかった。結果としては、彼ならではの個性が生きているからこそ、世間一般の泣ける映画に成り下がることはなかったと思う。この物語は「ボクが好青年ではない」というところがポイントであり、業界人っぽいファッションやロンゲ、斜に構えた感じがボクのイメージにぴったりだった。

しかし、演技では樹木希林の存在感の方が遙かに上回った。私はこの物語をオカンの物語として捉えた読者だったので樹木希林のすばらしいオカンぶりが一番印象に残った。最も好きなシーンはボクが大学を留年しそうになって電話をかけるシーン。「なんで、がんばれんかったんやろうねえ」と何度もつぶやくオカン。このセリフはいいなあ。なんで留年したの?じゃないんですよ。なぜ、がんばれなかったのか…。オカンの愛と人柄を感じるなあ。普通は「バカタレ!」となるでしょ。しかも母子家庭で東京に仕送りまでしてるんですよ、それなのにボクときたら…。あと、卒業証書ね。このあたりはめちゃめちゃじわ~んと来ました。

さて、原作の映画化においては、監督が「何を残して、何を捨てるか」というのも大きなポイントです。私はオカンが上京後、オカンの食事に誘われて友人が集まってくる様子をもっと濃密に描いて欲しかった。オカンの料理をもっと見せて欲しかった。「食べ物につられてやってくる」というエピソードは私は重要だと思ってます。ただ、これを残してこれを削れば良かった、という感想を原作ありきの作品で論じることに意味がないとは、重々分かっているのですけれど。

で、この映画は142分もあります。これは正直長いと思う。少年時代に少し時間を使いすぎた。それから、オカンの死後ね。通常「死」は、物語のクライマックスに来るもの。しかし、オカンが死んでも物語はまだ続く。これをどこでどう収集をつけるか、という点は今作品で一番頭を悩ませるところじゃないかな。私は、やや引っ張りすぎたと思う。そして、ボクの語り、これがくどい。長さも見せ方も、まだまだ削ぎ落とすことができた、と思います。

最後に脚本に関して。闘病中の現在を軸に、時間が前後するやり方は、特に後半効果的には見えなかった。少年時代が終わってからは、むしろ時間通りに進めた方がオカンの死に向けてより感情移入できたと思う。そして、樹木希林のオカンぶりをもっと堪能できる脚本にして欲しかった。これだけ尺の長い作品にも関わらず、もっとオカンの笑顔やオカンらしい言動が見たかった、という物足りなさが残る。その気持ちは、それだけ樹木希林の演技が冴えていたということの表れなのかも知れないが。リリーさんご指名の松尾スズキ氏なので、リリーさんは納得なんだろうね。



スペシャルドラマの感想
原作の感想
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by galarina | 2007-05-26 23:12 | 映画(た行)

阿修羅のごとく

2003年/日本 監督/森田芳光

「女優陣の愛くるしさが全面に」
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私は以前、スカパーでこのNHKのドラマ版を見たことがあるんです。テーマソングであるトルコ軍隊の行進曲も強烈でしたし、姉妹間のぎすぎすした感じや浮気された母の内なる苦悩が、実に乾いた演出で展開されていました。浮気を知りつつ、何にも言わずに糠床をまぜる母の背中が怖いのなんの。女の「業」を描くという点では、私はドラマの方に軍配をあげます。特に長女の加藤治子と三女のいしだあゆみなんか、どちらかというといじわるだったり苦悩したりする演技が似合うタイプの女優さんですもん。

ただ、四姉妹を魅力的に描くという点においては、映画版の方が上。四者四様の生き方をうまく見せていたと思います。もちろん、主役を張れそうな女優が大集合しているので、それぞれにスポットを当てるという事務所側のオファーはあったでしょう。大竹しのぶも黒木瞳も深津絵里も森田作品で主役をこなしているので、それぞれの登場シーンは主役とも言える存在感を出しています。だから、余計に深田恭子が浮いてしまったかな。

いずれにしても、森田監督の女優陣に対する愛が感じられますねえ。それが却ってタイトルの「阿修羅のごとく」の意味合いを遠ざけてしまったか。ちょっと阿修羅には見えません。ただね、この昭和54年という舞台設定を現代に持ってきて、女心の葛藤をストレートに描いたところで、今の観客がどれだけピンと来たか疑わしいところ。この作品のポイントは「女が内に秘めているもの」ということですから、あんまり秘めなくなった(笑)現代女性にそれを見せたところで、女のイヤな部分ばかりがクローズアップされたことでしょう。

そこで現代版では、コミカルな演出も含め四姉妹を非常に愛らしく描いている。その愛らしさが際だっているからこそ、内に秘めたるものの陰鬱さが伝わってくるという構造に変えた。大女優をズラリと並べた配役だからこそ、こうせざるを得なかったのかも知れませんが、結果的には多くの人に受け入れやすい作品になりました。ただ個人的には、森田作品はもっと突き抜けた作風の方が好みです。
それにしても、現在に至るまで森田監督は、撮る作品の守備範囲が広いなあと感心します。最新作「間宮兄弟」も非常に評判がいいので、近いうちに見ようと思ってます。
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by galarina | 2007-05-25 23:23 | 映画(あ行)

寝ずの番

2005年/日本 監督/マキノ雅彦

「生きた証に下ネタを残そう」
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そりゃまあ、下品な言葉のオンパレードで、ところどころ耳をふさぎたくなるような脱線ぶりもあるんだけれど、見終わって思うのは、私も死んだらこうやってドンチャン騒ぎして欲しいなあってことなの。お通夜で死んだ人間の話を酒の肴に祝宴をするってのは、この上ない供養やなあとしみじみ思うわけです。まあ、その話が100%下ネタなんですけどね。

その100%の徹底ぶりというのは、なかなか見上げたもんで、下ネタ以外で故人を偲ぶシーンはほとんど出てこない。それでも、最終的には「あの人はええ人やった」となるんですね。人を称えるのに、高尚な話なんか必要あらへん。ちょっとおもろい下ネタ話の一つや二つあったらええ。あんまりまじめに生きてたら、見送る人もネタ話がない。結局人間、生きてるうちにどんだけアホできるか言うことです。

それに死体の横たわった空間でこれだけ下品な話をするってのも、なかなかシュールなことでね。結局人間のすることを突き詰めたら、セックスすることと、排泄すること、この二つだということでしょう。それが死体を目の前にして死を実感できる場においては、最もふさわしい話題にすら思えてくる。一方セックスと排泄の話をこれでもかとすることで、見送る人間は生を実感している。「死んだ人間」と「生きてる人間」が共に集う空間だからこそできる、どこまでも下品な宴なんでしょう。

今思い出すに、人間とは突き詰めれば「セックス」と「排泄」というような考えは、原作者の中島らもちゃんもよく言っていたことのように思えます。生前のらもちゃんと津川雅彦氏に繋がりがあったかどうかは知らないけど、実にこのらもワールドを了解した上での作品という感じがします。

さて、本作は、テレビでは流せない放送禁止用語が連発で、かなりどぎつい言葉も出てきます。しかし、これが許せるのも、ここが「お通夜の席」やから、というのがポイントです。こんな会話、居酒屋でしてたらつまみ出されます。本当に故人と親しいものだけが集う閉ざされた空間だからこそできる、そこまで言うかの下ネタ話。またそれに、クソまじめに「ほほう」と唸る大人たちが実におかしい。

長々と続く下ネタ合戦がかったるいなあ~と思ったところで、回想シーンが入ったり、幽霊が出てきたりと物語の締め具合もいい感じ。また、中井貴一のとっぽい落語家が案外イケる。この人は、すっとぼけた役の方が似合うと思う。ほとんどが関西出身の俳優陣の中に実にうまく溶け込んでました。そして、富士純子が実に美しいですなあ。彼女の撮り方には監督の意気込みを感じました。下ネタを共有できる人と一緒に見て大笑いしてください。ちなみにボリュームは隣人の苦情が出ないようあまり大きくしないことをオススメします。
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by galarina | 2007-05-24 22:32 | 映画(な行)

アイ・アム・サム

2001年/アメリカ 監督/ジェシー・ネルソン

「ビートルズに感じるやり過ぎ感」
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知的障害のあるサムが娘を取り戻す感動のストーリーなのだが、私が本作において引いてしまった原因は、何を隠そう全編に流れるビートルズであった。ビートルズの音楽には「歌詞」がある。言葉がある。映画の行間として共有したいものが、具体的な歌詞として入ってくることが何だか余計なおせっかいみたいに感じられて、歌詞が言いたいことを代弁しているようで、どうにもこうにもしっくり来なかったのだ。

例えば「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」。この曲からルーシーと名付けた、という設定だから、確かに物語の中では効いてくる。だが、どうも本作品におけるビートルズ音楽というのは、嬉しや喜び、つらさの「増幅剤」としての役割のように感じてならない。あくまで個人的な好みだが、私は映画における音楽は物語を補完したり、融合したり、化学反応を起こしたりする方が好き。物語の上に「のっかってくる」音楽の使い方は好みではないのです。

まあ、そもそも設定としてサムがビートルズのマニアなので、流すなというのも無理があるのかも知れないんですけどね。それから、家庭裁判所における画面の揺れは、サムの心の揺れを表しているんだろうけど、どうもやり過ぎに感じられる。技巧に走っているというのかな。この青みがかった映像も狙いがあってのことだろうが、かえって逆効果に感じられる。

そもそもショーン・ペンがこれだけの演技をしているんだし、ここまでテクニックを凝らした映画にする必要があったのかなと思うの。むしろ、もっとオーソドックスな手法で作って、歌詞付きビートルズは「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」をエンドクレジットだけで流す。これくらい抑制されてた方が、もっと素直に物語に感情移入できた気がする。
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by galarina | 2007-05-22 22:01 | 映画(あ行)
2004年/フランス 監督/イヴァン・アタル

「キミたちは一生愛について語ってなさいっ!」
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「ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール」に引き続き、シャルロットの夫であるイヴァン・アタルがシャルロットの夫役及び監督も務める作品。

まず邦題がセンスがないばかりか、作品の趣旨ともあまり合っているとも思えない。なので、邦題で感じるお気楽コメディとは全然違う。スペシャル・ゲスト、ジョニー・デップは予想以上に重要な役どころで、嬉しいサプライズ。

さて、全くフランス人という国民は、こんなに朝から晩まで「愛」について語っているのでしょうか。彼らの永遠のテーマ、それは「愛」と「人生」。この2つのテーマさえあれば、何時間でもおしゃべりできる、それがフランス人。既婚者はなぜ他の人を愛してはいけないの?どうして一生妻に寄り添わなければならないの?と次から次へと繰り出される男たちのナゼナニ攻撃。これが聞いていて実に楽しい。

もちろん、この手のフランス映画はごまんとあります。それでもなおこの作品が楽しいのは、やはり「結婚」を語る言葉の豊潤さでしょうか。何かに例えたり、皮肉ってみたり。日本人としては、その巧みな言葉遊びに「ほほー」と感心してしまうことばかり。しかも、いい年をした中年男が職場やカフェで来る日も来る日もその話ばっかり(笑)!日本じゃ考えられません。でも、「結婚って何だ!」と常に考え悩んでいるその姿勢は、私は好きだなあ。無視されるより全然いい。

夫の浮気に苦悩する妻ガブリエルをシャルロット・ゲンズブールが好演。ヴァンサンとガブリエルの夫婦喧嘩のシーンは、いろんな意味を含んでます。互いに言葉に出せない物をストレス発散させていると言えるし、じゃれあってるようにも見えるし、憎み合ってるようにも見える。しかも、この夫婦は実生活でも夫婦でもあるため、観客は本物の夫婦ゲンカを見ているよう。

夫の浮気に気づいていながらも問い詰めないガブリエル。そこには「個人の意思」を尊重するフランス人の美意識があるんだろうか。「今私が浮気しても夫へのあてつけになるだけ」そう言うガブリエルは大人のオンナ。自己抑制ができるオンナ。だからこそ、ラストはドキドキしてしまう。それは火遊びなの?それとも本気なの?(実生活の)夫が撮る妻は格段と美しい。またまた夫婦コンビで続編作ってもオッケイよ、とも思えるステキなラストシーンでした。
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by galarina | 2007-05-21 23:43 | 映画(は行)

うつせみ

2004年/韓国 監督/キム・ギドク

「究極の愛の形を求めて彷徨うギドク」
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レイプだの、ロリータだの、ギドクって男は女を何だと思ってるんだと思ったら、こういう女性の願望をそのまま投影したようなロマンティックな作品を作ってしまうから本当に参る。結局、彼はとどのつまり“愛”って何なんだ?という旅を続けているのだろう。いろんな角度から愛を眺め、出ることのない答えを求めて作品を作り続ける愛の殉教者とでも言おうか。

通りすがりの男に何かも預け、連れ去って欲しいというのは、女の究極の憧れかも知れないと、「ヴァイブレータ」でも書いた。あれがトラックに乗った王子様なら、こちらはバイクに乗った王子様。しかも、このふたりに言葉は無用。何も言わなくても全てが通じる。夫に責められようが、警察に捕まろうが何もしゃべらない。これが実に象徴的。言葉にした途端にふたりの関係は実に陳腐な代物に成り下がってしまいますから。

テソクがソナを連れ去り毎夜留守宅に泊まる前半部を “動”だとすれば、ふたりが警察に捕まってからの後半部は“静”の展開と言えましょう。しかし、鑑賞後心に深く残るのは、“動”ではなく“静”の方。ソナがふたりの名残を求めるかのように、泊まった留守宅を再び訪ね歩くシーン。そして、テソクが「影」を体得するために刑務所で見せる幻想的な舞踏。映画とは、映像で心に語りかけるもの。その幸福感が私を満たす。

ラストはギドクには珍しく愛の成就が感じられてカタルシスを覚える。肩越しのキスシーンもいいし、影の朝食のシーンも素敵だ。しかし、抱き合ったふたりの体重計の目盛りはゼロ。最後の最後になってギドクはわずかな毒を残したか。だが、その毒は私の心を汚すことなどなかった。だって、実に映画的な恍惚感に包まれていたから。

ただ、ギドクってこうやって、幸せな気持ちにさせておいて、また突き落とすようなことするのよ。これが、ギドク・マンダラならぬギドク・スパイラル。一度はまると抜け出せません。
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by galarina | 2007-05-20 23:42 | 映画(あ行)

サマリア

2004年/韓国 監督/キム・ギドク

「懐疑心を打ち砕くギドクの才気」
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<ヨジンとチェヨンは親友同士。2人でヨーロッパ旅行へ出るために、チェヨンが援助交際をし、ヨジンはそれを嫌いながらも、見張り役をしている。ある日、警察に踏み込まれたチェヨンは、いつもの笑顔を浮かべたまま、窓から飛び降りてしまい…>


少女の「性」に対して、独自の価値観を生み出す。その視点のオリジナリティはさすがギドク。もちろんその視点を快く受け入れられるか否かというのは別物だ。第一部「バスミルダ」において、少女チェヨンはセックスを通じて男たちに幸せを与えているのだと言う。そこに感じるのは買春する男たちの正当化である。男の考える勝手なロジックかよ、と嫌悪を抱き始めたら、なんとその少女は突然死ぬ。体を与えていた少女は罰を受けたのか、といったん考えを翻されたところで第二部「サマリア」が始まる。

すると次の少女は、体を与えた上にお金を返すという。友達を見殺しにした罪を売春することで償う。今度は体を与えることが償いになるんですね。おまけに買春した男に「感謝しています」と少女に言わせる。全くこの展開には参ります。体を与える巡礼の旅って、どうしたらそんな発想ができるのでしょう。

そして第三部「ソナタ」、この少女の父親が娘の買春相手に報復する。これでようやく男たちが裁かれるのかと思ったら、そうじゃない。なぜなら、父は娘の少女性に男としての欲望があって、嫉妬に狂っていると私は感じたから。もし彼が父として娘を戒めたいなら、その矛先は娘に直接向かうはずです。だけども、彼の行動はまるで夫の愛人に憎しみが向かう勘違いな妻と同じです。

これはロリータ男のとんでもない言い訳のような解釈もできそうな映画である。でも、実はこの作品、私はそんなに嫌いじゃない。と、いうのも少女性に神秘や神性を見るというのは、女である私も理解できるから。そして、視点を変えながら「性」を切り取るこの3部構成の手法が実にうまい。

また、ふたりの少女が公園で戯れるシーンや穢れを落とす風呂場のシーンに少女性を実に的確に見せるギドク監督の才能をひしひしと感じる。極めつけは、黄色いペンキのシーン。私はこれまでギドク監督に北野監督を重ねたことなど一度もなかった。しかし、このシーンは初めて北野武が頭をよぎりました。

セリフではなく映像で、しかも実に印象的な美しいシーンで我々に訴えてくる。これは、やはりセンスがないと無理でしょう。私の心は、一歩引いて疑ったり、ぐっと惹きつけられたりを繰り返しながら、最終的にはギドクワールドをたっぷりと堪能させられてしまいました。


  
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by galarina | 2007-05-19 23:47 | 映画(さ行)