「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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カテゴリ:映画(ま行)( 30 )

緑の光線

1986年/フランス 監督/エリック・ロメール
<5つめの格言:ああ、心という心の燃えるときよ来い>

「泣いてばかりのデルフィーヌ」
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まず、ベネチアで金獅子を撮ったこの作品の特徴は、ロメール監督が無名の女性スタッフ3人と即興的な演出で短時間で撮ったということでしょう。憂鬱なバカンスを過ごすパリジェンヌをとらえたその映像は、まるでドキュメンタリーのような手触り。バカンスにゆく先々で交わされる会話に、脚本はあるんだろうか。セリフがかぶったり、ヘンな間が空いたり、互いにぎこちなかったりするので、ついそんな風に考えてしまう。ただ、このぎくしゃくする会話が見事にそれぞれの、特に主人公デルフィーヌの性格を映し出しています。全編に渡る、この即興演出の妙こそ、他作品にはない本作の味わい。

さて一方、主人公デルフィーヌは、この独特の演出によって、非常に自然体、等身大の女性として映し出されます。そこに、もちろん共感する部分も多いのですが、パリジェンヌという語感からは程遠い、うじうじぶりにちょっと辟易します。バカンスって、フランス人にはそんなに大事なもんなんですね。ひとりは寂しい。それは、わかった。それにしても、です。友人の言葉で泣き出したり、第三者の好意をかたくなに拒んだり。どう見ても、デルフィーヌは極度の情緒不安定。特に、友人が手を差し伸べてくれたシェルブールのバカンス先でのランチの場面。テーブルに並ぶごちそうを目の前にして、私はお肉が食べられないの。獣を殺す行為に思いが及んでしまうから、といったようなことを言った時は、ちょっと唖然。こんなに周囲に気づかいのできない女性では、ボーイフレンドはおろか、友人も離れてしまいかねない。

ロメールは、本シリーズではそれぞれの主人公に、ひとりの大人としてはやや欠落したものを持っている、そんなキャラばかりを選んでいます。そりゃ格言シリーズなんですから、彼らのその欠けたモノを皮肉ったり、諌めたりしているわけです。その中では、このデルフィーヌは最強キャラじゃないでしょうか。ただロメールのいいところは、彼らの人間性そのものを決して否定したりしないところ。やや離れた位置で観察しながら、さりげない方法で彼らの性格を表出させ、いいところも悪いところも見せつつ、それも人間さ、もっと人生は良くなるさ、と締めくくる。そこには説教臭さは微塵も感じられません。そしてまた、それは神の視点というような大それたスタンスでは決してなく、強いて言うならば、敢えて苦言も呈しながら優しく包み込んでくれる親戚の伯父さんと言った感じでしょうか。そんな暖かい雰囲気が作品を包んでいる。そこがロメール作品に惹かれるところです。デルフィーヌという女性はどうしても好きになれないですが、こうした作品のムードに引っ張られ、「緑の光線」は果たして見られるのかという盛り上がりを持ってエンディングを迎えます。
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by galarina | 2008-10-28 23:42 | 映画(ま行)

満月の夜

1984年/フランス 監督/エリック・ロメール
<4つめの格言:人の妻を持つ者は心をなくし、二つの家を持つ者は分別をなくす>

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「自由を謳歌するには大人の分別が必要」
パリ郊外に引っ越してきたルイーズとレミのカップル。パリで働くルイーズは、週末の夜遊びが大好き。せめて金曜の夜は自由に遊ばせてくれ、浮気するわけじゃない。私はたまには、自由の時間が欲しいだけなんだから。それで、きっとあなたのことも、もっと愛せるようになる。ルイーズは、週末用にとパリに部屋を借りてしまうのだが…。

アイタタタ…。このルイーズの自己主張、まんまワタシの持論と同じだぁ。耳が痛い(笑)。現在、田舎暮らし中の私は、仕事用に都会にも部屋が欲しいと思ってまして。ほんと、ルイーズの言うことなす事、鏡を見ているようでつらい。でも、こうやって客観的に見ると、ルイーズのやってること、すごくワガママに見える。ちょっと、考えを改めなければならないのか!?とかなり身につまされる作品でした。

ルイーズはパリにいる時は妻子持ちのオクターブと遊ぶことが多い。このふたり、肉体関係のない、いわばプラトニックな関係。一見して、良き友人として付き合っている、例えば「SEX AND THE CITY」のキャリーとスタンフォードのような関係かと思いきや、おっとどっこい。オクターブの心中には、チャンスさえあればルイーズと寝たいという欲望はくすぶっている。

これまた、フランスらしい個人主義と言いますか、彼は彼、男友達は男友達と割り切った人間関係をみんな認め合っている社会なんだな、というのがよくわかる。ただ、そのためには大人としてのセルフコントロールがとても大事で、ルイーズはまだまだ子どもなんですね。正論を振りかざせるほど、自己抑制できていないオンナの子。だから、オクターブにもつけこまれちゃうし、最後にはレミから痛い目にあっちゃう。でも、この子は反省したりしないんだろうなあ。ちょっと苦い経験したけど、また別の男を探すわよ、なんて切り替えていきそう。

ルイーズを演じているパスカル・オジェ。鈴木保奈美のような三白眼で舌っ足らずな甘えた口調が印象的。クラブでルイーズをひっかける男の子をクリスチャン・バディム(ロジェ・バディムとブリジット・バルドーの息子!)が演じているんだけど、正直イケメンとは言えん。レミにしても、オクターブにしてもそうなんだけど、ロメール作品にはイケメンが全然出てこない。フランス人なら、背の高いすらっとしたオトコマエがうざるほどいるだろうが!と思うんですけどねえ(笑)。
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by galarina | 2008-10-26 15:18 | 映画(ま行)

殯(もがり)の森

2007年/日本・フランス 監督/河瀬直美

「揺さぶられる母性、制御不能な感情」

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とても感動しました。カメラはよく揺れるし、車の中のシーンは暗くてはっきり見えないし、セリフだって聞きづらいし。それでも、胸の奥がきゅーっと締め付けられるような感覚に何度も襲われました。深い森の奥でしげきさんが大木に抱きついた辺りから涙が止まらなくなってしまったのでした。

茶畑のかくれんぼ、木登り。無邪気なしげきさんに、真千子は亡くした息子を重ねた。車の中から消えてしまったしげきさんを必死に追いかける真千子。行かないで、消えないで。自分が手を離してしまったことで、真千子は再び罰を受けるのだろうか。森の中の追いかけっこ。それは、生と死の境界を行ったり来たりする追いかけっこ。「行ったら、あかん!」真千子の悲痛な声が胸に突き刺さる。そのやりきれなさと哀しみが私の心の中に洪水のように入り込んでくる。そして、突然私はフラッシュバックを起こし、真千子と同じような体験をしていることを思い出した。川遊びに出かけた際、息子がもう少しで川にのみ込まれそうになった夏の思い出。同じように「行ったら、あかん!」と声が枯れるまで叫び、息子を抱きしめて自分の不注意を嘆き、何度もごめんと謝ったあの日。

そして、森での一夜。真千子が裸になったのは、大切な者を守りたいという衝動的で原始的な行為だと感じた。そして、再び私は自分の原体験が頭をよぎる。息子が赤ん坊だった頃、布団の中で裸になって彼にお乳をあげていた自分。そこに、紛れもなく流れていた恍惚の瞬間。それは男女間に訪れる恍惚ではなく、もっと人間本来の原始的な恍惚。ふたりが森の奥へと入った時から、私の中の心の奥底に眠っていた記憶がとめどなく引っ張り出されて仕方がなかった。私の中の母性が疼くのだ。夜が明け、朝靄の中でしげきさんがずっとずっと遂げたかった思いを完遂させる一連のシークエンスは、とても感動的。土に眠るしげきさんを見守ること、それは真千子にとって亡くした息子を見送ることだった。森や土、そこは人間が還る場所、母なる場所。私たちは包まれている。この怖ろしくも、美しい場所に。

ドキュメンタリースタイルだからこそ引き出されるリアリティ。演技者のつたなさがもたらす不安感。息を呑むように美しい風景。息苦しくなるような暗い森での追いかけっこ。様々な感情が堰を切って流れ出す、何とも濃密な作品。荒削りと評されることもあるようですが、荒削りだからこそ、この揺さぶられるような感覚が起きるのではないかとすら思ってしまう。下手にうまくならなくていいんじゃないか、むしろ、私はそんな風に思ってしまうのです。
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by galarina | 2008-05-12 15:51 | 映画(ま行)

舞妓 Haaaan!!!

2007年/日本 監督/水田伸生

「人生ゲーム、実写版」
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ゴールは、舞妓さんとの野球拳。ルーレット回して、はい出世したー、はい野球選手になったー、はい職を失ったーとコマを進める。これは、爆裂人生ゲーム、実写版ですね。でもね、バカにするつもりはないです。結構腹を抱えて大笑いしました。物語の結末は、なんだかなあと言う感も否めませんけど、十分楽しませてもらったので、大目に見ます。

こういうおバカムービーの場合、とことん他人事として楽しむ、というのが肝心です。例えば、何とか甲子園のような野球映画なら、「そんな球、普通投げられないだろ!」とか思ってると、もうそこで楽しめないわけです。本作の場合、花街の描写についてツッコミどころがないわけではないのでしょう。しかし、私は全く気になりませんでした。私は大阪出身、京都在住の生粋の関西人ですが、それでも「花街」って一体どんなところやねん?というのはあるわけです。一見さんお断りは、別に何とも思いませんが、あれだけ芸を磨き修業しても、結局パトロンがいないと道が開けないって、それは一体どういうことやねん?とか。わからないことだらけです。ベールに隠された世界「花街」の存在そのものを斜めに見ている私は、それこそ全く無責任に楽しんでしまいました。

周りを固める役者に関西出身者を多く配置しているのがいいです。阿部サダヲがしゃべる強烈なイントネーションの下手くそ京都弁を際だたせるためには、周りの役者がきちんとしたはんなり京都弁をしゃべれなければなりません。一番光っているのは意外にも駒子を演じる小出早織という若手女優。非常にさっぱりとした顔立ちで、舞妓はんの白塗りがとても似合っています。京都出身なんですね。清楚な雰囲気もバッチリです。派手な顔立ちの柴崎コウの白塗りと良いコントラスト。また、阿部サダヲのハイテンションにみんなが付いていってこそ、成り立つ作品。ゆえに堤真一の功績も大きい。えらい口の汚い役ですけど、とことん弾けてます。柴咲コウのやる気のなさが見え隠れするのですが、周りのパワーにかき消されてしまったのは、不幸中の幸いってことでしょうか。
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by galarina | 2008-04-26 23:42 | 映画(ま行)

みんな~やってるか!

1994年/日本 監督/北野武

「賢く見せないためのお下劣」
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この作品は「監督、ばんざい!」と構造的にとてもよく似ています。これがベースなのでは?と思えるほど。「カーセックスがしたい」という目的のために、手段を選ばずあれこれ挑戦するバカ男。この前半部は、ヤクザ映画は撮らないと宣言した北野監督があの手この手でいろんなジャンルに挑戦するくだりとそっくり。そして、そのバカ男が主人公だったのに、突然北野博士の手によってハエ男に変身させられ、件の「カーセックスがしたい」という話はどこかに行ってしまい、ハエ男駆逐作戦へと物語はまるきり違う方向へと転換します。これも「監督、ばんざい!」において北野監督の苦悩はどこかへ行ってしまい、鈴木杏と岸本加世子が主人公に取って代わるのと非常に似ています。

「目的を持った主人公=主体」が、何かのきっかけで客体に転じてしまう、という構造。「監督、ばんざい!」の場合は、この客体となった北野武は人形であり、さらに構造的には複雑になっていると思います。この作品は5作目で、直前に「ソナチネ」を撮っていますので、北野監督としては、物語の構造を壊して、再構築するという作業に、挑戦してみたかったのではないでしょうか。まあ、それを何もこんなお下劣なネタで…と思わなくもないですが、知的な見せ方にするのをシャイな北野監督は嫌がったんじゃないかな。最初の目的は「カーセックスがしたい」でも「宇宙飛行士になりたい」でも何でも良かったのかも知れません。

「大日本人」は、あまり気に入りませんでしたけど、「笑い」というツールを使って実験したい、という意思は、さすが同じフィールドで活躍する者同士。また、それが同年に公開であった、という偶然には、ある種の感慨を覚えます。でも、北野監督が4作撮って、この実験を行ったことと、デビュー作でいきなり実験をやっちゃったこととの間には大きな隔たりがある気がしてなりません。
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by galarina | 2008-04-19 22:37 | 映画(ま行)

マラソン

2005年/韓国 監督/チョン・ユンチョル

「最初はシマウマ、雨が降ればチーターになって」
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自閉症の青年がマラソンを走り抜く感動物語と思っていたら、これはその母の葛藤を描く物語でした。息子のために良かれと思って応援しているマラソン。それは、果たして息子自らが望んでいることなのか。彼の頑張る姿を見たい母親のエゴイズムではないのか、という問いかけ。これは、全ての子を持つ親への問いかけでもあります。お受験させる親、野球教室に通わせる親…etc。

息子が自閉症だとわかり、一旦はその手を離した母。しかし、そんな自分を深く戒め、何が何でも私がこの子を育てるという決心に至る。そんな、母が「彼があなたを必要としているのではなく、あなたが彼なしでは生きられないのだ」となじられた時の哀しみはいかばかりか。そして、兄にかまけてばかりの母と弟の溝は深まるばかり。

これは、親と子の距離感を描いた作品なんですね。ずっとべったりでもダメで、ずっと突き放しっぱなしでもダメで。その距離はTPOに応じて、縮めたり、伸ばしたりして、努力して良い距離感をキープしていくもの。そして、そのキープに欠かせぬものは、対話であり、信頼。タイトルから予期できる通り、主人公はマラソンを完走します。しかし、過剰な感動演出は全くありません。逆に、もっと泣かせてくれよ、と思うほどです。恐らく、観客を泣かせるためには「自閉症という症状、そして自閉症の息子を育てることってたいへん」という苦労の前フリが必要なんですよ。でも、あまりそれをしてない。そこに、これが実話であることを踏まえた製作者側の、ご本人たちへのリスペクトを感じます。息子に鏡を見せながら笑顔の作り方を指導するシーンなんて、とっても微笑ましくて、微笑ましくて。ストーリーの概要と韓国発と聞いて、ベタベタの湿っぽい感動作かと思いましたが、全くそんなことはありませんでした。親子の距離感、そして家族の幸福とは何かを静かに考えさせられる秀作です。
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by galarina | 2008-04-15 23:01 | 映画(ま行)

モーツァルトとクジラ

2004年/アメリカ 監督/ペッター・ネス

「恋の成就が人生の門出 」
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アスペルガー症候群の2人のラブストーリーってことで、もっと恋の行方がしっちゃかめっちゃかするのかと思ったらさにあらず。病気によって引き出されるトラブルをあまり悲惨に見せていないの。それが、とても良かった。かわいそうだとか、たいへんだとか、観客がそう思ってしまう演出って、おそらくふたりのピュアな人間性を表現するには、邪魔ものでしかないと思う。この監督は、非常にスマートですね。

よって、誰にでも当てはまる普遍的なラブストーリーになっていると思います。誰かと深く関わることの畏れというのは、今を生きる現代人は少なからず持っているものでしょう。アスペルガー症候群の彼らはその「自分の殻」が我々よりも少々固い。でも、殻から出るのも、殻をつつかれるのも、誰だって怖いのです。殻に閉じこもっておけばラクだという気持ちと乗り越えたいという気持ち、その相反する感情に揺さぶられる。そんな境遇には、どんな人でも共感できるのではないでしょうか。

すばらしいのは、ふたりにとって恋が成就することが、すなわち人生を切り開くこととイコールである、ということ。恋が実って良かったね、という安堵感もありますが、むしろふたりが自分の手で人生の新たな門出を開いたその姿が感動的。全編に渡ってさらりと見せる演出なのですが、見終わった後でじわじわと幸福感が味わえる秀作だと思います。
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by galarina | 2008-03-14 22:46 | 映画(ま行)

マグノリア

1999年/アメリカ 監督/ポール・トーマス・アンダーソン

「生きることの本質を強烈な語り口で見せる傑作」
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189分と言う長尺ですけど、何度見ても飽きません。傑作です。それぞれのエピソードは、川の支流のように途中で合流したり、離れたりを繰り返しながら、死や別れの予感に向かって突っ走っていく。この独特のドライブ感を生み出すのが、P・T・アンダーソン監督は実に巧い。音楽やカメラ、エピソードのつなぎ方がとてもリズミカルで、観る者を飽きさせない。前作の「ブギーナイツ」同様、最初の1時間はあっと言う間に過ぎ去ってしまいます。忘れないうちに言っておきますが、エイミー・マンの音楽がすばらしいです。

本当にヘンな奴ばっかり出てきますが、このキャラクターを考えるセンスには脱帽します。そしてこの特異なキャラクターをそれぞれの俳優陣が精魂込めて演じている。俳優陣全てに主演俳優賞をあげたいくらいです。ジュリアン・ムーアもフィリップ・S・ホフマンもいいのですが、何と言ってもトム・クルーズでしょう。これ以上のトム・クルーズを私は観たことがありません。男根教とも呼ぶべきイカサマSEX宗教のカリスマですが、そのイカれっぷりは圧巻です。

そして、スラング大会のように実に下品な言葉が次から次へと出てくる。罵ったり、蔑んだり、英語に精通した上品な方なら、耳を塞ぎたくなるような口汚さですね。ジュリアン・ムーアのセリフの90%はFUCKとSHITで成り立っているんではないかというくらい。でも、この俗悪さこそ、P・T・アンダーソンの強烈なオリジナリティであり、かつこの作品を傑作たらしめているものの一つだと私は思っているんです。

これらの汚いセリフは、彼らが地面を這いつくばって生きる、生き様そのものであり、魂の叫びのように聞こえます。どんなに下品であろうと、心の底から絞り出される悲痛な叫びであるからこそ、彼らは救われる。あまりにも、奇想天外な奇跡によって。初めてこの作品を見たときは、この唐突に起きる奇跡に声をあげて驚いたのですが、なぜかすんなり受け入れられたんですね。その腑に落ちるための伏線は、冒頭幾つかのエピソードで張られているのですが、それ以上に人間は「人生というものは何が起きるか分からない」と直観的に理解できているからだと感じられてなりません。己のどうしようもない所で、人間は生かされているのだ、という哲学的な見地から眺めたくなる作品。しかもそれが俗悪極まりない人物たちによって、創り上げられている。のたうち回って生きる彼らこそ、人間として最も美しく尊い存在に見えるのです。
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by galarina | 2008-02-16 22:15 | 映画(ま行)
1956年/フランス 監督/アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
「ピカソのアトリエにいるような高揚感」

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ピカソが実際に絵を書く様子を映像に納めた本作。作品そのものがフランスの国宝なんだそうだ。なるほど、それもうなずける。だって、あのピカソがどうやって絵を描いているのか、まるでそこにいるかのような臨場感で味わえるんですもん。大好きなんです、ピカソの絵。

磨りガラスのようなキャンバスを反対側から撮影する、という特殊な技法。真っ白なスクリーンにどんどん描き加えられるピカソのタッチ。ただ絵を見ているだけなんだけど、すごい高揚感。完成までのプロセスを眺めるなんて、こんな贅沢なことはないです。本作で描かれた絵は全部破棄しているらしいんですよね。もったいない。絵と絵の間に監督やカメラマンと談笑するピカソの映像が挿入される。「あと5分しかフィルム回せない」「それだけあれば大丈夫」そんなやりとりが面白い。それにしても、描くスピードの速いこと、速いこと。

さて、天才ピカソの絵を描くプロセスを観ていて、「なるほど、こんな風に描くんだ」という合点がいくことよりも、むしろ「なんで、そうなるの?」という謎の方が大きい。目の前で見せられているにも関わらず。まさに、タイトルの「ミステリアス ピカソ」ですよ。ただの幾何学模様が女性の顔になったり、せっかく描いた模様を塗りつぶしたり。最初から描きたいものが頭の中でできあがっているのか、描いている途中に気分が変わっちゃうのか。凡人には全くわかりません。

この作品は、3回ぐらい観ているんですけど、常に新しい発見があるし、毎回印象に残る絵が違いますね。たぶん、その時の自分の精神状態によって変わるんでしょう。映画だけど、「絵画」の奥深さ、すばらしさをとても感じます。
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by galarina | 2007-12-09 23:02 | 映画(ま行)

松ヶ根乱射事件

2006年/日本 監督/山下敦弘

「これが現代日本人の乱射だ。むなしければ笑い飛ばすがいい」

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「ゆれる」以来の衝撃。ずいぶん前に見たのになかなか思いを文章化できず、本日に至る。それでも、まとまりそうにないので、やむなく見切り発車します。

「現代人の閉塞感」というのは、文学や美術を含め近代における全ての表現活動で題材にされてきたテーマだ。今や中学生の10%が「鬱状態」と発表されるような日本社会においては、表現者たるもの閉塞感を描くしかないだろう、というところまで追い込まれて来ているように思う。事実、最近のぴあフィルムフェスティバルで入賞したラインナップの紹介文を読んでいると、何だか暗いテーマの作品が多く気が滅入る。しかし山下監督は、この手垢が付きまくった題材に、独自の切り込み方と表現スタイルで挑んだ。鑑賞後、私はショックで放心してしまいました。

冒頭、ランドセル坊やが女の体をまさぐる場面から乱射は始まっている。今にも、暴発してしまいそうな鬱屈感を全ての登場人物が抱えていて、声には出さずとも、銃は持っていなくとも、互いが互いを撃ちまくっている音が私には聞こえる。時折挿入されるブラックな笑いとストレートな性表現、そしてどうしようもないダメ人間の描写。確かにオフ・ビートという言葉が似合うかも知れない。だが、私が思い描いたのはアナーキー。

みんな、みんな、ぶっ壊れちまえばいい。そう思わずにはいられない、どうしようもなくダサい田舎町のディテールが秀逸。ガムテープが風になびく物干し竿、国道沿いのぼろ喫茶で流れる虎舞竜、ワケのわからん飾り人形が先っぽにぶら下がる蛍光灯の紐…。サラリーマンにはサラリーマンの、女子高生には女子高生の閉塞感があると思うが、このようなどうしようもなくダサいものに囲まれ、大した娯楽もなく、男はみな兄弟(女を共有しているということ)みたいな閉じた場所で暮らす地方の人々の閉塞感と言うのは、はけ口がどこにもない、という意味で実に切実。風俗に行けなければ、ドラッグもできず、自殺すら許されない。それが、田舎だもの。しょせんミニシアターなんて都会のど真ん中にしかないでしょ。もし、この作品を田舎の寂れた公民館で上映したら、スクリーンの絶望感を共有してたまらず逃げ出す人がいるかも知れない、とすら思う。

しかし、ラストで山下監督はその絶望を何とスカしてしまう。このスカし方が本当にカッコ良くて、空に放たれた銃弾は私の胸に命中。嘆くのでもなく、いたぶるのでもなく、スカすっていうのが…。ああ、言葉にならない。実は、所々のシーンで古い日本映画を見ているような「懐かしさ」を感じていた。主にそれは性表現においてなんだけど、そのあまりにモロな感じがね、無骨さというか、チャレンジャーだな、と感心したりして。だけども、このラストのオチとも呼べる展開は、“今”しか描けない。もちろん、そのセンスにも恐れ入りました。

役者陣について言うと、普通怪演って言うと誰かひとりなんだけど、本作は全員怪演というとんでもなさ。誰1人としてお友だちになりたくないやね。キレているわけでもなく、投げやりになっているでもなく、みんな飄々とした演技だけれども、作品を突き抜ける痛さはハンパじゃない。

「どういうジャンルの映画が好き?」と聞かれると、私は「邦画」と答える。ますますその思いが強くなる1本だった。怪作にて傑作。
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by galarina | 2007-10-09 21:37 | 映画(ま行)