「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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カテゴリ:映画(は行)( 113 )

ブーリン家の姉妹

2008年/アメリカ・イギリス 監督/ ジャスティン・チャドウィック
<TOHOシネマズ梅田にて鑑賞>

「ため息のDNA」

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タイトルが「ブーリン家の姉妹」ですので、ひとりの男を奪い合う姉妹の確執にとことんスポットが当てられています。ですので、史実をひねり過ぎはないかとか、王様は政治もせんと女のことで頭がいっぱいすぎる、と言った突っ込みどころは満載なのです。それでも、ある程度は歴史的に間違いないのですから、このドロドロ劇をとことん堪能しようではありませんか。本当のところは、もっと悲惨な物語が隠されているようですし。

多くの方が連想されたように、観賞後私も「大奥」を思い出しました。政治の道具として利用される女性たちの波瀾万丈な生き様。その人間性などまるで無視されたようなひどい扱いぶりに同性として腹立たしい思いでいっぱいになる。ところが一方で、誰が生き残るのか一寸先は闇というサバイバルゲームをワイドショー感覚で楽しんでいる自分がいる。そんな自分に嫌悪感を感じたりもして。結構、この手の作品って、「かわいそう」と「オモロイ」のアンビバレンツに悶え苦しむのです。これは、きっと女性特有の感覚でしょうね。

そして、生まれた赤ん坊が「女の子」であった時の静寂。喜ぶ者はひとりもいない。無音のスクリーン。でも、私にはため息が聞こえるのです。女で残念、と言う皆々のため息が。命の誕生。それは、最も喜ばしき瞬間。なのに、女はこうして何世紀もの間、女で残念という刻印をDNAに刻み込まれ続けてきているように感じて居たたまれなくなる。だから、晩年のメアリーは幸福に過ごした、というラストのナレーションにも安堵感を感じるどころか、ごまかしのように聞こえる。やっぱり、この手の作品を見ると、女性として賢く生きるって、なんだ?と思わされるのです。だって、男性として賢く生きる、という文脈は存在しないでしょう?

さて、作品に戻って。フランス帰りで洗練されたというアンが、「あんま、変わってないやん」というところがちょっと残念。史実では6年も待たせたんですってね。だったら、なおさら変身ぶりを見せて欲しかったなあ。宮殿もセットを組んだということですし、衣装も豪華絢爛。歴史大作としてのスケール感はかなり堪能できました。女性が頭にかぶっている、顔を五角形の鋲なようなもので覆うアレはなんというのでしょうかね。既婚者がかぶるものでしょうか、ずいぶんイカツイ。フランス王朝のロココファッションは、もっと軽やかで優雅なんですけど、そういう違いも面白かった。

それにしても、やっぱりイギリスは階級社会。「大奥」ならどんなに身分が低かろうと男の子さえ生めば安泰なのに、正式な王位継承者でなければ私生児でしょ。アンにしてもメアリーにしても、王を取り巻く貴族たちが出世するための道具。「大奥」でも男たちの出世のためにという背景はあるけど、「大奥」という箱は与えられているので、案外日本の方が環境は上かもと思わされます。だって、アンの最期はとても壮絶なんですもん。「エリザベス」及び「ゴールデン・エイジ」が未見なので、基礎知識ができたことだし、見てみようと思います。
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by galarina | 2008-11-05 15:07 | 映画(は行)

飛行士の妻

エリック・ロメールって、とても好きな監督。特にちょっとした男女のすれ違いをベースにしている昔の作品群は、物語として大したことは何も起きないのに、どうしてこんなに面白いのと思えちゃう。ロメールは「○○シリーズ」と称して、連作を撮ることが多い。私の一番のお気に入りは春・夏・秋・冬にちなんだタイトルがついた四季シリーズだけども、今回は「喜劇と格言劇集」。これまでバラバラに見ていたので、最初から順番に見てみる。

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1980年/フランス 監督/エリック・ロメール
<1つめの格言:人は何も考えずにはいられない>
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「アパルトマンでの饒舌な長回し」

夜郵便局でバイトをしているフランソワは、夜勤明けに年上の恋人アンヌを訪ねるとアパートから男が出てくるのを見てしまう。アンヌは浮気をしていると思い込み、しつこい電話作戦、待ち伏せ作戦に出るけど、アンヌが逆ギレ。たまたま、同じバスで件の男を見つけ、今度は尾行作戦に出るのだけど、なぜか自分が尾行されているとこれまた勘違いした少女に付きまとわれてしまう…。ロメールの映画って、こうやってストーリーを書くと、ほんと大したことないんだなあ(笑)。こんな物語のどこが面白いの?って感じでしょ。

年下で学生のフランソワは年上の彼女アンヌに対して、いろいろとひけめを感じている。それが、余計にいらぬ疑念をよんでしまうんだけど、彼のその若さゆえの直情的な行動をカワイイと思えるか、うっとおしいと思えるか、見る人によってそれぞれでしょうね。正直、私はこの子ウザいな(笑)。

勘違いが勘違いをよんで、なぜか浮気相手でもない男を、なぜか偶然出会った少女と尾行するはめに陥る。このどんどんズレていく感じは、見ていてとっても楽しい。「私をつけてたんでしょ?」「違うよぉ~」という誤解から始まり、最終的にはカフェで恋の相談に。で、この間、フランソワと少女リシューはのべつまくなしにたわいもないことを喋り続ける。この「たわいもない」おしゃべりの楽しさがポイント。全然、中身のない会話で、ただおしゃべりしてるだけで、これだけ間を持たせられるっていうのは、すごいテクニックだと思う。それは、セリフの間とかテンポが良いこと、ふたりの会話がとても自然なこと、尾行しているハラハラ感がちょっとしたアクセントになってること。いろんな要素が溶け合ってるんです。

公園での長い尾行が終わり、ラストはアンヌの部屋。真偽を問い糾そうとするフランソワに、頼むから帰ってくれと懇願するアンヌ。この辺りからカメラは嘆き、怒り、涙するアンヌを延々と撮り続ける。一体、何分ぐらいあるでしょう。10分はゆうに超えてると思います。でも、全然空気がだれないってのが凄い。

長回しって、視点をある程度の時間固定することによって、観客がまるでその場にいるかのような錯覚を持たせる効果があると思います。でも、そこにちょっとでも不自然な雰囲気が漂うと、途端に居心地が悪くなる。例えば、先日見た「ぐるりのこと」でも、今日はセックスをする気がしない、いやしなくちゃいけないと、夫婦が何ともくだらん会話を部屋で延々とする長回しがありました。これも、やってることは同じなんですよね。だけど、こっちは見てていいかげん、カメラ切り替わんないかな、なんて思っちゃった。

本作の場合、部屋のベッドに下着姿でぺたりと座りこむアンヌという、実にミニマムな構図。このスクリーン上に余計な物が何もないって言うのがいいんでしょうね。元カレに決定的な別れをつげられ、年下の男にはいらぬ嫌疑をかけられ、くたくたになったアンヌから発せられる泣き言にじいっと耳を傾けてしまう。この繰り言は本当に脚本に書かれたセリフなんだろうか、と疑ってしまう。また、ロメールはパリらしい小さいアパルトマンの部屋の中のシーンというのがとても多くて、よくこんな狭い空間で面白い映像が撮れるもんだなあと感心してしまうのです。
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by galarina | 2008-10-20 16:54 | 映画(は行)

ホテル・ルワンダ

2004年/イギリス・イタリア・南アフリカ 監督/テリー・ジョージ

「究極の選択」

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ヨーロッパ人が統治しやすいようにと勝手に振り分けられた「ツチ族」と「フツ族」。第三者の目から見れば、不条理極まりない闘争も、いったん火が付けば、誰もが当事者となり、己の名誉や欲のために、敵を殺すしか道はなくなるのか。同じ人種でも、いがみ合い、殺し合う悲しさ。そして、間に入れど手をこまねいているしかない国連軍。彼らの姿に何もできない自分をつい重ねてしまいます。そんな無力感が増せば増すほど、自分のふがいなさに打ちのめされる。それが昨今の戦争映画で味わう苦々しさです。

ところが、ポールという人の生き方については、深く考えさせられました。ポールはヒーローになりたくてあのように行動したわけでもないし、根っからの善人であったわけでもない。そこにこの作品の見どころがあるという意見には私も賛成します。しかしながら、もう一歩踏み込んで、ポールは常に「Aを取るか」「Bを取るか」という二者択一の場面で、「私」よりも「公」を、「利己」より「利他」を選択します。そこに私は深く感動しました。ただひとりのちっぽけな人間の選択。それは、私にもできる選択。しかし、あの究極の局面でそれが私にできるだろうか、と。また、ホテルの支配人として培った交渉術、人の扱い方が随所で活きてくるのですが、これもまた然りです。窮地に陥った時に我が身を守るための何かを自分は身につけているだろうか、と。

図らずも紛争に巻き込まれてしまった普通の男の物語という様相を呈しつつも、究極の選択をあなたはできるか、と問いかけられているような気持ちになりました。己の選択に慌てふためくでもない、悦に入るでもない、等身大のポールを演じるドン・チーゲルも光ります。いい作品です。
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by galarina | 2008-10-08 16:36 | 映画(は行)

ヒロシマナガサキ

2005年/アメリカ映画 監督/スティーブン・オカザキ

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世界で唯一の被爆国、日本が当たり前にしなければならないことが、全くできないでいる。本作を見て、まずそのことを痛感しました。その虚しい現実に打ちのめされそうになりました。原爆の経験と歴史を伝えられるのは、日本人にしかできないのに、もはや伝えることができる人たちがこの世から消え去ろうとしているのです。

痛みを共有することが難しい世の中になりました。感情的な発言はすぐ槍玉にあげられ、相手の立場に立つ前に自己主張ばかりする。世の中はいつからこんなに乾いてしまったのかと虚しい気持ちになることが増えました。それでも、映像の力は偉大です。被爆者たちの証言の生々しさ、その圧倒的にリアルな言葉は観る者の胸を打ちます。

被爆した日本女性がアメリカに渡り無償の治療を受けていた。それをテレビ番組で放映し、被爆した日本人牧師とエノラゲイの乗組員を握手させる。アメリカ的プロパガンダに辟易しつつも、全ての歴史は発信する者、受け止める者によって、さまざまな解釈が可能であり、一面をもって語ることができないことは重々承知。その事実を知ることから、全てはスタートするのです。ですから、本作で初めて見る映像の数々は、全て私にとって実に貴重な経験でした。

なぜ日本の中学校や高校は修学旅行で広島や長崎に行かないのでしょう。なぜ日本は平和教育にもっと力を入れないのでしょう。もしこの映画を全国の中高生に見てもらう運動をしたら、思いもよらない団体から圧力でもかかってしまうのでしょうか。今すぐ始められること、たとえそれがごくごく小さな一歩でも始めなければ、とりかえしのつかないことになってしまうのでは。ひとりでも多くの日本人に見ていただきたい作品です。
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by galarina | 2008-09-14 00:09 | 映画(は行)

フリージア

2006年/日本 監督/熊切和嘉

「いつ、どこか、わからない場所」
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犯罪被害者が加害者を処刑することができる“敵討ち法”が存在する近未来の日本を舞台に、感情を失い機械のように任務を果たすプロの執行代理人が、過去のある事件でつながった宿命の相手と対決するさまを描く。

近未来の日本という設定ですが、全然未来っぽくないんですよね。昔ながらの建物もあるし、すごい車やロボットが出てくるとか、一切なし。片や、映像は一貫してセピアトーンで、銃で撃たれた時にぶしゅっと飛ぶ血にデジタル処理がされていたりして、スタイリッシュです。この無国籍で不思議な感じ、私は好きですね。

それに仇討ちが始まる前に周辺住民に一時避難を勧告するアナウンスが流れるのですが、これが小学校のグランドに流れる校内放送みたいでね。人殺しがあるから、よい子の皆さんは逃げなさい、とでもいいたげな感じ。不気味です。この避難勧告シーンが私は気に入りました。

ひどいトラウマによって痛みを感じなくなってしまった男が主人公ですが、人間ドラマとしてのうねりみたいなものは、熊切監督は敢えてそんなにフォーカスさせようしていないのではないか、と私は感じました。2時間の物語の集結として、トラウマを乗り越えるという結論にはしているけれどもね。仇討ち、凍る子供、痛みを感じない、狂ったように銃を撃つ…。これらの漫画から想起されるイメージを熊切監督流に料理したと言う感じでしょうか。冷たくて、暗くて、感情のない世界、私たちがすぐにイメージすることの難しい、日本のどこでもない場所。この舞台こそが主人公に思えましたし、甘っちょろさ皆無の無慈悲な感じが、熊切監督らしくて好きです。これは、感覚的な好き嫌いが別れる映画かも。
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by galarina | 2008-09-11 23:26 | 映画(は行)

フランドル

2005年/フランス 監督/サミュエル・ボワダン ブリュノ・デュモン
<2006年カンヌ映画祭グランプリ受賞作>

「もう少しの我慢、もう少しの我慢で終了」

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フランス最北部、フランドル地方の小さな村。少女バルブは、村の男たちとセックスを重ねている。やがて男たちは次々と戦争に召集され、どことも知れない戦場へと送られた。男たちが戦場で残忍行為を繰り返すにつれ、故郷に残るバルブの精神は日に日にバランスを失っていく…。

前半部が苦痛を伴うほど退屈。寒々しいフランドルの自然を捉えたショットは、この地方に住む人々の寂寥感を見事に表現している。これらのショットには、絵画を鑑賞するような味わい深さが確かにある。屹立する木々を捉えたショットは、ゴッホの「糸杉のある道」を思い出させる。しかし、見事ではあっても、そして美しくはあっても、スクリーンに引きつけられるような感覚には、残念ながら陥らなかった。というのも、彼女をまるで欲望処理機のごとく扱う男どもが見るに堪えない。そして、誰と寝ようが空虚な眼差しのバルブ。このあまりにも乾いた男女関係に、一体何を見いだせばいいというのか。

後半部、戦場で残忍な行為を繰り返す男たちの心がすさんでいくのに呼応するかのように、バルブは精神を病んでいく。たまったもんじゃない。バルブは、肉体的にも、精神的にも男たちのはけ口。戦場で多数の男に強姦された女性も、たとえその男たちが仲間から処刑されたって救われない。ああ、神様。平穏の時も、極限の時も、剥き出しにされる男たちの獣性に鉄槌をくだしてください。これは、そうやって、神に祈らせるための映画なんだろうか。確かに戦争の痛みを描いた作品。しかし、あまりに静かすぎるその筆致に、一握りの怒りも憐憫も感じることができなかった。何度も停止ボタンを押しかけた91分。
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by galarina | 2008-09-09 00:20 | 映画(は行)

ハンコック

2008年/アメリカ 監督/ピーター・バーグ

「鮮やかな転調」

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今流行りの悩めるヒーローものから、どれほど個性的なものに仕上がっているのかをポイントに観賞。何の予備知識もなく見た方が面白いという周囲の声に従いましたが、これネタバレしたら、面白いこと何にもなくなりますやん!と、いうわけでとっても感想の書きづらい作品です。

まさしく、ネタバレできない後半への物語の転調ぶりが実に鮮やかです。これが、この作品の一番いいところですね。ええっ?と思っている間にあれよあれよと、全く違う物語が始まる。強大なパワーゆえに嫌われ者になっているハンコックですが、彼の投げやりな言動は、記憶喪失の天涯孤独な身の上から来ています。その彼の孤独感が、この転調を境に浮き彫りになっていきます。

それでもかなり荒唐無稽で、説明不足な感もあるのは事実。そこは敢えて語らず90何分にまとめあげることを優先したのかなという気がします。コンパクトに仕上げることを、優先した、というのは、それはそれでアリな感じもします。説明不足によるモヤモヤ感もハンコック演じるウィル・スミスの孤独感がきちんと伝えられていたので、あまり気にはなりませんでしたね。むしろ、彼の取った選択にちょっと胸を締め付けられたりして、うるっときそうになりました。

ただ、カメラがぐらぐらと揺れるのが終始気になりました。冒頭のベンチのシーンは、ハンコックがアル中だから、彼の目線を描写しているんだろうと理解できます。それでも、大きなスクリーンに映るアップの顔がぐらぐらと揺れているというのは、気分的に耐え難いのです。映像関係のお仕事の方にお尋ねしたところ、これはステディカムではないかとのこと。やはり、アクションシーンでなく、人を映す時はカメラは固定して欲しいと思う、旧型人間なのであります。

さてさて、明かされた秘密の件ですが、これは突っ込めば突っ込むほど、宗教的な世界観が絡んできそうです。本作では、突っ込めるほど明らかになっていないので、何とも言いようがありませんが、この隠し具合はどうやら「ハンコック2」を作ろうという製作者側の意図が見えます。そうなった時に、しっかりと世界観が構築できるのかというのがポイントになると思います。私は、アダムとイブの物語なのかな、と思っているのですが。あっ、ネタバレ?
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by galarina | 2008-09-08 21:10 | 映画(は行)
2007年/ブラジル 監督/ブレノ・シウヴェイラ

「私だって、できることなら夢を子供に託してみたい」

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息子たちは一方的に音楽をフランシスコから強要されていたのだろうか。私には、とてもそうは思えなかった。音楽は、家族の夢であり、愛であり、潤滑油だった。ありったけの作物や父の形見と交換して、アコーディオンとギターを購入したフランシスコに妻は一度は眉をひそめたけれども、彼のその一途な思いがただの我が儘などではないことを悟っていたように思う。フランシスコは、生涯を通じて「音楽」という贈り物を子供たちに贈り続けたのだ。どん底まで貧しくなろうとパチパチと電気を付けたり消したりして無邪気に喜び、土地を手放した悲しみにくれることなく慣れない土木工事に取り組み、発売日の決まらぬ楽曲を同僚たちにも呼びかけ何度もラジオ局にリクエストし、そうやって彼は、いつも前向きに生きてきた。そんな父を喜ばせたいと思わない息子がいるだろうか。

あんなに音痴だった息子が少しずつ音楽の実力を身につけ、認められるようになる喜び。旅に出る息子を手放す寂しさ。家族の悲喜こもごもを描く前半部がとてもいい。一方、ミロズマルが成長してからを描く後半部は、実話ということもあり、スターになった彼の足跡を追っただけの感が強く、物語の深みにやや欠けるのが残念。

さて、本作のもう一つの楽しみ方。それは、鑑賞後、自分が誰の目線でこの物語を捉えたかを確認するということ。私は母親だけど、すっかりフランシスコ目線、つまり父親目線だった。しかし、他の方の感想を見るに、母親目線の方もいれば、子供目線の方もいるようだ。私自身は、先日見た「スクール・オブ・ロック」じゃないけど、大人ってもっと子供に体当たりで挑んでいかないといけないんじゃないかって、最近つくづくそう思ってる。だから、フランシスコがとことん彼らに情熱を傾けるその様が、それが時には思慮浅く見えようとも、何だか羨ましくて仕方なかった。実際の映像がかぶってくるエンディング。私には少々蛇足に思えた。だって、「僕が旅立つ日」を歌った切ない歌詞の楽曲がとてもすばらしくて、あの切ない旋律にしばし浸っていたかったんだもの。
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by galarina | 2008-08-27 17:17 | 映画(は行)

バットマンビギンズ

2005年/アメリカ 監督/クリストファー・ノーラン

「ノーラン監督の才気冴え渡る」
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「バットマン」に関する知識が皆無なので「ダークナイト」観賞の前に予習のつもりで見ましたが、鑑賞後呆気にとられて言葉が出ませんでした。「スパイダーマン」と比較して語るような作品ではないですね。まるで、土俵が違う。完全に大人向け。ヒーローが悪を滅ぼす爽快さを完璧に捨てているのが見事です。

アメコミという非現実的なる世界をこれだけ重厚感溢れる世界観でがっちりと固めたクリストファー・ノーランの才能には惚れ惚れします。飛び道具のようなメカもたくさん出てきますが、その凄さを敢えて強調していない。例えば、スパイダーマンの場合、手の先から蜘蛛の糸がシュッと出る、その面白さをさらにCGで凄さ倍増にして見せる。それがビルの谷間を飛び回る映像になるわけですが、バットマンは違います。例えば、彼は空を飛ぶのですから、救助した人間を抱えて夜空を猛スピードで飛び回る映像なんかも作れるわけです。これだけ、CG技術が進んでいるのですから、何でもやり放題のはずです。でも、敢えてそれをしていない。新しいメカをどんどん身につけていきますが、実に淡々としたものです。つまり、この作品には、カタルシスがない。「飛んだ!」とか「やっつけた!」とか、観客のストレスを発散させたり、溜飲を下げるような演出がほとんどない。

確かに昨今のこのジャンルの作品は、どんどんダークな傾向にあります。しかし、それでも映画を見てスカッとしたいと言うのは、最低限のお約束だったはず。そこを、きっぱりとノーラン監督は撥ね付けた。この、その場限りの爽快感を切り捨てたおかげで、際立ってくるのはバットマンの苦悩や不気味な終末世界です。もちろん、お約束の復讐か自己満足か、というテーゼは出てきますが、むしろ私がこの作品から感じるのは、割り切れなさ、と言ったものでしょうか。バットマンが選んだ道が正義と言えるのかどうかわからない、という曖昧なエンディングも含め、全てにおいて白黒がつきません。まるで、答を出すのを放棄しているかのようです。彼の正体を知ったレイチェルの反応も、好きか嫌いか、彼と縁を切るのか切らないのか、全く釈然としません。

従来のヒーローは、人間関係において必ず頂点の存在でした。しかし、本作では他の登場人物と横並びな感じです。脇の役者が素晴らしくいいのです。マイケル・ケイン、リーアム・ニーソン、モーガン・フリーマン、ゲイリー・オールドマン、キリアン・マーフィ。この5人の役者がそれぞれの持ち味をしっかりと出しながら、かつ突出せず素晴らしいバランスを保っています。主役を務めたクリスチャン・ベイルのニヒリスティックな佇まいも非常に良い。

カタルシスもなければ、明快さもなく、重低音ウーハーの響きがずしんずしんと地鳴りのように鳴り続けているような雰囲気。アメコミ物の枠組みをつぶさんとするようなノーラン監督のチャレンジ精神に感動しました。「ダークナイト」が実に楽しみです。
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by galarina | 2008-08-14 18:30 | 映画(は行)
2005年/アメリカ 監督/デビッド・クローネンバーグ

「暴力と平穏のボーダーラインは存在しない」

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主演も同じヴィゴ・モーテンセン、テーマも同じ暴力。というわけで、新作「イースタン・プロミス」の前に予習観賞。

この「ヒストリー」と言うのは、歴史より履歴の意味が強いようですね。ある意味「歴史」と言うのは、いろんな解釈が可能であったり、歪曲して伝えることができるシロモノですが、「履歴」となるとそうはいかない、ということでしょう。暴力の権化みたいだったトムがいくら普通の生活を送ろうとしても、暴力の履歴は消えることがない。ただ、クローネンバーグは、トムと言う男をまるでジキルとハイドのように描いてはいないし、暴力と平穏を対立軸として描いてはいない。そこんところが、実に興味深いのです。

象徴的なのは、一番最初にマフィアが尋ねてきた時、「おまえらなんか知らない」というトムの反応。あれは、本当に知らないという反応に見える演出でした。私自身マフィアが人違いしているのかと、途中まで本気で思ってましたから。彼は巧みに2つの人格を使い分けしているわけでは決してない。どこからどこまでがトムで、どこからどこまでがジョーイなのか、というきちっとしたボーダーラインは存在しない。白から黒へのグラデーションのように、曖昧な部分が存在している。その曖昧の存在は、トムという男だけにあるのではなく、我々社会もそうであるということのように思えるのです。

かつては、危ないエリア、例えばニューヨークならブロンクス、といった具合に「ここから向こうへ行ってはいけない」というボーダーラインが存在しましたが、今は都会のど真ん中で、のほほんと電車に乗っていても、刃物で斬りつけられる。そんな時代を見事に映し出していると思います。いつもは臆病な息子が、銃をぶっぱなしてしまうことも。

面白いことに、鑑賞後初期の北野作品を思い出しました。にこやかないいお父ちゃんがふとしたことでビール瓶を振り回す凶暴性を見せたり、子どもの野球バットが凶器になったり。暴力と平穏は、北野作品でも決して表裏の関係ではなく、互いに溶け合って存在する曖昧さを見せています。北野作品の場合、あの独特の「間」によって、見る人を選んでしまいますが、クローネンバーグの場合は、すっかり円熟味も増して、奇才と呼ばれた頃の観る者を選ぶようなエログロな作風は、やや成りを潜めています。しかし、らしさが失われたと言うわけでは決してなく、還暦を過ぎても絶好調という感じです。
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by galarina | 2008-07-30 15:18 | 映画(は行)