「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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カテゴリ:映画(ま行)( 30 )

めがね

2007年/日本 監督/荻上直子
<京都シネマにて鑑賞>

「押しつけないこと、というメッセージの頑固さが逆に押しつけがましい」
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映画館はもの凄い人で「かもめ食堂」の人気が
いかにすごかったかをまざまざと感じさせられました。

が、しかし。

新作は、二番煎じじゃしんどかった、というのが率直な感想。何も起きない癒しの映画なんて言いますけど、ここまで何も起きないと私は退屈です。何度も睡魔におそわれました。そして、どうも狙いすぎと感じることが多々。メルシー体操しかり、ラストのマフラーしかり。もたいまさこのキャラ頼みという感じが否めない。もちろん、もたいまさこをここまで活かせる、ということは監督の力量でしょう。しかし、人物関係など多くを語らない映画です。語らない映画というのは、敢えて語らないことで強烈に伝えたいメッセージがあるはずです。それを埋めるかのように、体操やお料理などの飛び道具的なカットを持ってくるのは、少々姑息な感じがします。

結局、作品全体を貫く「押しつけない」というムードがここまで徹底的に表現されると、それが逆に押しつけがましく感じられるの。何もしないのが一番!と言われると、逆に「そうかなあ」と思ってしまう。何にもしないで島に籠もってることで、人生最後まで豊かと言い切れるかしら。人は泣き、笑い、怒り、誰かとぶつかりあって、痛みを感じて、日々を暮らしていくものなのではないかな。もちろん、一度はリセットして、エネルギーを充電することって、人間にとっては必要。特に現実に疲れ果てた人たちには。でも、リセットしても、また走り始めないとダメなのよ。私はその走り出す姿を見せて欲しかった。

また、一方で何もしない、押しつけない、ありのままを受け入れる、という考え方と、毎日あれだけきちんと料理を作る(しかも、島にないんじゃないの?という食材だらけ)とか、部屋がやたらと清潔とか、かき氷しか作らないなど、やたらに几帳面な登場人物たちの行動がうまくリンクしない。だから、のんびり感、ゆったり感を上っ面で撫でたような表現に見える。

もしかして、この作品は、これを観て癒されたから、明日からもがんばろうと思えたらいい、というそれだけの映画なの?もしそうなら、私は煮え切らない感情が残るなあ。全編通じて、「みんなが、和んでくれたらそれでオッケイよ」というスタンスで監督が作ったとは到底思えないもの。キャッチコピーは「何が自由か、知っている」だよ。これは、かなりメッセージ性が濃いですよ。だから、余計に押しつけがましく感じるの。そんな私はあまのじゃくかしら?それとも、今の暮らしを自由に生きすぎているからかしら?

<追記>
私は「かもめ食堂」は大好き。あの作品は、まるきりファンタジーにならないギリギリのラインでしっかりふんばっているところが魅力。サチエの生き方は多くのメッセージを放っていて、共鳴できる部分も大きかった。「かもめ」と「めがね」の比較論についても、書けるかも知れない。また、いつか時間があれば、チャレンジしてみます。
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by galarina | 2007-10-06 23:36 | 映画(ま行)

間宮兄弟

2006年/日本 監督/森田芳光

「空気感の勝利」
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モテない仲の良すぎる兄弟物語。ストーリーとしてさしたる起伏があるわけでもないのに楽しめるのは何と言っても森田監督の作り出す空気感に尽きる。日常生活の何でもない、「出来事」と呼ぶことすらはばかれる小さなひとコマに思わず笑ってしまう。些細な描写ではあるが、誰にでも描けるかというとそうではなく、日々の生活や人間の感情に対する森田監督の優れた観察眼があるからできる描写だろう。

また、兄弟の生活感を丹念に描いているが、「リアルな感じ」というのとはチト違う。食べ物や趣味に関する描き込みが非常に徹底しているため、どうしても「リアルな生活感」と表現したいところ。しかし、この作り込みは徹底したフィクションの世界。こんな兄弟いそうだけど、たぶん絶対いない。だからこそ、よくぞここまで、という細かい描写が面白いし、独創的な発想が笑いになる。

例えば、銭湯での入浴シーン。兄弟で湯船に浸かっていて、誰かが湯船から出たことでお湯が揺れてふたりが嫌な顔をする。確かにあれ、イヤだよね。二度目はゆず風呂になってて、ゆずがぶわんぶわんと顔の前で揺れたりして。寝ている時に体がビクンと動くとか、ベランダに出ているお向かいさんが誰かで吉凶を占うとか、日頃ふと気づいた面白いことをメモっておいて、全部この兄弟に当てはめてみました!的な感じ。森田監督って、コント作家になっても結構イケそうな気がする。

で、かなり地味な兄弟物語にあっけらかんとしたエッチな描写をプラスさせてるあたり、何だか若手監督が撮ったかのようなフレッシュさを感じる。バスタオルの下でパンティを付ける沢尻エリカとか太ももアップから引いてくる北川景子の寝姿とか。抜きんでた傑作ってことではないけど、今の時代の空気をしっかり捉えているし、最後まで飽きさせない展開。何だかんだ言って、森田芳光が話題作の監督を頼まれるのがわかるような気がする1本だった。
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by galarina | 2007-08-31 23:56 | 映画(ま行)

盲獣

1969年/日本 監督/増村保造

「ドラマティック・エロス」
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実にインパクト大。江戸川乱歩の作品は、今なお多くの映画化が続いているけれど、おそらく人々が一般的に乱歩作品から嗅ぎ取るのは「淫靡」や「倒錯」のムードだと思う。しかしながら、増村保造の描く乱歩は隠されたエロスというより、むしろ実にストレート。鷹揚としたセリフ回しと異常な世界を斜め目線ではなく真正面から描く演出は一度見たら忘れられない強烈な印象を残す。それは同じく耽美的エロスの世界を描いた「卍」にも言えるかも知れない。

やはり、見どころは、肉体のオブジェたち。女の目や耳や鼻、そして乳房をかたどった彫刻が所狭しと並べられた密室で、緑魔子と船越英二がくんずほつれつの死闘(笑)を繰り広げる様がとにかく強烈。どでかい乳房の谷間にすがってむせび泣く船越英二の演技は必見。目がイッちゃってます。こんなに奇妙な役をくそまじめにやっている船越英二は演技がうまいんだか、ヘタなんだかさっぱりわからない。

この目や鼻、乳房にまみれた彫刻の部屋、今の美術スタッフが再現したら、こういう部屋にはならないような気がする。おそらく、もっとオシャレな感じに仕上がってしまうんではないだろうか。しかし、この荒削りな美術セットだからこそ、先にも述べた大真面目な演出にぴったり合っていて、独特の世界観を作り上げている。

盲人に捕らわれ、体中を触れられているうちにいつしかアキもこの密室空間の異様な世界に魅入られてしまう。お話としては、かなり変態的ではあるけれど、やはりそのドラマチックな演出ぶりに時折笑いがこみあげてくることすらあって。その辺がとても増村監督らしい。しかしながら、乱歩作品を一種の芸術やお高くとまった前衛的作品として仕上げるよりは、よほど本質を捉えているような気がする。

しかし、ドラマチックな演出によって作品全体がベタでB級なテイストに満ちているか、と言われると、これまたそうでもないのが増村作品のすごいところ。冒頭の緑魔子のポートレートなんかとってもクールだし、演出だけではなく画面の構成、切り取り方で観客の目を引きつけるテクニックがある。数ある乱歩作品の中でも、実に異彩を放つ作品だと思う。
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by galarina | 2007-08-13 20:57 | 映画(ま行)

もしも昨日が選べたら

2006年/アメリカ 監督/フランク・コラチ

「いらん下ネタが多すぎる」

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本作、確かミニシアターでかかっていたのを覚えていてついレンタルしてしまった。割と名画座的な雰囲気を持つ映画館だったもので、そういう趣もあるのかと思いきや、エライ違いでガッカリ。おそらく最近、ミニシアター系でかかる作品までもがシネコンで上映されてしまうため、ミニシアターはシネコンから「漏れた」作品を上映しているんだと思う。日本での上映そのものが見送られる作品も多くなってきていると言うし、映画館の二極化構造は最終的には上映できる映画の受け皿を減らすだけだよね。とまあ、そんな話はさておき。

これ、邦題が全く作品内容と合ってない。もしももへったくれもなく、昨日なんて選べません。自分の人生を早送りしたり、巻き戻って見ることができる、ということ。つまり本人は傍観者であり、選択するということは全くない。どうなのよ、このタイトル付けた人。

前半、退屈で、退屈で困りました。主人公自身が仕事一筋で家庭を顧みないって設定ですけれども、それなりに仕事で成功しているし、あんなに美人の奥さんもいるし、別に不満なんかないじゃん!と思ってしまいました。明日の朝まで仕上げなければならないプランがあるなら、家族はキャンプなんぞ我慢するべきでしょうと、逆に思ってしまいましたよ。しかも、寝具売り場に入ったところで、オチがわかってしまった私。このまま見続けるのか、とつらかったです。

それがラスト30分あたりから、両親のエピソードが絡んできて、ようやく面白くなりました。はあ、良かった。このマイケルという男には何も共感できませんけど、親子の繋がりという普遍的なテーマを見せられてようやく物語のテーマが迫ってきました。今を大切に生きること、自分の周りの人を大事にすること。でもねー、最終的に自動制御状態だったマイケルは孤独な老年になっているんですが、周りの家族はそんなには不幸ではないですよ。だから、急にみんなにやさしくなるってのもえらい自己中心的な男だなあ。と、いろいろひっかかりはあるのですが、まあ堅いことは言わずに気軽に見るコメディってことで許すとしますか。

それより気になるのは、いらん下ネタが多いってこと。コメディだから笑わせたいのはわかるけど、ちょっとそれを下ネタに頼りすぎ。子供と一緒に見たいとは言わないけど、女性が男性と一緒に見てこの下ネタシーンでガハハと笑えるかと言うと、どうでしょう。少なくとも一連の犬ネタには閉口。やはり同じ下ネタでもイギリスのコメディなど、クスリと笑える程度の方が上品でよろしい。やっぱ、私にはアメリカンホームコメディタッチが合わない、ということがつくづくわかりました。
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by galarina | 2007-08-05 22:50 | 映画(ま行)

マッチポイント

2005年/イギリス・アメリカ・ルクセンブルク 監督/ウディ・アレン

「ウディ・アレン、まだまだ現役!」
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デ・パルマの「ブラック・ダリア」、そして本作ウディ・アレンの「マッチポイント」。奇しくも同じ「魔性の女」という設定でスカーレット・ヨハンソンが出演。デ・パルマの「ブラック・ダリア」がムード満点でありながらもサスペンスとしては肩すかしであったのに対し、本作はスカーレットの魔性の女像を存分に活かしつつ、サスペンスとしても最後の最後までスリリングに見られる。正直、ウディ・アレンがここまで上質なサスペンスを作れるなんて驚いた。

サスペンスと言っても巧妙なトリックがあるわけではない。でも、クリスとノラの行く末がどうなるのかラストの30分くらいは実にドキドキ。やっぱりサスペンスって、これくらいシンプルでいいんだよね、なんてことも再確認させられた。サスペンスたるもの、ラストにはしっかりオチをつけてくれないと、という当たり前の要望がなかなか叶えられない昨今。実に小気味いいオチがきちんと用意されている。しかも、ウディらしい粋な展開で思わずニヤついてしまう。

妻と愛人の狭間で言い訳づくしの男、クリス。もうちょっと計画的に将来を考えろよって、ことなんだけど、よく考えるとこの言い訳男ってウディ・アレン作品によく出てくるキャラなのね。ウディがしゃべればいつもの機関銃トークになるその場しのぎの口からでまかせ。だから、体裁はサスペンスだけど、振り回される男が主人公ってことを考えれば実にウディらしい作品なのかも知れないです。そして、スカーレットの魅力が炸裂。特に登場シーンの妖艶さはどんな男でもイチコロですな。

人生は「運」次第。それをネットにかかったボールで表現するあたりも洒落てます。成り上がり男が不倫して、言い訳三昧のあげく、女とどうケリつけようか、なんて泥臭いお話が、ウディの手にかかるとこんなに都会的で洒落たお話になるなんて。しかも、上流社会らしい気取った会話や美術館などのハコが物語にも存分に活かされていて、ロンドンでの撮影が初めてとは、とても思えない。ニューヨークを舞台に繰り広げられる男と女の物語、という彼の持ちネタ以外にまた新たな方向性が芽生えたようで、ウディ・アレン、まだまだやるじゃん!と見直しましたです。とっても面白かった!
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by galarina | 2007-07-16 23:07 | 映画(ま行)

息子の部屋

2001年/イタリア 監督/ナンニ・モレッティ

「何かが起きてそうで、何も起きていない、奇妙な映画」
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カンヌ映画祭、パルム・ドール受賞作品と思って見始めてしまったから、正直肩すかし。最近のパルム・ドールって、問題作が多いのですごく身構えて見てしまったのが失敗の元。

本作は息子が不慮の事故で亡くなり、喪失感にとらわれる家族を描く作品。家族の突然の死によりみんなの心がバラバラになり始めた時に、予期せぬ一通の手紙が届く。しかし、その手紙の顛末もさして起伏なく、淡々と物語は進む…。息子を亡くした喪失感を家族で埋めるプロセスが描かれるわけでもなし、主人公が何かを乗り越えるわけでもなし。静かな物語でもじっくりと余韻を残す作品かと、期待して見てたら、あらあら終わっちゃった…って感じなのだ。

ただ、この作品で妙に印象に残ったのは、意図的な「外し」のような部分。例えば、息子に手紙を送った少女が家に訪ねてくる。つい先日、あなたのことが忘れられないという内容の手紙を書いているくせに、なぜかもう新しいBFとヒッチハイク中なんですね。こういう「外し」は個々のエピソードだけではなく物語全体をも包んでいる。何かが起きるんだけども、わかりやすい顛末には決してならないという。

精神科医である主人公ジョバンニは、息子とランニングに出かけようと約束していたのに、急な患者の呼び出しに応じてしまったがために、息子は別の約束を取り付けてしまい事故にあってしまう。だから、ジョバンニは、往診に出かけたことがトラウマになってるわけ。しかも、息子が死んでからもその患者のカウンセリングは続いている。普通なら、そこでその患者と何かが起きる、または、そのトラウマを乗り越える何かが起きると考えるのが普通。でもね、なーんにも起きないんだ、これが。

実はこの「外し」が気になり始めてから、私の頭には北野武の映画がよぎったんです。監督、主演も自分でこなし、淡々と進む物語でテーマは死。そして、出来事と出来事がストレートな因果関係で繋がらない、見ていてもどかしい感じ。北野武の映画がイタリアでウケるのも何となくわかるような気がした。

ただ、非常に個人的な好みの問題なんだけど、北野武の映画には、この「外し」の向こう側に様々なイマジネーションが見ていて湧いてくる。逆に言うと、そこを楽しむ作風と言える。でも、この作品では、それができなかった。息子が死んでもなおカウンセリングを続けるジョバンニの胸中を表現するシーンでいくつか味わい深いところもあったのは確かだけど、パルム・ドールなんて知らずに見れば良かったなあ。
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by galarina | 2007-06-28 23:18 | 映画(ま行)
1991年/アメリカ 監督/ガス・ヴァン・サント

「抱く者と抱かれる者」
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街角に立って、日々体を売る若い男娼たち。母に見放されたマイク(リヴァー・フェニックス)、そして市長の息子でありながら、心の空虚を埋めるかのように体を売るスコット(キアヌ・リーブス)。ふたりは、代え難い絆で結ばれていたはずなのに…。

ほんのささいな幸せすら手にできない、いや、好きな人に好きという権利すら与えられていない。そんなマイクの切なさがスクリーンいっぱいに駆けめぐる。23歳という若さでこの世を去ったリヴァー・フェニックス。彼が薬物中毒だったことは、彼自身の精神的な弱さやストレスの裏返しであろうが、その弱さは本作におけるマイクとぴったり重ね合わせることができる。

そんなリヴァー・フェニックスの魅力にあふれた作品であるのはもちろんなのだが、本作における、もう一つの大きなキーアイテム。それは、リヴァー演じるマイクが抱える病気「ナルコレプシー」だ。とにかく、マイクが突然ドサッと道ばたに倒れてしまうことが、おかしさを誘う。少年の悲哀と倒錯がうずめく物語の中で、この突然の昏倒がもたらすおかしみというのが実に良いスパイスとなっている。そして、突然の昏倒は、マイクをまるで道ばたに放り出された赤ん坊のように見せる。つまり、彼は常に誰かに「抱えてもらわねばらならない」存在であるということ。

もちろん、劇中その抱える役割を担うのはスコットであり、倒れたマイクを抱くスコットを映し出すシーンは、まるで中世の絵画のように美しい。守る者と守られる者、力のある者と無力な者というふたりの関係性を実に的確に、かつ艶めかしいほど美しく表現するためのアイテムが「ナルコレプシーによる昏倒」なのだ。

だからこそ、ラストシーンの昏倒が切なくて切なくてたまらない。あの絵画のように美しい「抱き」を見せるスコットはもういない。されど、マイクは通りすがりの車に拾われる。そう、まるで捨て子の赤ん坊のように。マイクの行く末を思い描けば、おのずとリヴァーの若き死もそこにオーバーラップする。彼の死という事実を受けて、このラストシーンには身を切るような痛みが伴う。実に皮肉なことだけど。しかし心に深く残る珠玉のラストシーンであることは間違いない。
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by galarina | 2007-06-26 23:19 | 映画(ま行)

マグダレンの祈り

2002年/イギリス・アイルランド 監督/ピーター・ミュラン

「怒りの目をむけよ」
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舞台は1964年、アイルランドのダブリン。マグダレン修道院に収容された少女たちは、ふしだらな女と決めつけられ、修道院でを祈りと労働によって神に奉仕し“罪”を悔い改めるよう言われる。しかし、マグダレン修道院で行われているその内実は、実に無惨な非人道的行為であった。

ちょっと男の目を引いたら修道院送り。いくら男が悪くてもレイプされたら修道院送り。結婚前に出産したら赤ん坊を取り上げて修道院送り。こんなワケのわからない制度が1995年という、つい10年ほど前まで続いていたという事実に驚きを禁じ得ない。

この作品はヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞しているが、ヴェネチアのあるイタリアと言えば、カトリック信者が多い国。バチカン市国もある。そんな国でカトリックの権威を振りかざし、これほどまでに非人道的なふるまいを行い続けた修道院を告発する映画が賞を獲るなんて実に皮肉な話。ある意味カトリック自身がこの映画で告発されている内容を認めたという証しなのかも知れないが、私のようなひねくれ者からすれば賞を差し出すことで理解のあるフリをして、事を穏便に済ませようとしているのではないかと勘ぐってしまう。

それほどまでにこの作品で描写されている修道院の事実はひどい。建物の中にいる人物が神父や尼僧の格好だからそれとわかるものの、やっていることは刑務所の看守と同じ。性的行為を強要する神父、金勘定に狂った尼僧。その姿の何とおぞましいこと。少女たちへの服従の命令も目を覆うものばかりで、本当に聖職者のすることなのか、と怒りで胸がいっぱいになる。

しかし、一方なぜこんな横暴が続けられたのか。それは、女性たちを修道院に入れることに何の疑問も持たない親たちや社会が存在しているからに他ならない。作品自体はほとんど修道院の中の描写だが、この過酷な状況を黙認し続けた社会も断罪されるべき。

親たちが娘を修道院に入れる理由。それは、娘がふしだらと烙印を押されることを極度に恐れ、世間体を取り繕うためか、それともカトリック教義が教える処女性への狂信的思いからか。いずれにしろ、このような劣悪な環境に進んで娘を差し出す、そんなメンタリティがまかり通っている社会にも怒りを感じて仕方がない。

結局、ヒトラーへの忠誠もそうだし、穢れを取り去るための割礼もそうだが、外部の人間からはどう考えてもおかしいと思うことが、一つの社会の中で共通の妄信によってがんじがらめになると、内部にいる人間の心というのはこれほどまでに融通が利かなくなる。そのことを痛感する。

本作の冒頭、結婚式のパーティで実に不気味な歌が流れる。私自身は他国の文化を頭から否定するつもりは毛頭ないが、どう見ても結婚式で歌うにはふさわしくないような実に暗い歌詞の歌なのだ。しかも、神父が歌っている。後で調べてみると、これは近親相姦をして子供を産んだ女性の歌だとわかった。歌詞の中で土に埋めた、という文言が出てくるから、その子供を殺して埋めた、という意味だろうか。いずれにしろ、結婚式でこのような歌が歌われること自体、いかに「処女性」を重んじているかの表れではないだろうか。より過激な言葉を許していただけるのなら、女性に対する教会からの圧力的行為、脅迫とすら感じられた。今でもこの歌はアイルランドの結婚式で歌われるのだろうか…。

ラストシーン、見知らぬ尼僧に向けられるバーナデッドの怒りの目。それは目の前にいる尼僧に向けられたものではなく、修道院の存在を認め続けた全ての人々と社会に向けられたものだ。ぜひ全ての女性たちに見て欲しい。
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by galarina | 2007-06-12 23:39 | 映画(ま行)

未来世紀ブラジル

1985年/イギリス・アメリカ 監督/テリー・ギリアム

「昔はもっと過激だと感じたはずなのに」
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私はSFファンタジーは見ないんだけど、近未来ものは好き。近未来を描く作品って、やっぱり監督の描きたいものや考え方が最も如実に出るんじゃないかな、と思うから。時代をどう皮肉るかっていうのは、今のその監督の考え方そのものだし、未来に何を見いだすかってのはその監督の願望が込められていると思う。

そういう意味ではこの作品にはテリー・ギリアムのブラックユーモアがふんだんにあふれていて、彼がとことん笑い飛ばしたいものに共鳴できれば楽しめる。例えば「書類と手続き」だったり「女性の整形願望」だったり。美術も近未来を描く場合は、監督のオリジナリティが存分に発揮されるところで、今作ではタイプライターや旧式のエレベーターなどレトロなものが効果的に扱われていて、見ていて楽しい。

暖房器具のモグリの修理屋ロバート・デニーロの唐突な登場がおかしい。そして、私がいちばん気になったのは「ダクト」。近未来はなんでこんなにダクトだらけなの?あのね、実はうちの小学生の息子も未来の工場の絵なんかを描くとやたらとでかいダクトが出てるのね。なんかダクトって男性のハートをつかむアイテムなんだろうか(笑)。まあ、そういう奇妙なシンボルが示すシュールな世界観を楽しむのがこの作品の醍醐味でしょう。

ただ、全体的に冗長で143分は長い。特に夢のシーンは今見るととってもチープに感じて、退屈。昔見た時は、もっと過激な作品だと感じたはずなんだけどなあ。近未来ものって、今ではもっとプロットが練られていたり、美術やセットも作り込まれた作品が続々とあるじゃないですか。1985年の作品だから、当時にしてみればかなり美術も凝ってると思うんですよ。でも、それでも途中で眠たくなってしまう自分が悲しかった。ラストシーンの驚きがなければ、この長さはつらかった。ラストシーンで救われました。
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by galarina | 2007-05-11 23:01 | 映画(ま行)

モンスター

2004年/アメリカ 監督/パティ・ジェンキンス

ふたりの関係を濃密に描いて欲しかった
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「あの美人のシャーリーズ・セロンが、ここまでやった」という評価が一番になってはいけないのだ、この映画は。それでは、ただの見せ物映画になってしまう。役になりきるため、ここまで変貌したシャーリーズ・セロンはすばらしい。これぞ女優魂。でも大事なのは、その向こうに何を見せるかだ。

少女時代のエピソードを含め、主人公アイリーンが売春婦にならざるを得なかった境遇は、悲しいことにあまり同情を誘わない。私にいつか王子様が現れるというような、短絡的であまり努力をしない女の子に見える。もちろん、それは、恵まれない家庭状況がそのような現実逃避型の思考を生み出した原因ではあるのだが、この映画の演出はあまりアイリーンの不遇を訴えるようにはしていない。

だから、この映画が描きたかったのは、あくまでもアイリーンとセルビーの関係性であり、最初の殺人をきっかけに追い詰められていくアイリーンの心情だと考えざるを得ないのだ。そうなると、二人の関係性というのがどうしても描き切れてないと感じざるを得ない。同性愛者ではないアイリーンが、セルビーを愛するようになる心の動き。セルビーと逃避行を行うために殺人を繰り返すやるせなさ。それが、なかなか伝わってこない。アイリーンのつらい心情がようやく胸をついてくるのは、連続殺人を重ねるうちに何の落ち度もない善良な男を殺さざるを得ない状況になってからである。

自殺したいほど追い詰められていたアイリーンが図らずも連続殺人犯になっていくのは、ひとえにガールフレンドであるセルビーへの思いがあるからなのに、この映画はアイリーンとセルビーが愛し合う場面をほとんど入れていない。だから、アイリーンにもセルビーにもなかなか感情移入できず、ただぼんやりと落ちていく二人を見ているだけなのだ。ふたりの愛というのは、それぞれが何かをごまかすためにでっちあげた都合の良い言い訳だったんだろうか、という気すらしてくる。

ふたりの愛の描き方の物足りなさがとても残念。アイリーンというキャラクターを完璧に自分のものにしていたシャーリーズ・セロンの演技が素晴らしかったゆえになおさらである。体型や顔つきもそうなのだが、ぶっきらぼうな座り方や口角を下げて野卑な言葉を吐く口元など、別人に生まれ変わったシャーリーズは鬼気迫る演技であった。
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by galarina | 2007-02-12 23:38 | 映画(ま行)