「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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カテゴリ:映画(は行)( 113 )

ばかのハコ船

2002年/日本 監督/山下敦弘

「軽々と枠を超えていく」

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前作「どんてん生活」でどこまで狙ってやってるんだろうと書きましたが、なーんも狙ってないことが本作を観てわかりました(笑)。思いつくままに、映画を撮ってる。そんな感じ。映画を撮らねばならない使命とか、映画で表現しなければならない苦悩とか、そんなもの、ここには微塵もない。こんなに自由に映画が撮れたらさぞかし気持ちがいいんじゃないでしょうか。そして、もし私が映画監督を目指しているような人間だったら、映画というおもちゃで自由に遊んでいるこの奔放さに大きな嫉妬を覚えそう。

恋人同士のふたりが「あかじる」の売り方で大真面目に議論するようなくだらないシーン、特に会話のやりとりで思わず笑ってしまうわけです。例えば、あかじるを売りに行った先でいとこが「うん、あたしにもそんな夢を追いかけた時期があるよ」なんて、大真面目に返したりして。あかじるが夢かよっ!なんてスクリーンにツッコむ。結局これって、延々と続く「ボケ」なんですよね。漫才で言うところの。なので、実は山下作品から松本人志のコントなんかも時折思い浮かべてしまうんです。(「大日本人」はまだ観ていませんが)

ボケ担当であるまっちゃんのコントも「わかるやつだけわかればいい」的奢りが感じられる、なーんて皮肉を言う人もいるけど、作り手にそんな気持ちはさらさらないと私は思うな。山下作品も同様に面白い人と面白くない人がいると思うんだけど、結局それは、作り手が限りなく自由に作っているからだと思う。大多数の人間を笑わせようという意思は全くないのよね。私は例によって、最初から最後までおかしくて、おかしくてしょうがなかった。

また、一方でダサイ人間の描写とか、噛み合わないセリフとか、それだけで成り立っているんじゃない、というのもつくづく痛感させられるのね。それは、構図の面白さとかカメラの位置。本作では、特にカメラの高さが気になったんだけど、視点やトリミングの仕方ひとつで笑いを出せるって言うのは、単なる思いつきだけではない映画人としての才能だと思う。

そもそも映画って「伝えたいメッセージを持つもの」という固定概念があるでしょ。そういう枠を完全に飛び越えちゃってる。全ての表現において、テーマはなし、自由にやれって言われることほど、難しいことはないもん。しかも、この全くもってくだらない物語を終盤しっかり収束させようとしているところがすごい。それは、ふたりがどうなる、という顛末としての収束ではなく、映画としての収束ね。久子の哀しさ、大輔のやるせなさ、と言った情緒的なものをスパイスのように効かせて、見事なオチへと繋げていく。うまいなあ。
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by galarina | 2007-12-24 23:52 | 映画(は行)
<梅田ブルクにて「3Dバージョン」を観賞>
2007年/アメリカ 監督/ロバート・ゼメキス

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とにかく「3D」の技術が評判が高いもので、観てきました。目の前に矢は飛んでくるし、人間が飛んだり、ひっくり返ったりする様もリアルだし、迫力抜群でした。いたるところで、3D用に構図されている箇所があるため、通常バージョンで観るとなんでこの構図なの?と思うところがあるようです。つまり、3Dでこそ、観るべき映画というところでしょうか。ラストの竜との対決シーンは、まさにそんな感じでした。

しかし、私はとても目が疲れました。映像関係に詳しい方から字幕の位置が前後していることも関係しているのでは?と言われ、なるほど、そうかも、と。3Dゆえに映像の奥行きがハンパないんですが、字幕の奥行き感が一定していないんです。「メガネをかけている」ということも、意外と気になっている上に、字幕を追いかけなきゃいけない。吹き替えで、ただぼーっと絵だけを眺めている方が目には良さそう。というわけで時間があれば息子と「ルイスと未来泥棒」の3Dを見に行こうかな。

最新の映像体験ができた、ということでは満足度高いです。でも、やっぱり私という人間は、映画に対して、映像よりも、物語に重点を置いているんだなあ、ということを再確認できました。それは、この「ベオウルフ」がメッセージ性がないってことではなく、本作が示すメッセージは、私の好みではなかった、ということです。

原作を読んでいないので、勝手なことは言えませんですが、これは「父性」がテーマではないのでしょうか。本作は隅から隅まで、権力を獲得すること、権力を示すこと、権力を維持することにまつわる物語です。その権力を邪魔するのは、女の誘惑であり、我が息子であります。旧約聖書に父が息子を殺す、という話があるそうですが、父の威厳を脅かす息子というのは、非常に良くあるモチーフです。そして、こういう物語は、正直、私はあまり好みじゃないの。ごく普通の現代劇でも父と息子の相克を描いた作品とかって、あんまり惹かれないんですよね(苦笑)。

なので、私は途中からベオウルフという1人の男の物語ということにフォーカスして観ました。そうすると、類い希な力と勇気を持った男の悲劇として、堪能できました。何もかも手には入れたものの、それは悪魔のような女とのたった一度の契り(=契約)によって何とか均衡が保たれているものに過ぎない。それが、いつかは崩れるのではないかという恐怖、愛する妻への後ろめたさ。晩年のベオウルフには、若かった頃の威厳や自信は見る影もなく、昔の栄光に頼って生きているだけ。しかし、最後に勇者としての誇りを見せるわけですね。(あれ?設定は全然違いますけど、ロッキーもそんなテーマだったな…笑)ラストの竜との対決に至るベオウルフは、実に精悍な顔つきで、己の命を賭けてでもけじめを付けようとするその姿には少なからず心を打たれました。それしても、男って哀しい生き物だなあと思ったのは、私だけでしょうか。
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by galarina | 2007-12-23 23:11 | 映画(は行)

豚と軍艦

1961年/日本 監督/今村昌平

「豚の生き様、豚の死に様」

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昭和35年、米海軍基地として賑わう横須賀が舞台。とりあえず、手っ取り早く稼ぐにゃ、男はヤクザ、女は娼婦。もう、みんながみんなどうしようもないのよね。だけども、体張って生きていくしかないんだ、この時代は。人間くさい日森組のヤクザたちのキャラが面白い。病気持ちのアニキ丹波哲郎、仕切り屋の大坂志郎、威勢のいい加藤武、臆病者の小沢昭二、そしてパシリの長門裕之。それぞれのキャラクターが実に生き生きしていて、やってることは最低なんだけど、どうにもこうにも微笑ましく見える。戦後を生き抜くはみ出し者に対する今村監督の愛情がスクリーンからあふれてくる。

そんなどうしようもない男どもが基地の残飯をタダでもらい受けて始めたのが養豚業。人間界のブタどもが本物の豚を育てるわけですな。そして、圧巻はラストシーンの街中を駆け回る豚、豚、豚の群れ。生きるために走る。見てくれは悪くても、鳴き声は汚くとも、街を走る。その滑稽だけど、バイタリティーあふれる姿が、ヤクザの生き様と見事にオーバーラップする。本物の豚どもに追いかけられ、踏みつぶされ、逃げまどう人間のブタども。ヤクザの世界からようやく足を洗う決心した欣太(長門裕之)だったが、彼の行き着いた場所は…。

ドブ板通りの人間どもを舐めるように捉えるカメラワークに躍動感あふれる演出、俯瞰のショットもそこかしこで効いている。海兵たちに弄ばれる春子をベッドの上から眺めたショット、突っ伏した欣太の最期を捉えたショット、そして、ラストシークエンス。カメラはむらがる娼婦たちをすり抜け横須賀の街を去る春子の後ろ姿をとらえながら、どんどん引いていき上空から去りゆく電車をとらえる、鮮やかなラスト。

さて、ヤクザの面々も面白いけど、ヒロインを演じる吉村実子、この映画がデビュー作とは思えない堂々たる演技。続いての名作「にっぽん昆虫記」にも出演。おかあちゃんの愛人を寝取るという、何とも逞しい田舎娘を演じてます。みんなに「べっぴんさんだねぇ」と言われてますけど、正直…。いえいえ、当時はこの逞しさこそ、女の美学だったのかも知れません。
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by galarina | 2007-12-01 23:28 | 映画(は行)

ハンニバル・ライジング

2007年/アメリカ・イギリス・フランス 監督/ピーター・ウェーバー

「ハンニバルがハンニバルたる由縁はどこに」

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シリーズファンとてしては、とりあえず見ておこう、というスタンスの映画よね。
これは、しょうがない。

結果としては、シリーズを貫く崇高なムード。これが、一歩及ばず、という感じ。リトアニアのレクター城や、レディ・ムラサキが創り上げたミステリアスな祭壇、人間の臓器が陳列する研究室など、それらしいムードを作るバックボーンはかなり揃ってる。なのに、物足りない。それは、レクター本人、つまりサー・アンソニー・ホプキンスが身に纏うムードなのかも知れない。そこんところをギャスパー・ウリエルに求めるのはもちろん、酷な話ではあるんだけれど。ただ、レクターという男の尊大さやプライドの高さなど、様々な面でギャスパー・ウリエルは熱演だったと思う。

これまでの作品で創り出されたハンニバル・レクターという男を見るに、彼の殺人者としての有り様は、「復讐」という泥臭い言葉など本来最も遠いイメージだと思う。レクターは生まれながらにして、あのハンニバル・レクターであるはずなのだ。だから若き日のレクターの内面に迫る演出が少ないのがとてもひっかかる。ひとり、またひとりと殺していくごとに、彼の中の凶暴性が目覚めたのではないか。殺すこと、そのものが快感になっていったのではないか。殺した人間のまさに血と肉を得ることによって、レクターはモンスターとなった、その瞬間をもっと鮮烈に描けなかったか、と思う。これならば、妹の復讐が終わった時点で、目的は果たせたことになる。つまり、もう誰も殺す必要はない復讐犯の物語だ。レクターは妹の復讐を完遂させてもなお、「あの」ハンニバル・レクターでなければならないはず。

さて、コン・リー演じるレディ・ムラサキを始めとする日本的描写の部分なんですが、これは意外と違和感なかったですねえ。確かに鎧武者を拝むってのは変ですけど、「八つ墓村」でも小梅さんと小竹さんは、洞窟の中で鎧武者を奉ってますからね(笑)。レクターの冷静沈着さと日本武道のストイックさを結びつけるって言うのは、いかにも外国人の視点ですが、それほど的外れでもない感じがします。むしろ、レディ・ムラサキを愛していると言ったレクターですけれど、これまたその内面があまり見えず、違和感が残りました。

本作、原作者のトマス・ハリスが脚本を担当しているので、レクターの内面に迫れていない、というのがなおさら引っかかるんでしょう。もしかして、「ハンニバル・ライジング」→「レッド・ドラゴン」に繋げるために、もう1本作ろうとしているのか!?
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by galarina | 2007-11-30 23:49 | 映画(は行)

ビッグ・リバー

2003年/アメリカ 監督/舩橋淳


「どこまでも高いアメリカの空」

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何も起きない淡々と流れる映画といろいろ聞いていたのですけど、
いや、これがね、意外と良かったんだな。

砂漠のど真ん中、まっすぐに進む道。時折見えるのは、巨大な岩だけのアメリカの大地。こういう景色を舞台にしたロードムービーは多い。しかし、撮る人間によってこうも印象を変えるものなのかとこの作品を通じて再確認できた。例えば「イージーライダー」ならワイルドで荒くれたイメージ、「バグダッド・カフェ」なら憂いのイメージ。本作では、この広大な景色に私はアメリカの「包容力」を感じた。小さな摩擦を起こしながらもほんのひと時の旅を続ける3人をすっぽりと包む込むアメリカの大地。

構図も非常に計算されていると思う。狙ったショットが多い。そこが、ジャームッシュもどきと感じてしまう方はダメなのかも。でもね、私はとても気持ちよく受け止めることができた。たぶん、それは高い高いアメリカの空のせい。そして、常にシンプルである続ける絵の美しさ。車のボンネットに座る3人と青空。画面の中にそれしかない。そんな最小限の情報しか存在しない映像がやけに心地いい。

「袖振り合うも多生の縁」。バックパックで旅した私にも経験がある。旅が終われば二度と会うことはない、そんな人たちとのひと時の邂逅。それらは、後で思い出すとやたらにセンチメンタル。そして、彼らを思い出す時には、必ず出会った場所も同時に思い出す。哲平がサラを思い出す時、そこには必ずアメリカの大地のぬくもりが伴うだろう。舩橋監督は、アメリカで映画を学んだ方のようだが、アメリカに対する温かい目のようなものを私は感じた。

さて、白人の金髪女性とベッドシーンを演じられる日本人の俳優は、今のところオダギリジョーしかいないんじゃないでしょうか。渡辺謙や真田広之のような「私はニッポン代表です!」みたいな看板しょってる俳優はまず無理ではないかと。「ニッポン」という記号性と金髪美女の組み合わせは、どうしても滑稽に見えるんですよ、悲しいかな。でも、オダギリジョーの無国籍なイメージは、「ニッポン」という看板を観客に忘れさせる。これは、海外作品に出るにあたり、大きなメリットだと思う。ぜひまた海外作品にもチャレンジして欲しい。金髪美女を振り回すなんてカッコ良すぎるよ、オダギリくん。
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by galarina | 2007-11-18 22:16 | 映画(は行)

ブレイブワン

2007年/アメリカ・オーストラリア 監督/ニール・ジョーダン
<TOHOシネマズ二条にて鑑賞>

「痛みをわけあえぬ街」

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(ラストシーンについてふれていますのでご注意下さい)

愛する人がむごたらしい暴力によって奪われた時、残された者はどうすればいい。悲しいけど、法に任せるしかない。それが、常識というやつだ。相手が少年であろうが、殺人快楽者であろうが、被害者家族は法に任せるしかない。しかし、残された者のやりきれなさは、一体どこに向ければいい。そんな映画が増えている。先日見た邦画「誰がために」もそうだった。ひと昔前までは、殺人事件は怨恨が多かった。でも、テロや無差別殺人が増えた現代、「やられたら、やり返す」その矛先を一体どこに向けるのかすら、わからなくなってきている。この作品は、そのもやもやした気持ちに鋭く食い込んでくる。

しかし、やりきれなさに満ちた作品なのに、実に静謐で知的な雰囲気が作品を包み込んでいる。それは、エリカが読み上げる詩の朗読シーンのせいだ。映画は、冒頭エリカの朗読からスタートする。そこで語られるのは、我が街ニューヨークへの愛だ。そして、事件以降、エリカが紡ぎだす物語は一変する。ニューヨークで生きることの生き難さと恐怖が切々と語られてゆくのだ。搾り出すようなエリカのハスキーボイスを通じて語られるこれら詩の一遍、一遍が深く心に刺さる。そして、ざわめく街の音を取り続けるエリカ。恐れながらも、街に寄り添おうという彼女の心情が切ない。全編通じて、ジョディ・フォスターの演技はすばらしかった。

本作を見て、911以降、復讐をテーマにした作品は、配役にナイーブにならざるを得ないのだなということも痛感した。殺す人間が黒人で、殺される人間が白人の場合。殺す人間がアラブ人で、殺されるのがアジア人の場合。どんな組み合わせにしようと、加害者と被害者であることに変わりはないのに、それぞれの立場がどのような人種かによって、そこに内包される問題が微妙に変わってきてしまうのだ。本作は、殺されるエリカの恋人をインド系アメリカ人と言う設定にしたのも、これらの人種的詮索を避けるためではないか、という気がしてならない。

さて、ラストの展開が賛否両論を巻き起こしている。しかし、私はこの結論は、どちらがいいか悪いかを論議するために提示されたものではないような気がしている。なぜなら、この結末の大きな鍵を握っているのは、エリカではなくマーサー刑事だからだ。正義感の強いマーサー刑事は、エリカを逮捕する決心を固めていた。しかし、土壇場になってあのような方法を選択したのはなぜか。映像を見たからだ。エリカとその恋人が残忍な仕打ちを受け、死ぬほどの暴行を受けた映像を。それで、刑事の決心は一気に翻ってしまった。

結局、人間とは弱い生き物なのだ。携帯画面を通じてマーサーは、エリカの痛みと恐怖を共有してしまった。つまり、当事者になってしまったのだ。だから、犯人を目の当たりにして復讐への本能が勝ってしまった。しかし一方、刑事の行動から痛みとは人と分かち合うことができるのだとは受け取れないだろうか。だからこそ、もしエリカがこんなに追い詰められるまでに、誰かとその痛みを分かち合えていたら、と思わずにはいられない。エリカは、劇中まるで天涯孤独のように描かれていて、肉親は全く出てこない。手を差し伸べようとする友人やアパートの隣人が出てくるがエリカはそれらの一切をはねのけてしまう。

また、エリカの痛みを分かち合える場所は、ニューヨークのどこにもなかった。警察署に出向いた被害者家族に、「お気の毒でした」とまるでロボットのように言い続ける受付の担当官のシーンが印象的に浮かんでくる。しかし、愛犬を取り戻し、全てを話せるマーサーという男を得た今、エリカはもう二度と復讐という舞台には戻らない。私はそう思う。
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by galarina | 2007-11-12 22:44 | 映画(は行)

ピンポン

2002年/日本 監督/曽利文彦 

「みんな、みんな、輝いている」

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マンガ的キャラの弾けっぷりとガンガンに攻め立てるノリの良さに反して感じるこの切なさは何だろう。「あんな時もあった」…誰もが感じる青春の輝かしい時。それを我が身に置き換えているからだろうか。もちろん、それもある。しかし、理由は他にある。それは、全ての役者たちがみんな輝いているからだ。まぶしいくらいに輝いているから、切ない。

20代の役者としての輝きは、ある意味その役者人生の中で最も美しい時代と言えるのではないか。窪塚洋介の役者としての資質は変わっていないけど、もうあのペコを演じることはきっとできない。中村獅童も、大倉孝二 も、ARATAも。この作品は、彼ら若手の役者陣がいちばん輝いていた時と見事に一致した。その偶然性が奇妙なノスタルジーを呼び起こす。

ペコ演じる窪塚洋介のすさまじいまでのパワーが他の役者陣を引っ張っていく。「俺も乗せてくれ」ドラゴンのセリフは、この作品そのものにも通じる。みんな窪塚洋介に乗って、高く高く飛んだのだ。今にも暴走しそうな役者陣をまとめあげ、スピード感いっぱいの演出と、迫力あるVFXを駆使した曽利監督の手腕はお見事。それぞれの名前からシンボライズした星と月のアイコンの使い方もカッコイイし、SUPARCARの音楽も最高にイカしてる。乱立する漫画の映画化作品の中で、間違いなく抜きんでた1本だと思う。
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by galarina | 2007-11-08 23:28 | 映画(は行)

ヘアスプレー

2007年/アメリカ 監督/アダム・シャンクマン
<梅田ピカデリーにて鑑賞>

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見終わってこんなにポジティブな気持ちになった作品は久しぶり!まあ、トレーシーのなりふり構わぬ一直線な行動は、人種問題という側面から見れば、なんなりと突っ込める部分はあるのだけれど、それをこの作品でとやかく言うのは野暮というもの。正直で明るくていつも前向きなトレーシーに、みんな乗っかっちゃって、楽しく弾けましょう。

「ボーダーを超える」ということがテーマでありますが、「コーニー・コリンズ・ショー」のダンスシーンで、まさに白人と黒人の間にロープが引かれており(これまた、ものすごいあからさまでビックリするんだけど)、ここをトレーシーがいとも簡単に黒人の男の子と手を取り合って超えていってしまう。このわかりやすさがいいのよね。観客の性別や年代に関わらず、全ての人がトレーシーがやろうとしていることに共感できるようになっている。もちろん、音楽のパワフルさも手伝って、2時間があっという間。

実は、ワタクシこの作品何の事前情報も持たずに見に行ったもんで、音楽はもっと60年代の白人音楽が中心だと思ってたのね。そしたら、次から次へと繰り出されるブラック・ミュージックに踊り出したくなりました。しかも、あまりにもあからさまな黒人差別を目の当たりにして、こういうことがつい40年前まであったんだな、と思うと、音楽の弾けっぷりとは相反して妙にしんみりしてしまうことも。例えば劇中、黒人を呼ぶときはほとんど「ニグロ」という言葉が使われていて、それはおそらく当時としては当たり前だったんだろうけど、今ではその言葉は差別語であるわけで、そういう「当たり前な差別」がたくさん出てくる。

さて、1962年代のボルチモアが舞台。奇しくも私が夢中になった「ドリーム・ガールズ」と全く同じ年代。なので、「ドリーム・ガールズ」と表裏の存在としても本作は楽しめると思います。「ドリーム・ガールズ」は、出演者は全て黒人。「白人ウケ」するための音楽作りが対立の火種になっていて、黒人音楽は白人にパクられている。一方、「ヘアスプレー」は、白人トレーシーが黒人のダンスを取り入れようとするし、白人3人娘の歌を黒人3人娘がカヴァーして、プロデューサーベルマが抗議する。

いずれも白人と黒人のカルチャーが交錯しようとする摩擦を描いているんだけども、誰の視点で語るかによって、こうも浮き彫りになる問題は違うものかと興味深い。また、デトロイトとボルチモアという舞台の違いももちろんあるわけで、同じ年なのに起きていることがこうも違うなんて、アメリカってつくづく広い国だなと思った。

女装のトラボルタは、最後にオイシイところを持っていっちゃって、なかなか引き受けなかったというミュージカルの仕事をやった甲斐がありました。主役のニッキー・ブロンスキーは、まあダンスがパワフルだし、歌も上手いし、ジェニファー・ハドソン同様、オーディションでこういう人材がザックザックと出てくるアメリカってすげえや、と素直に感心したのであります。
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by galarina | 2007-10-30 23:13 | 映画(は行)

PERFECT BLUE

1997年/日本 監督/今敏


「アニメの扉が全開、とまでは行かないが…」


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「パプリカ」が面白かったので、借りてみましたが、結構本格的なサイコ・サスペンス。アニメとしては異色ですね。

元アイドルとオタク少年という設定に最初は引いちゃったんですけれども、主人公未麻がもう1人の自分にさいなまれるあたりからどんどん面白くなりました。「未麻自身が見ている妄想」と「連続殺人事件の犯人捜し」という2つの謎がどう絡み合ってくるのか、見ている側はいろんな推測ができるよう、様々な伏線が張られている。なかなかしっかりした脚本です。

中でも秀逸なのは、未麻が部屋で覚醒する一連のシークエンス。今見た悪夢は「夢」なのか、それとも「現実」なのか。しかも、気づくとベッドの上だったと言う同じシチュエーションを繰り返し使用することで、「夢の中の夢」という入れ子構造とも解釈できるよう作ってある。また、未麻が出演しているドラマのストーリーと現実に起きていることが非常に似通っていており、様々なエピソードの境目がどんどん曖昧になっていく。そのことで、未麻は妄想を見ているのか、それとも多重人格者なのか、はたまた誰かが彼女に罠をしかけているのか…私の妄想もどんどん膨らむ。見ながら真相を推測するのは、この手の映画のいちばんの醍醐味。存分に楽しませてもらいました。

元アイドルが主人公となると、実写で作ればすごく安っぽい仕上がりになってしまいそうな気がします。「着信アリ」とか「オトシモノ」とか、その手のジャンルがありますね。だから、むしろアニメで良かったのかも知れません。今敏監督の作風なのか、やけに落ち着いたムードがあって、アキバ系のテイストをうまく抑えています。そうそう、未麻がパソコンを始めるってんで買ってきた初期のmacがやけに懐かしかった。そして、この手の作品はイヤっていう程観ているのに、ラストはコロッと騙されました。それはつまり、サスペンスとしては十分面白かったということです。
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by galarina | 2007-10-25 23:17 | 映画(は行)

パプリカ

2006年/日本 監督/今敏

「これでアニメ嫌い、返上かも!?」

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すごく、面白かった!筒井康隆の原作も大好きで、当時めったに買わない分厚いハードカバーを購入。手当たり次第、友人に「面白いから読んで~」と渡しているうちに、どっかへ行ったっきりなの。しゃーない、もう一回買うか。

私はアニメが好きではなく、いや、もう堂々と言うか。私はアニメが嫌いなんだけども、「アニメでないと表現できない世界があるでしょ?」と言われることにひどく嫌悪感を覚える。そうかあ~?と思う。だって、映像のイマジネーションというのは、実に豊かで無限のものだと思っているから。実写じゃ表現できないからアニメという手っ取り早い手法に逃げてるんじゃないの?と思ったりする。だって、アニメなら何でもできるもん。他にも嫌いな理由はある。その一つは「時をかける少女」で書きました。

そんなアニメ嫌いの私がおそるおそる手にとってみたわけですが、ガツンとやられました。単純に面白かったです。そして、大人をターゲットとして作られているのが気持ちよかった。まあ、そもそも精神世界ものが好きって言うのもあるんだけど。

狂喜乱舞のパレードが圧巻。こればかりは「アニメでないと表現できない世界」と言われても素直に納得。日本人形と西洋人形など、西洋と東洋の文化や宗教を夢の中でぐっちゃぐっちゃにして見せる。誇大妄想患者の夢=万能感ですから、世界の神様、または聖なる物のシンボルがたくさん出てきましたね。大黒様に仏陀にマリア…。これらの神的シンボルに狂って行進させるセンスと度胸が私は大好き。

そして、90分という短さなのに、非常に「間」が多い。それは、会話のシーンにほとんど限られているのだけど、例えばパプリカが粉川刑事に話しかける。そして、粉川刑事の顔が全く動かず、2秒ほどあって、話し始める。そういうシーンがあちこちで見られます。この「間」によって、作品に落ち着きが出ている。パプリカのコスプレばりの冒険の賑やかさと実にいい対比を作っています。

また、物語をかなり削ぎ落として見せている。セラピーマシーンのこととか、夢分析にまつわる専門的なことを説明するようなシーンは一切ない。いきなり本題に入っている。説明過多にせずばさっと切り捨てて、サッサと物語を進めているのがとても小気味いいです。そして、何より説教くさくないのがいい!

まさか、アニメ作品で「間」を語れるなんて思わなかったなあ。今敏監督の他の作品も観てみようと思います。アニメの扉がちょっと開いたかな?
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by galarina | 2007-10-16 23:12 | 映画(は行)