「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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カテゴリ:映画(さ行)( 86 )

2002年/アメリカ 監督/ウディ・アレン

「元祖ダメ男、ウディの面目躍如」

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アカデミー賞受賞監督のヴァルは、今ではすっかり落ちぶれてしまい神経症まで患っている。ところが、元妻のコネでハリウッド大作のオファーが彼の元にやってくる。意気揚々と撮影に臨もうとするが当日、なんとストレスから目が見えなくなってしまう…。

最近、「ダメ男」の作品ばっかりレビュー書いてるような気がするんですが、よく考えてみればこの人こそ、元祖「ダメ男」でした。昔の女のことを、いつまでもうじうじと引きずっていて、どうしようもありません。そこが、カワイイと思えるのか!?これまた、思えるんですねえ、悲しいことに(笑)。

元カノとこれから作る映画について話をしているのに、なぜか途中で昔の浮気話に話が転換していく機関銃トークが、おかしくておかしくて。で、なぜか突然目が見えなくなって、映画を撮るなんて、もうハチャメチャもいいところです。コミュニケーションの断絶とか、そんな高尚なことを言いたいわけじゃない。ただもう、「ダメ男」がますます「ダメ男」になるのを、笑って楽しむ映画なのですよ。

ある意味、自分を中心に世界は回ってる映画なので、ウディのそのやり方がお気に召さない方が受け付けられないのは当然だと思います。だって、結局元カノだって、自分の所に戻ってくるわけですから、実に都合のいい展開。それでも、彼の破綻しまくりの機関銃トークは、ここまで来ると名人芸。やはり誰に真似できるわけでもありません。つまり「いつものあれ」を楽しむための映画。落語を聞きに寄席にいくような感覚に近いのかも。

それにしてもこの映画、目が見えない状況で撮影した映画がハリウッドでは酷評されるのだけど、フランスでは大受けというオチ。これって、どうなんでしょ。ハリウッドよりフランスの方が俺の味方だってことなのかしら。見ようによってはフランス人を馬鹿にしているとも言えませんか。試写室でヴァルが、こんな映画最低だってセリフがあるのに。よくわかんない映画をありがたがるフランス人って皮肉ってるのかしら。この結末だと、ハリウッドもフランスも敵に回しちゃうと思うんだけどなあ。
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by galarina | 2007-07-04 23:57 | 映画(さ行)

誘う女

1995年/アメリカ 監督/ガス・ヴァン・サント

「これある意味名演でしょ」
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子供の頃からスターになる事を夢みていたスザーン(ニコール・キッドマン)。地方のテレビ局で無理矢理お天気キャスターの座をゲットした彼女は、いつか自分はビッグになるんだと言う思い込みが増すばかり。しかし、目的達成のために夫が邪魔になることに気づいた彼女は、高校生の少年(ホアキン・フェニックス)をセックスの虜にしてそそのかし、夫を殺害することを思いつく…

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テレビに映らなきゃ生きてる意味がない。世界は私を中心に廻っている。誰かが不幸になったり困っても、それは一切私のせいではない。何人たりとも私にNOと言うことはできない。

スザーンは、自分が美しいのをわかっていて高慢ちきに振る舞っている高飛車オンナ、ではないですねえ…。恐らく彼女は精神科に行けば間違いなく立派な病名を頂くことができるでしょう。かなりの人格障害に間違いないですよ。私はそう感じた。そういう意味で、ニコールの演技力はたいしたもんだ!と感心しちゃいました。

ハリウッドの俳優で故意に太ったり痩せたりして肉体改造して役に成りきる人がいる。でも、ニコールの場合はそういうあざといことをせずに、彼女本来の恐ろしいほどの美しさをそのままに別人格になっている。この演技は、「アイ・アム・サム」のショーン・ペンなどで絶賛される類のものに匹敵すると思う私は、褒めすぎかしら?精神障害や知的障害の役に取り組むのと、ほとんど同レベルのチャレンジに見える。

で、アメリカ人のインタビューなんかを見ていると、「なんでそこまで自分に自信があるの!?」と、驚くことがよくある。先日も、「ドリーム・ガールズ」のDVDの特典映像を見ていたら、ビヨンセもジェニファーも口を揃えて「私には、この役をやり遂げる自信があったのよ!」と身振り手振りで答えている。

確かに成功者が述べれば説得力もあるだろうが、スザーンのような勘違い女が発言すれば、イタイことこの上ない。しかし、良くも悪くも「自信満々のアタシ」というのは、アメリカ人に顕著に見られるメンタリティだろうと思う。根拠がないのに自信だけあるとスザーンのような人間になってしまう。しかし、まず自分に自信を持て!というモチベーションのかけ方というのは、実にアメリカらしいやり方で、そういう意味ではこの映画もまた実にアメリカ的と言える。

それにしても、ニコールは役の選び方がひねくれてますねえ。もう少しわかりやすい感動作なんかに出演すれば、ファンの裾野は広がりそうなんだけど、敢えてしない。だって最新作「毛皮のエロス」はフリークスの撮影で有名になった伝説の写真家、ダイアン・アーバス。でも、私はこういうひねくれた役を選ぶ彼女が結構好き。(あっ、「奥さまは魔女」に出てたか(笑)。

スザーンという人物像も強烈ですが、彼女を通して、テレビというメディアをシニカルに描写するシーンがたくさん出てきます。確かにワイドショーネタのような話ですが、そこはガス・ヴァン・サント。きりっと冷ややかな演出が効いています。それにしても、リヴァーもホアキンも兄弟揃ってガス・ヴァン・サント作品では切ない役どころ。この頃のホアキンは今とは別人みたいだな…。で、この兄弟全然似てないよね。
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by galarina | 2007-06-27 23:40 | 映画(さ行)

細雪

1983年/日本 監督/市川崑

「女優を魅せる映画だが、真の主役は大阪弁」
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女優を見せる映画、というのがある。日本映画でのルーツにおいては、高峰秀子とか原節子などの往年の大女優を真っ先に述べるのが道筋なんだろうが、60年代生まれの私としては、スクリーンで映える日本の女優と言えば、岸恵子、岡田茉莉子、佐久間良子などが真っ先に思い浮かぶ。

というわけで、この細雪は、これでもかと私の大好きな女優陣を美しく魅せてくれる映画。女優を撮らせたら超一流の市川崑の面目躍如といったところ。着物を脱いだときの襟足、はだけた着物から覗く足首など、着物での立ち居振る舞いから日本女性の艶めかしさが匂い立つような映像が続く。そして、はっとしたり、振り返ったり、泣いたり、笑ったりする女優たちの顔、顔、顔…。どれもこれもが美しい。

冒頭、岸恵子のアップがあるのだが、まあ、その美しさにはオンナの私でもうっとり。これが、、市川流「女優真正面斬り」のカットで、とにかく正面斬りが次から次へと出てくる。

しかし、四姉妹の中で特に印象深いのは、つかみどころのない三女・雪子を演じる吉永小百合。姉の言うことなら何でも聞く大人しそうに見える女性だが、次から次へと湧いてくる見合い話にも一向に首を縦に振らない頑固さがある。また、おしとやかで潔癖に見えるのに、義理の兄の前で着物をはだけたりして無防備な一面もある、実にミステリアスな存在。清純そうな彼女が時折見せる微笑がやけにセクシー。吉永小百合という女優には、私は何の思い入れもないが、この作品は、とても良かった。もともと彼女が持っている清純さをうまく利用して、その裏にある物を引き出そうとした監督の手腕がうかがえる。

しかし、これほど女優陣の美しさが前面に出た映画でありながら、一番強く印象に残ったのが、実は大阪弁。大阪弁と言えば、今ではお笑いブームもあって「えげつない関西弁」というイメージが強いが、この船場の四姉妹が話す大阪弁の何と艶やかなこと。そのおっとりした語り口を聞いていると、京都弁かな?と一瞬思うこともある。

原作が谷崎なので、実は京都弁もまじっているのかも知れない。このあたり、厳密なところを突っつくと、怪しい部分もあるかも知れないが、生粋の大阪人である私でも、船場のええとこのお嬢さんがしゃべるおっとりした大阪弁は、すんなり耳に溶け込んできた。きっと、生粋の京都弁ならば、もっともっちゃりした(失礼^^)感じになるだろうし、京都弁独特の「~どす」という表現もなく、大阪弁として脚本は書かれていたと思う。

で、この大阪弁のニュアンスを楽しめるかどうかは、この映画の大きなポイントだと思う。雪子の結婚がようやくまとまりそうな予感を見せる「あの人ねばらはったなあ」「ん、ねばらはった」と言うおねえちゃんとなかんちゃんのラストの会話。「ねばった」という事実には、なかなか見合いを決めなかったことへの非難が込められているが「~しはった」という敬語がそれを和らげている。そして、「~しはったなあ」と感心していることで、ねばって意中の男を射止めたことを称えてもいるのだ。雪子の見合いに翻弄されてきたふたりの姉妹の悲喜こもごもが込められた、いかにも関西人らしい会話だと思う。

このように、「含み」を持たせた大阪弁がこの作品の中にはふんだんに盛り込まれていて、本家や分家という立場の違いで本音が言えない部分だとか、夫への文句を言いたいがストレートに言えない部分などで実に効果的に使われている。そして、その「含み」のあるのんびりした大阪弁が四姉妹そのものをも魅力的に見せている。生粋の大阪人である私も、あのような大阪弁をしゃべれば、「ちょっとは、おんならしい、見えるのんとちがうやろか」と思った次第。スローテンポ大阪弁、私も努力してやってみよ。
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by galarina | 2007-06-24 21:12 | 映画(さ行)

さよなら、みどりちゃん

2005年/日本 監督/古厩智之

「がんばれ、ゆうこ!」
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この際、正直にいいます。女はね、ダメな男に弱いの。ゆうこみたいな全くどうしようもない男が好きな女たちの群れは、確実にいるの。だから、この映画の人物は誰も悪くない。ゆうこと言う女の子がほんの少し、背伸びをする、ただそれだけの話。

ちっぽけな人間が小さな輪の中でいじいじいじいじ…。そういう物語が苦手な人にはオススメしません。私は、好きなんです。そういう、いじいじ、してるのが(笑)。だから、ゆうこができたほんの少しの背伸びにも「よくやった!」とポンポンと肩を叩いてやりたい。もちろん、この後ゆうこが変われたかどうかは、わかんないけど。

スナックでのゆうことヤンキーの会話など、とりとめのないシーンが実にリアル。「そうなんだ」「ふうん」みたいな何でもない会話と間延びした空気感。邦画の小さい映画にはよく見られる演出で、ものによっては嫌みを感じることがあるけど、この作品は大丈夫。この間延びした空気がユタカやゆうこのキャラにピッタリ合っている。

優柔不断な女の子「ゆうこ」を星野真里が好演。ぼんやりしたしゃべり方、あどけない仕草、頼りなげで男の言うままに動く都合のいい女。正直この手のキャラには、女の目は厳しいですよぉ。でも。星野真里は、不快感がない。等身大という言葉がまさにふさわしい。そして、西島クン…。もう反則でしょう。ここまでのダメ男をこんなにステキに演じちゃ、日本中ダメ男だらけになっちまうよぉーってくらい、いい味出してます。

最後の最後になって、ゆうこが意を決して行う愛の告白。それに対するユタカの反応が一番の見どころ。すさまじい「間」があります。この「間」を堪能してください。わたしゃ、ソファからずり落ちました。ゆうこには悪いけど爆笑。西島秀俊という俳優に興味のある女性なら、このシーンを見るだけでも見る価値アリ、です。

ラストシーン、ゆうこが歌うユーミンの「14番目の月」に何だか切なくなる。漫画にもこの歌が、挿入されているのかな?これ映画のオリジナルだとしたら、この選曲にはすごいセンスを感じる。見終わってからも、ずっと口ずさんじゃった。ダメ男に振り回されてる女の子は必見。
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by galarina | 2007-06-17 20:32 | 映画(さ行)
2005年/ドイツ 監督/マルク・ローテムンド

「正義のまなざし」
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ヒトラー政権下に反ヒトラーのビラを大学で配り、逮捕されたゾフィー。5日間の拘留と裁判の後、即刻死刑の判決を受け執行に至る。主演のユリア・イェンチの迫真の演技に息をのむ傑作。

「マグダレンの祈り」のバーナデッドが怒りのまなざしならば、本作のゾフィーは「正義のまなざし」。常に正面を見据え、視線をそらさず、背筋をぴんと伸ばして取調官を見つめるゾフィーの澄んだ目が実に印象的。あの瞳で見つめられたら、尋問官モーアの心が揺らぐのも当然にように思えます。

なぜゾフィーはあんなにも強い意志で自分の信念を押し通すことができたのだろうか。そのことを考えずにはいられません。モーアとのやりとりの中で時折手をさするゾフィー。そこには焦りや心の揺れが感じられます。しかし、彼女は最後まで毅然とした態度を崩すことはなかった。彼女の心の奥底に「戦争を終わらせなければいけない」という思いが強く強く根付いていた。そう思いたい。

99日間の猶予を与えられることなく、すぐに刑が執行されることを知り独房で声を荒げて咆哮するゾフィー。その姿に涙が止まらなかった。それまで、冷静な態度に徹していた彼女だったが、死を目の前に感情が堰を切ったようにあふれ出す。独房に響き渡る彼女の叫びを聞いて、心を揺さぶられぬ者などいるまい。一体、なぜナチはこんなにも急いで刑の執行を早めたのか。それは、彼女たち白バラの訴えが国民の心に行き渡ることを恐れたからに他ならない。

学内、取調室、拘置所とほぼ閉じられた空間だけで物語は進み、戦場は一切映らない戦争映画。しかし、戦争のむごさをこれほど感じた作品はありません。空から爆弾が落ちてきて逃げまどう人々を映すだけが戦争映画ではない。ほぼ半分を占めるモーアによるゾフィーの尋問も、ふたりの心の動きが実にスリリングに描かれ、緊張感に満ちています。

ゾフィーが冷静であればあるほど、ナチズムの雄叫びが負け犬の遠吠えのように聞こえる。何かを告発したり批判したりする時に、相手の愚かさを声高に叫ばずともこれほど抑えた演出で浮き彫りにすることができる。これぞ映画の力だと強く感じました。
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by galarina | 2007-06-13 22:57 | 映画(さ行)

その男、凶暴につき

1989年/日本 監督/北野武

「排除の美学の始まり」
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深作監督が急遽降板して…と言われている本作だけども、そこから一体どこまで北野色に変えることが可能だったのだろう。この徹底的に乾いた暴力描写と、物語の排除という北野スタイルがすでに本作で確立されているのを見るに北野武の中で作りたいものがくすぶり続けていたのは、間違いなかろうと思う。代打に備えて、十分にバットを振ってきたということだろうか。

まず主人公吾妻という人物に関しては、ほとんど詳細を語られることはない。しかし、静かな日常にもたらされる突発的な暴力を通して浮かび上がるのは吾妻の絶対的な孤独感である。また、サティの音楽に合わせて歩道橋を登ってくる吾妻の登場シーンが実に印象的。しかも、この登場シーンからすでに死の予感が漂っている。後輩の菊地がラストで同じように歩道橋を上がってきて、吾妻をオーバーラップさせる見せ方なんて、とても代打とは思えない旨さがある。

物語の排除の最たるものは吾妻の友人岩城が麻薬の密売人になったいきさつを全く見せないところだろう。その核心は、吾妻と岩城が喫茶店で話している姿をガラス越しに映す、という数秒のワンカットで過ぎ去る。警察内部に麻薬を回している人物がいること、しかもその張本人が主人公吾妻の友人であるという2点において、物語上大きな起伏が出る場面である。こういう物語のターニングポイントを、無言のワンカットで済ませてしまうという大胆ぶり。そして、続けて岩城の死体。岩城のいきさつが何も語られないからこそ、突如現れるこの「死」のイメージが強烈に刺さってくる。

この物語の排除というのは、「観客の想像にお任せします」という類のものとはまるで異質なものだろう。例えば、ラストを意味深なものにして後は「自分で考え、感じて欲しい」というシーンには作り手が観客に想像を委ねるという意図がある。しかし、北野武は浮かび上がらせたいイメージをより鮮烈に見せるために、物語を排除していく手法を使用しているのだと思う。そういうテクニックをすでに処女作で自分のものにしていることにも驚きだ。

そして、凶暴と言うよりも静けさの際だつ演出の中に、時に浮かび上がるホモセクシュアル的匂い。黒幕仁藤と仁藤のためなら何でもする殺し屋清弘との関係はもちろん、清弘と主人公吾妻においても追いつ追われつの関係性の中でふたりの魂は互いを惹きつけ合っていることを想像させる。もちろん感情的な演出は全くないため、そのような匂いをかぎ取る私の感じ方は監督の意図からは外れているのかもしれない。それでも、ストーリーとは別のイメージが自分のアンテナに引っかかってくるというのは、おそらく排除された物語を埋めながら映画を見ているからに他ならないからだと思う。

そして、この乾いた暴力描写は、近年多数公開されている韓国映画の暴力シーンに影響を与えているのは間違いなかろう。

このデビュー作において「お笑い芸人ビートたけしが作ったんだから、わかりやすい映画のはずだ」という人々の勝手な思いこみは根底から覆された。この時広がった拒否反応は未だにくすぶっている。「お笑いの人が作る映画=面白くてわかりやすい」という勝手な認識と「北野作品=わかりづらい映画」という後付けの認識がいつもねじれを起こしているように感じる。しかし我々は映画作家、北野武の作った映画をただ受け止めるだけだ。
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by galarina | 2007-05-31 23:06 | 映画(さ行)

サマリア

2004年/韓国 監督/キム・ギドク

「懐疑心を打ち砕くギドクの才気」
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<ヨジンとチェヨンは親友同士。2人でヨーロッパ旅行へ出るために、チェヨンが援助交際をし、ヨジンはそれを嫌いながらも、見張り役をしている。ある日、警察に踏み込まれたチェヨンは、いつもの笑顔を浮かべたまま、窓から飛び降りてしまい…>


少女の「性」に対して、独自の価値観を生み出す。その視点のオリジナリティはさすがギドク。もちろんその視点を快く受け入れられるか否かというのは別物だ。第一部「バスミルダ」において、少女チェヨンはセックスを通じて男たちに幸せを与えているのだと言う。そこに感じるのは買春する男たちの正当化である。男の考える勝手なロジックかよ、と嫌悪を抱き始めたら、なんとその少女は突然死ぬ。体を与えていた少女は罰を受けたのか、といったん考えを翻されたところで第二部「サマリア」が始まる。

すると次の少女は、体を与えた上にお金を返すという。友達を見殺しにした罪を売春することで償う。今度は体を与えることが償いになるんですね。おまけに買春した男に「感謝しています」と少女に言わせる。全くこの展開には参ります。体を与える巡礼の旅って、どうしたらそんな発想ができるのでしょう。

そして第三部「ソナタ」、この少女の父親が娘の買春相手に報復する。これでようやく男たちが裁かれるのかと思ったら、そうじゃない。なぜなら、父は娘の少女性に男としての欲望があって、嫉妬に狂っていると私は感じたから。もし彼が父として娘を戒めたいなら、その矛先は娘に直接向かうはずです。だけども、彼の行動はまるで夫の愛人に憎しみが向かう勘違いな妻と同じです。

これはロリータ男のとんでもない言い訳のような解釈もできそうな映画である。でも、実はこの作品、私はそんなに嫌いじゃない。と、いうのも少女性に神秘や神性を見るというのは、女である私も理解できるから。そして、視点を変えながら「性」を切り取るこの3部構成の手法が実にうまい。

また、ふたりの少女が公園で戯れるシーンや穢れを落とす風呂場のシーンに少女性を実に的確に見せるギドク監督の才能をひしひしと感じる。極めつけは、黄色いペンキのシーン。私はこれまでギドク監督に北野監督を重ねたことなど一度もなかった。しかし、このシーンは初めて北野武が頭をよぎりました。

セリフではなく映像で、しかも実に印象的な美しいシーンで我々に訴えてくる。これは、やはりセンスがないと無理でしょう。私の心は、一歩引いて疑ったり、ぐっと惹きつけられたりを繰り返しながら、最終的にはギドクワールドをたっぷりと堪能させられてしまいました。


  
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by galarina | 2007-05-19 23:47 | 映画(さ行)

スパイダーマン3

2007年/アメリカ 監督/サム・ライミ
<MOVIX京都にて鑑賞>

「詰め込みすぎでラストのセリフが効かなかった」
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(ラストシーンについて触れています)

何とまあ、てんこ盛りの内容なんでしょ。有頂天になって恋人からは見放されるわ、誤解したまま敵となった友人は記憶喪失になるわ、おじさんを殺した犯人は脱獄するわ、おまけに自分自身が変な生命体に体を乗っ取られるわで。ちょっと何でもかんでも入れすぎでしょ。まあ、これがシリーズ最終作なら、いろんなことに白黒付けるってんでこういう展開も仕方ないか、と思ってたら、続編もあるかも?ってことらしくおいおい。(ただし主役の二人が続行するかは不明らしい)

そもそもスパイダーマンの醍醐味ってのは、ニューヨークのビル群を蜘蛛の糸を飛ばしながら飛び回る様子にあるわけで、今作においてはその目玉部分に工夫が見られなかったのが残念。飛び出た糸をどう使いこなすかってことで「こんなやり方もあったのか!」ってあたりを見たかったんだけどなあ。敵ともみ合ってビルのすき間を落下していくなどスピーディなアクションシーンはCGべったりな感じで、もっとアイデアが欲しい。

だってね、スパイダーマンの悪役ってのは、素粒子の実験だの、核実験だの、浮世離れした実験ミスで生まれた生き物でしょ。これがどうもピンと来ないのよ。全シリーズ「本当はイイ奴」が「たまたま」科学実験で悪者になったという設定なんだけど、キャラの描き込みが不足しているから、本当はイイ奴だったという部分があまり生きてないのね。だから、本来はメインとなるべき敵との対決が醍醐味にならないの。

やっぱり原作がアメコミだし、人物の描き方をどうこう言っても仕方ないのかも知れません。でも、それならなんでこんなに物語をてんこ盛りにしたのかってこと。苦悩するスパイダーマンを通じて伝えたいものがあるんでしょ。最近どの映画もそうなんだけど、「911」の影響で「復讐しない」ってコンセプトを入れたいのよね。なら、なぜそこにもっと焦点を絞らなかったのか。散漫な物語にしたためにそのコンセプトがあまり伝わってこない。せっかくスパイダーマンに「ぼくは君を許すよ」という重要なセリフを言わせているのにちっとも効いてないの。

そういう意味では、「他人のために人生を犠牲にすること」と「彼女に寄り添うこと」の間で揺れた前作の方が、物語の軸がしっかりしていて良かったなあ。

とまあ、あんまり辛口でも何なので、面白かったのは黒い糸が全身をまとわりつくように増殖するシーンやサンドマンの生成の仕方かな。あとフレンチレストランね。ここはかなり笑った。こういうシーンの方が印象に残ってたりして…。
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by galarina | 2007-05-12 22:07 | 映画(さ行)

THE 有頂天ホテル

2005年/日本 監督/三谷幸喜

「ドタバタ劇にも群像劇にもなってない」
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大晦日にホテルで起きた奇跡がコンセプトなんだろうが、豪華なおもちゃ箱をひっくり返して、適当に遊んでまた箱に戻しました、みたいな印象。で、一体どこが有頂天なんだろうか?タイトルからしてわからない。

まずこの作品は非常に登場人物が多い。ここまで多くさせるなら、とことん「あの人とあの人が!」という仕掛けやハプニングをもっともっと出してハチャメチャにしないと。この程度の繋がり具合なら、この手の作品の批評によくある「あの話はいらなかった」という意見が出ても当然だろう。「このネタはいる」「このネタはいらん」という意見そのものがまかり通ること自体、ひとつの作品としては大きな欠陥と言わざるを得ない。

大晦日の奇跡に絞ったドタバタ劇ならそれに徹すればいいものを、群像劇として心温まる物語にしようという無理矢理感も全体の統一感のなさの一因。ラストシーンはお客様を出迎える役所広司なわけで「ホテルはあなたの家、ホテルマンはあなたの家族」というコンセプトもこの作品には見受けられるが、これに関しては描き方が甘すぎる。これをメインコンセプトにして、「ホテルマンとゲスト」の衝突や対話、信頼などにスポットを当てれば、物語としてはもっと面白くなったと思う。伊東四朗、生瀬勝久、戸田恵子。この3名のホテルスタッフが全然お客様と絡んでこない。これはもったいない。

「好きなことをあきらめないで」というセリフや、鹿のかぶりもので笑いを取るなど、驚くほどベタな演出も多い。ボタンの掛け違いから次々と笑いを生みだすいつもの手法も、引っ張りすぎでつまらない。そうつまらないのだ。三谷幸喜ならもっとウィットに富んだ会話や笑いが作れるはずなのに、どうして?という悲しい声がぐるぐると頭を駆け回る。

結局ハチャメチャにできなかったのは、ハートウォーミングで上品な作品に仕上げたかったからだろう。(元ネタの『グランドホテル』ってそういう感じなんでしょうか?未見なのでわかりません)でも群像劇としてしっかり作り込むのには、登場人物が多すぎる。このジレンマに苦しんで生まれた作品と感じた。豪華役者陣勢ぞろいで舞台はホテルです!みたいな企画がまず最初にあったのかなあ。三谷幸喜は好きな作家だけにこの作品は非常にがっかり。見所は昔のワルに戻る瞬間の役所広司の演技。さすが、ドッペルゲンガー。
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by galarina | 2007-05-10 21:47 | 映画(さ行)

シリアナ

2005年/アメリカ 監督/スティーブン・ギャガン

「部外者は誰もいない」
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アカデミー賞に輝く『トラフィック』のスタッフが集まり、アメリカ当局とアラブの王族、イスラム過激派テロリストの石油をめぐる黒い関係を描いた問題作。


物語を複数の地点で同時進行させ、観客は俯瞰で眺めながら問題の本質に迫る、という映画が非常に多くなっている。私がこの手法の映画で一番最初に出会ったのが、本作の監督が同じくスティーブン・ソダーバーグと作った「トラフィック」であった。その後非常にパーソナル物語を織り込みながら、社会派作品として磨き上げた「クラッシュ」、現在公開中のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの「バベル」や「21g」など、同時進行系の物語は増える一方である。

これらの映画に共通するのは、象徴的な悪は存在しているものの、とどのつまりみんな繋がっている、と気づかされることだろう。つまり我々観客も、このクソみたいな経済システムに少なからず荷担していると告発していることだ。同じく現在公開中の「ブラッド・ダイヤモンド」でも、ダイヤという「利権」を巡ってアフリカがずたずたにされていく様子が描かれている。その中でアフリカのある村人が「この村には石油が出なくて良かった」とつぶやくセリフが出てくる。つまり、資源が出れば「白人がむらがって食い物にされる」という意識は、中東やアフリカでは共通の認識、当たり前の考え方なわけである。

資源のない日本にいる我々にしてみれば、そのような発想そのものがショックであり、また「資源国」と「アメリカ」の丁々発止をただ指をくわえて眺めているだけの赤ん坊のような気分にさせられるばかりである。しかし、作品を通して見えてくるのは「部外者はいない」ということなのだ。日本だって、石油がないと生きていけない。アメリカの差し出す石油システムに乗っからないと、おこぼれはいただけない。つまり、CIAが石油産出国の王子の暗殺を企てる背景をたどれば、すぐに日本も荷担しているという図式を作ることは可能なのだ。

私も正直、中東問題なんて、わからないことだらけだ。しかし、問題の一端はこの映画を通してきちんと見えてくる。何も問題は解決されないし、どんでん返しがあるわけでもない、実に硬派な映画。でも、石油という巨大な資源がどこから来てどのように流れ、誰がそのシステムを握っているのか、というしごく根本的ことをまず知らないと、指をくわえて見ているだけからは一歩たりとも脱却できない。この映画はそのきっかけを与えてくれるに十分な非常に中身の濃い作品である。
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by galarina | 2007-05-03 23:14 | 映画(さ行)