「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

<   2007年 02月 ( 16 )   > この月の画像一覧

ヨコハマメリー

2005年/日本 監督/中村高寛

「戦後を生き抜いたある娼婦の物語」
c0076382_17123433.jpg
年老いてもなお、横浜の街に立ち続けた孤高の娼婦、ヨコハマメリーの生涯を彼女を取り巻く人物たちのインタビューで構成したドキュメンタリー映画。メリーさん本人が語るシーンは一切ない。しかし、他の人がヨコハマメリーを語りその人物像を顕わにしていくことで戦後の日本がリアルに我々に迫る。

私は始まって10分もしないうちに泣けてきた。何かが起きたわけでもないのに、ただそこにメリーさんが立っていたというビルの一角のショットでもう泣けてきた。歌舞伎役者のように白塗りのメイクをし、貴族のような白いレースのドレスに身を包んだメリーさんは、一体どんな思いでここに立ち続けたのだろうか。

メリーさんが他の娼婦たちと明らかに違うのはその気位の高さだった。メリーさんと呼ばれる前の呼び名は「皇后陛下」。やくざや元締めとは一切関わりをもたない「立ちんぼ」だった娼婦のあだ名が「皇后陛下」っだって言うんだから、いかにメリーさんが常人とは異なる雰囲気を醸し出していたかよくわかる。

また、横浜界隈で開かれていた芝居やコンサートにはきちんとチケットを買って見に来たり、店の前に立つことを許してくれたオーナーにお歳暮を贈ったりと、メリーさんはもしかして本当に身分の高い人だったのではないか、という様々な想像がうずまく。しかしメリーさんの昔を知らない若者たちは、その奇妙な容貌から、白いお化けなど化け物扱いするような目で見る者もいた。メリーさんの存在は都市伝説のようになっていったのだ。

そんなメリーさんが突然横浜の街から消えたのが1995年。メリーさんは一体どこへ行ってしまったのだろうか。彼女を知る証言者が現れてくるにつれ、期待と不安が高まっていく。果たしてメリーさんは、どうなったのか。

私はこの映画を多くの人に見て欲しいと思うので、ネタバレになるようなことを書くのはやめようと思う。伝説の娼婦はどうなったのか、ぜひ自分で確かめて欲しい。

私が感じたこと。それは、メリーさんは「ヨコハマメリー」を演じ続けたのだ、ということ。戦後の混乱期に生き抜くために選んだ職業、それがヨコハマメリーであった。彼女はその仕事に誇りを持っていた。自分のやり方で私は私の人生を生き抜いてきた、ただそれだけなのだ。メリーさんを影で支え続けた永登元次郎さんが歌う「マイ・ウェイ」の歌詞がメリーさんの人生とオーバーラップする。

男は戦争に行って死に、残された女は体を売って生き抜いた。メリーさんという女性に迫れば迫るほど、私の中の「女性性」も剥き出しにされて、痛かった。なんとつらい、しかしなんと気高い人生だったろうか。女とは、生きるとは、そして誇りとは何かを考えさせる珠玉のドキュメンタリー。ぜひ見てください。
[PR]
by galarina | 2007-02-28 20:02 | 映画(や行)

アカデミー賞発表

作品賞/「ディパーテッド」
監督賞/マーティン・スコセッシ
主演女優賞/ヘレン・ミレン「クイーン」
主演男優賞/フォレスト・ウィテカー「ラストキング・オブ・スコットランド」
助演女優賞/ジェニファー・ハドソン「ドリーム・ガールズ」
助演男優賞/アラン・アーキン「リトル・ミス・サンシャイン」


作品賞の「ディパーテッド」には驚きましたねえ。何とか、マーティン・スコセッシにオスカーを、という気持ちはわかります。なので監督賞はしょうがないか、と。
でも、作品賞受賞の「ディパーテッド」は何と言ってもリメイク作品。オリジナルではないわけです。それで、作品賞とはちょっと驚いてしまいました。
スコセッシ自身も「この映画はとりたくなかった」なんて言ってましたもんねえ。心境は複雑なのかな。
私は「インファナル・アフェア」という作品が好きなので、「ディパーテッド」は見ていません。でも、こうなると見てみたい気もしてきました。

菊池凛子は「バベル」のもう一人の出演者がノミネートされているのが痛かったですねえ。「ドリーム・ガールズ」はこれから見に行く予定ですが、ジェニファー・ハドソンの歌唱力はみなさん絶賛です。ただ、歌が上手いのと演技力は別物ですよね。これまで助演女優賞と言うと、存在感のあるバイプレーヤーが受賞するものという印象が強いだけに、ジェニファー・ハドソンも私の中では今いち納得できてないなあ。まあ、見に行ったら考え変わるかも?

助演男優賞は「リトル・ミス・サンシャイン」のアラン・アーキン。エディ・マーフィの下馬評が高かっただけにこれも意外な選考。ただ、助演男優賞をエディ・マーフィが取っちゃうと、主演も助演も黒人俳優になってしまう。それを避けるために、エディは落選したのかな?なんてうがった見方もしたりして…。

授賞式の楽しさは、何と言ってもファッションチェック!まだ、ちゃんと見てないんですけど、フォレスト・ウィテカーの奥さんがすっごいキレイでした。菊池凛子の黒のキラキラしたドレスもまさに凛としたイメージで良かったかな。ファッションチェックは、またゆっくり見ることにします。
[PR]
by galarina | 2007-02-26 18:05 | 映画雑感

破線のマリス

2000年/日本 監督/井坂聡

あるあるねつ造事件なんて、今更驚くことでもない。
c0076382_2335710.jpg
原作・脚本/野沢尚、江戸川乱歩賞受賞作。

メディアの人間が持つ傲慢さとテレビ局に踊らされる我々大衆も痛烈に批判している作品。主演は、黒木瞳と陣内孝則で、いかにもドラマ的キャスティングだが、メディア批判の軸がしっかり貫かれているため、面白い作品になっている。また、後半どんどん精神的におかしくなる陣内孝則のキレっぷりは半ばコントみたいに見えるのだが、そのコミカルさが却って本物の狂気に見えてくる。

主人公遠藤瑤子(黒木瞳)は、テレビ局で働く編集者。看板ニュース番組の高視聴率コーナー「事件検証」を、企画から取材、検証まで担当している。ある日、ある癒着事件に絡むビデオテープがテレビ局に持ち込まれ、その中で不敵な笑みを浮かべる男、麻生公彦(陣内孝則)をいかにも怪しげであるかのように編集し、放映してしまう。

ただ、少し笑みを浮かべただけなのに、いかにもコイツが犯人です、とでも言わんばかりに編集されるビデオ。このような作為的な編集って、テレビ局なら日常茶飯事なんだろうと思う。最近話題の柳沢厚生大臣の「産む機械」を受けた街頭の声なんて、テレビ局が公平なインタビューを流しているとは到底思えず、明らかに何らかの作為または意図を組んで視聴者を洗脳するためにピックアップして流しているんだろう。

私たちは、いいかげんテレビが流す「情報」という名の「作為的映像」にきっちりと見切りをつけなくてはならない。テレビなんて、ほとんど嘘だと思って見た方がいい。そんなこと言われてずいぶん久しいのに、まだ納豆がいいと聞いてスーパーに駆け込む人が多いのはなぜなんだろう。
まあ、やらせ批判はきっこさんにお任せするとして(笑)。

この映画ではビデオを作為的に編集することはもとより、テレビ局側がこれほど重要な資料を持ち込んだ人物のルートをきちんと検証せず、内容をいとも簡単に信用してしまう、という重大なミスも指摘している。結局、それはスクープを取って視聴率を取りたいから流してしまうわけで、情報の信頼性なんてハナからどうでもいい、と言わんばかりだ。

結局、このビデオの存在そのものが何者かによるヤラセで、主人公はどんどん不幸の坂を転がっていくことになる。気づいても、時すでに遅し。破線のマリスでは、映像を流された男、麻生が復讐の鬼と化すことでテレビ局側は追い詰められていくのだが、そろそろ麻生の役割は私たち自身が行うべきことではないか、と思う今日この頃である。
[PR]
by galarina | 2007-02-24 23:33 | 映画(は行)

深紅

2006年/日本 監督/月野木隆
c0076382_16572789.jpg
昨年亡くなった脚本家、野沢尚の遺作。吉川英治文学新人賞受賞。原作は既読。
常に脚本家としてヒットメーカーであり続けた野沢尚は、題材の選び方と時代を反映させたストーリー展開が非常に巧い作家だ。遺作となった「深紅」では、一家惨殺殺人というショッキングな事件と「被害者の娘」対「加害者の娘」という明確な設定の中に、犯罪が人の心に与えるもの、過去とのトラウマからの決別、罪は受け継がれるのか、など非常に深いテーマがふんだんに盛り込まれており、とても見応えがある。

大体、原作を先に読んでしまった場合、映画はなかなかそれを越えることはできないのだが、深紅は、物語がわかっていても引き込まれる。それは、やはり原作そのものが面白いからなんだろうと思う。とはいえ、東野圭吾や横山秀夫などベストセラー作品の映画化は、やはり原作を越えることはなかなかできない。しかし、今作は原作を書いた野沢尚本人が映画の脚本を書いているので、原作が持つパワーが損なわれることなく映画化されたと思う。

父と母、ふたりの弟を一度に殺される被害者の娘、奏子役を内山理名、加害者の娘、未歩役を水川あさみが演じているが、ふたりとも過去のトラウマに苦しみ、崩壊しそうな自我を懸命にこらえている女性を好演している。今作は、物語のほとんどをこの二人のシーンが占めており、登場人物が少ない映画なのだが、このミニマムさが見ていてふたりの感情に移入しやすくて、とてもいい。

物語で重要な役割を持っているのが「4時間の追体験」という主人公が抱える発作だ。小学6年生だった奏子は修学旅行中、突然家に帰るように言われる。家族が事故にあったと聞かされた瞬間から家族の遺体が眠る病院に着くまでの4時間は、奏子に凄まじい恐怖体験を残す。以来、奏子は何かの拍子でフラッシュバック現象を起こして気絶し、この4時間をそのまま体験してしまう。奏子が抱える闇を表現する方法として、この着想はすばらしい。しかも、このフラッシュバック現象を通して、奏子と未歩が相対するというアイデアが秀逸。

さて、映画が原作と違うところ。それはラストシーンである。いや、ラストシーンだけが原作と違う、というべきか。通常、物語の終わりが異なるというのは原作ファンとしては納得行かないことが多いのだが、本作ほど原作の改編が心にしっくりとなじむものも少ないだろう。それは、原作では曖昧だった結末に、原作者本人が映画の中で答を出しているからだ。

犯罪は犯した本人よりも、巻き込まれた者たちに深い深い影を落とす。そのつらさとやりきれなさを乗り越えて、二人の女性は再生する。凄惨な事件を扱っているが、サスペンス的要素もあって、娯楽作品としても楽しめる映画になっている。このあたりの盛り上げ方もさすが人気ドラマを手がけてきた脚本家だ。もう、彼の作品が見られないというのは、本当に悲しい。
[PR]
by galarina | 2007-02-23 21:33 | 映画(さ行)

SAW

2004年/アメリカ 監督/ジェームズ・ワン

確かに謎解きは楽しめるんだけど…
c0076382_21243654.gif
パート3まで製作されるほど、一大ブームになったサイコスリラー。廃墟のバスルームに閉じこめられたふたり。どちらかを殺した方が命が助かる、という一方的なゲームを告げられ、最初はとまどうものの、極限的な状況に追い詰められるに従いパニックに墜ちていく…。

「誰が」「何のために」殺し合いをさせるのか、という根本的なところはもちろん、なぜこの二人が選ばれたのか、どうやってここに連れてこられたのか、など次から次へと謎のオンパレード。しかも、その謎を解くためのヒントが何気ないカットやセリフ、小道具などに隠されているため、観客は何事も見逃すまいと映画にのめりこんでいく。いきなり、殺し合いをしろ、という幕開けにぎょっとしてしまうのだが、有無をも言わさぬ展開はまさにアイデアの勝利。

しかし、次から次へと出されるヒントにうんうん唸りながら推理しているうちに、なんだかプレステのゲームでもやってるような気分になってくる。ポケットをクリックすれば「ここに○○が入っている!」とかダイアログが出てくるようなゲーム、あるでしょ?あんな感じ。

確かに真犯人の居場所が判明した時には感心したけど、私はその動機にいささかがっくりした。ちょっと道義的すぎやしないか?これだけ残忍で不愉快なゲームを仕掛けた犯人のくせに「コイツ、いいこと言ってるな」なんて気分を観客に持たせていいもんだろうか。

と、ここで私の頭に浮かんできたのが、あのレクター博士だ。残忍きわまりない、レクターの犯行に同情の余地は全くないのだが、レクターのダークな部分に惹かれずにはいられない。しかし、ジグソウの理由は「生を大事にしないから殺す」なんてえらくマトモなものなのだ。なんだか、腑に落ちないんだな、これが。

確かに真犯人は最後までわからないのだから、犯人の人物造形ができないのはしょうがない。だとしたら、やはり謎解きゲームとして楽しむのがこの映画の正しい楽しみ方、ということになるんだろうか。でも、これほど、残忍な殺し合いを純粋に謎解きとしては、私は楽しめない。犯人の人物像、動機、社会的背景などうかがい知るべきものがあってこそ、殺人の映画は意味を持つ。そう考える私は甘いんだろうか。それとも、堅物なんだろうか。
[PR]
by galarina | 2007-02-21 11:32 | 映画(さ行)

21g

2003年/アメリカ 監督/アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ

「『バベル』が待ちきれない」
c0076382_21113869.jpg
前作「アモーレス・ペロス」も3つの異なる物語を進行する形式だったが、その結末はいささか物足りないものだった。しかし、「21g」はお見事のひと言。3つの物語が繋がったり、離れたりしながら錯綜するアレハンドロ独特の手法は、非常にドラマチックかつ緻密。錯綜する間にもそれぞれの物語の時間軸が前後するという、驚くべきつなげ方にも関わらず、それが混乱をきたすことは全くなく、逆に物語にダイナミズムを与えている。まさに「誰にも真似できない」映画である。

ざらついた映像、手持ちカメラによる揺れ、リアルな演出。「生々しい」という言葉が一番しっくり来るだろうか。運命にあらがえず、もがき苦しむ全ての登場人物たち。その激しい呼吸音が耳元で聞こえてきそうな、圧倒的な臨場感が迫る。もともと演技派と呼ばれる俳優陣だが、今作における魂の入りようは半端ではなく、アレハンドロの演出が彼らのすさまじいまでの演技を引き出したのは言うまでもない。

ガエル・ガルシア・ベルナル、ベニチオ・デル・トロ、ショーン・ペン、ブラッド・ピット。アレハンドロと私の好みは、ドンピシャ(笑)。ここに、これまた私の好きな役所広司が入るんだから、「バベル」が楽しみでしようがない。汗臭い役所広司がどこまで汗臭くなってんのか、興味津々。

ナオミ・ワッツは「マルホランド・ドライブ」に匹敵するすばらしさで、激しい嗚咽でいくらメイクが崩れようとも演技の迫力の方が勝る希有な女優になりつつある。そして、シャルロット・ゲンズブール!あのアンニュイなフランス娘がしっかりアレハンドロの世界に溶け込んでいるではありませんか。アレハンドロは俳優の存在感を引き出すのがすごくうまいんだね。こぞっていろんな俳優が出たがるのがすごくわかる。

神は何故これほどまでに我々を過酷な運命を与えたもうたか。
皮肉な運命で結びつく3つの魂。
絶望の淵にいながらも、なおかつ「生きる」という選択肢を選ぶ3人の生き様がちんたら日々を過ごしている我々に強烈なパンチを喰らわせる。
[PR]
by galarina | 2007-02-20 22:16 | 映画(な行)

イン・ザ・カット

2004年/アメリカ 監督/ジェーン・カンピオン

「闇あってこその官能」
c0076382_14242296.jpg
これはポルノなのか、サスペンスなのか、文芸作品なのか、どれにしても中途半端だなんて、言う人もいるらしい今作品。なぜ、みなさんそんなにジャンル分けしたがるのかしら?そのまま受け止めればいいじゃない。メグ・ライアンはコメディにしておくべき、なんて私ちっとも思いませんでしたわ。むしろ、ハマリ役だった。私はこの作品、好きです。

そもそもニコール・キッドマンを念頭に置いて書かれた脚本に、メグ・ライアンが惚れ込み、どうしても、と主演に収まり、ニコールも本作への思い入れがあるため製作側にまわっている。このハリウッドを代表するふたりの女優がなぜこれほどまでにこの物語に惹かれたのか、私はわかるような気がする。

知的でキャリアのある独身女の孤独というのは、「ピアニスト」同様、わからない人には何とも不可解で滑稽に見える。主人公のフラニー(メグ・ライアン)は大学で文学を教える講師。しかし、スラングを教えて欲しいと黒人の学生と一緒にいかがわしい雰囲気のバーに行くし、以前付き合っていた男は変質的なストーカーと化している。知的な女性がなぜこんなことを、いう疑念が、「これはハーレクインばりのソフトポルノにしたいからなのね」、と短絡的に決めつけられるのはあまりに悲しい。

自立している女性というのは、基本的には男に頼りたい、という意思はない。男性諸氏には申し訳ないが、本当に全くない。またフラニーは5度も離婚を繰り返したという父親のトラウマがあって、男性に心を開くことができない。しかし、男に抱かれたいという欲求はある。その「抱かれたい」という気持ちは、あくまでも満たして欲しいという思いであり、相互の依存関係を求めているわけではない。しかし、そんな虫のいい要求を満たしてくれる男も少ないし、社会通念がそれが阻む。頭と体のジレンマは自立した女性の永遠のテーマだ。

ニコールを押しのけてこの役に挑んだメグ・ライアン。とてもエキセントリックで心に闇を抱えた女性をミステリアスに演じている。基本的にはぎすぎすした女ということなんだろうが、メガネをかける仕草などにとても性的魅力を感じさせる。疲れた感じだからこそ出る女のエロチシズム。先が読めない不穏なイメージや殺人事件が絡むミステリアスなムードにもドキドキさせられる。

文学を教えるフラニーは、地下鉄の広告などで気になった文章を書き留める、という習慣がある。言葉に何かを見いだしたいという彼女と、殺人犯かも知れない男に欲情を覚えるという彼女は、私の中でぴったり符合する。メグ・ライアンは、イメージチェンジしたいとか、新境地を開きたいとかそういうことではなく、本気でこの役をやりたかったんだと思う。
[PR]
by galarina | 2007-02-19 14:00 | 映画(あ行)

ユナイテッド93

2006年/アメリカ 監督/ポール・グリーングラス

「事実の持つ重みが、ずしんとのしかかってくる」
c0076382_2245434.jpg
CNNの映像があまりに衝撃的だったので、「911事件」はあの突入シーンから始まっているような錯覚を私たちは持っている。始まっている、というより、全てがあの突入シーンに集約されてしまったような感覚。まるでストップモーションの記憶だ。しかし、911事件には一連の時の流れがあった。この映画を見ていると、そんな当たり前のことに衝撃を覚えずににはいられない。

映画はユナイテッド93便が出発するシーンから始まる。この後、何が起きるか知っている観客は、この時点ですでに胸に重苦しいものを感じる。滑走路が混んでいて、なかなか出発しない93便を見て、このまま飛ばなければよいのに…とすら思ってしまう。

まず最初のハイジャックが起き、管制室や航空センターが徐々にパニックになって行く様子が実にリアル。あの911発生時の舞台裏はこんな感じだったのか、というのがよくわかる。しかし、そのリアリティとは裏腹にこんな誰もが発想できないようなテロリズムが起きたときにいかに人は無力かをまざまざと感じさせる。

それは、飛行機という特殊な密閉空間がだからこそ感じる無力感でもある。おいそれと誰もが近づけない状況で、管制官の「応答せよ」の叫びが何度もむなしく管制室にこだまする。どうしようもできない。まるで現場にいるのと同じような無力感を共有する。それは、現実通りに起こったことを実にに細かい部分まで再現し、決してオーバーな表現方法は取らずに見せる演出に負うところも大きい。管制室や航空センターのやりとりの詳しいところは飛行機マニアでもない限り完全に把握はできない。しかし、あの日まさに現場はこうだったのだ、という圧倒的なリアリティが迫ってくる。

最も印象的なのは、ハイジャック犯も乗客も死を目の前にして懸命に神に言葉を捧げている様子が交互にインサートされるシーンだ。思い描く神の姿は全く違う両者。しかし、どんなに神に祈りを捧げても、目の前にあるのは悲劇でしかない。これが神が望むことなのか。実にやるせない気持ちになる。

これほどの未曾有の事件が起きたわけだから、表現者として何かを伝えなくてはならない、何かを残さねばならない、と思う人は多いに違いない。そんな中、監督のポール・グリーングラスは全ての遺族とコンタクトを取り、協力を仰いでいる。その「表現したい」というエモーショナルな気持ちと「事実をきちんと伝える」という客観的で冷静な視点のバランスの取り方は、本当に困難な作業だと思う。

日本でも「オウム真理教」や「阪神大震災」など人々の心に大きな傷を残した事件は多い。それらを非難したり、偏った表現方法を取らずに、ただありのままを伝え、かつドラマチックな映像を作れる表現者はなかなか出てこない。モチーフとして扱うことはあっても、この「ユナイテッド93」のように真正面から事件そのものを再現するような映画はなかなか出てこない。それは、やはりバランスの取り方が難しいのだと思う。遺族の感情をおもんぱかること、行政のやり方や対処をヒステリックに非難しても良い映画にはならないということ、事実をきちんと突きつけるためにお涙頂戴にならないこと、などなど。そんな中、ポール・グリーングラスは実に全てのバランスをしっかり保ち、すばらしい作品に仕上げた。様々な思惑にとらわれず、ただひたすらに「物事を明らかにする」という強い意志は、日本人にはなかなか真似できないことだと、痛感した。
[PR]
by galarina | 2007-02-17 17:02 | 映画(や行)
2007年/日本 監督/周防正行
<新京極シネラリーベにて鑑賞>

私は、なぜ映画が好きなのかと考えてみる
c0076382_2118745.jpg
正直に言っていいですか?私はこの映画、あまり楽しめなかった。「映画を楽しむ」ってことは、私にとって何なのか、自問自答したくなるような映画でした。

「楽しむ」と言っても、笑ったり、喜んだりすることだけを指すのではもちろんなく、つらかったり、悲しかったりしてもそれは「映画を楽しんだ」ことになるのです。ところが、この作品はそうは感じなかった。まさにこの映画は日本の裁判制度の不備を広くいろんな人に知らしめたい、という周防監督の並々ならぬ思いが詰まった映画です。それは役所広司自身も劇中語っています。痴漢冤罪事件には日本の司法制度が持つおかしな点が全て詰まっていると。だから、周防監督は徹底的にリアリズムを追求した作品を仕上げた。それは、重々承知しているのです。

その徹底したリアリズムを出すために、この映画には情緒的な演出が一切排除されている。そこが私が入り込めなかった一番の理由。例えば無実の罪で3週間も留置されて徹平がようやく外に出てきた時、彼は何だかんだを力を尽くしてくれた友人(山本耕史)にありがとうのひと言をかけることもない。それが、すごくひっかかってしまった。何も「おまえのおかげで俺は助かったよ。なんていい友人を俺は持ったんだろう」と泣きながら加瀬亮に言って欲しいわけじゃない。そういう演歌的世界って、私は好きじゃないから。

心の動き、なんです。そこが何だか物足りないって一度思ってしまうと、淡々と続く裁判制度の歪みばかりが重くのしかかってくる。しかも、何だかみんなすごく「かたくな」な人物ばかりだなと思うのです。どの人物も裁判を通じてでしか、そのキャラクターが伝わらない。勝手な調書を作り上げる刑事も、嫌々ながらも裁判を引き受ける新米弁護士も、この裁判に関わることで様々な心の揺れがあるはず。だけども、その心の向こう側を感じられない。

おそらく、周防監督は敢えてその心の揺れを排除している。だから、観客はそのまま受け取るしかない。そこで、私はなぜ映画が好きなんだろうという自問自答に戻ってくるわけです。あまりにも絶賛レビューが多いので、私が鈍感なのかなあと思ったりもして。日本の裁判ってヘンだ!ってのは、よーくわかったんですが、私の心は揺れなかった…。

いい人、悪い人ということは抜きにして、裁判官役の二人が光ってましたね。この2人の演技には、向こう側を感じました。特に小日向文世。裁判官が彼に変わったことが、この映画で最も大きなうねりを出していた。公判が始まってからの描写があまりにも静かに淡々と進んでいたのでなおさらです。

日本の裁判制度がいかにおかしなものか、それ1点のみを痛烈に伝えたかった。ええ、周防監督、それはとてもよくわかりました。心して受け止めました。でも、私はもっと心を揺さぶられたかった。それは、次回作にお預け、ということなんですね。
[PR]
by galarina | 2007-02-13 23:49 | 映画(さ行)

モンスター

2004年/アメリカ 監督/パティ・ジェンキンス

ふたりの関係を濃密に描いて欲しかった
c0076382_20441366.jpg
「あの美人のシャーリーズ・セロンが、ここまでやった」という評価が一番になってはいけないのだ、この映画は。それでは、ただの見せ物映画になってしまう。役になりきるため、ここまで変貌したシャーリーズ・セロンはすばらしい。これぞ女優魂。でも大事なのは、その向こうに何を見せるかだ。

少女時代のエピソードを含め、主人公アイリーンが売春婦にならざるを得なかった境遇は、悲しいことにあまり同情を誘わない。私にいつか王子様が現れるというような、短絡的であまり努力をしない女の子に見える。もちろん、それは、恵まれない家庭状況がそのような現実逃避型の思考を生み出した原因ではあるのだが、この映画の演出はあまりアイリーンの不遇を訴えるようにはしていない。

だから、この映画が描きたかったのは、あくまでもアイリーンとセルビーの関係性であり、最初の殺人をきっかけに追い詰められていくアイリーンの心情だと考えざるを得ないのだ。そうなると、二人の関係性というのがどうしても描き切れてないと感じざるを得ない。同性愛者ではないアイリーンが、セルビーを愛するようになる心の動き。セルビーと逃避行を行うために殺人を繰り返すやるせなさ。それが、なかなか伝わってこない。アイリーンのつらい心情がようやく胸をついてくるのは、連続殺人を重ねるうちに何の落ち度もない善良な男を殺さざるを得ない状況になってからである。

自殺したいほど追い詰められていたアイリーンが図らずも連続殺人犯になっていくのは、ひとえにガールフレンドであるセルビーへの思いがあるからなのに、この映画はアイリーンとセルビーが愛し合う場面をほとんど入れていない。だから、アイリーンにもセルビーにもなかなか感情移入できず、ただぼんやりと落ちていく二人を見ているだけなのだ。ふたりの愛というのは、それぞれが何かをごまかすためにでっちあげた都合の良い言い訳だったんだろうか、という気すらしてくる。

ふたりの愛の描き方の物足りなさがとても残念。アイリーンというキャラクターを完璧に自分のものにしていたシャーリーズ・セロンの演技が素晴らしかったゆえになおさらである。体型や顔つきもそうなのだが、ぶっきらぼうな座り方や口角を下げて野卑な言葉を吐く口元など、別人に生まれ変わったシャーリーズは鬼気迫る演技であった。
[PR]
by galarina | 2007-02-12 23:38 | 映画(ま行)