「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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カテゴリ:映画(さ行)( 86 )

サンシャイン2057

2006年/イギリス 監督/ダニー・ボイル

「かなり抑制されたSF作品」

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なぜか「中庸」という言葉を思い浮かべてしまった。SF大作と聞いてまず想像するのは壮大な物語とダイナミックな宇宙の映像だろう。しかし、本作品は、そのいずれもが抑制の効いた見せ方になっている。なるほど。映画館に見に行った方々の評価が芳しくなかったのもうなずける。シネコンにSF大作を見に行く人が期待するものを満足させてくれるものは、ここにはないかも知れない。

でも、私はそれなりに面白かった。それは、SFアドベンチャー的要素を過剰に盛り込まない行為、すなわち観客への裏切りを楽しむことができたから。まず本作、クルーをちゃんと紹介してくれない。宇宙船という閉じた空間で起きる人間ドラマ。ならば、まずはメンバー紹介をしてくれないとわからんではないか。なのに、物語はどんどん進む(笑)。しかも、イカロス1号はすでに行方不明になっているなど、まるで途中から見始めたような錯覚を覚える。ものすごく説明不足なのだ。これでつまずく人は正直多いかも知れない。しかし、私は、この語らなさは製作者の挑戦だと思って、そんなら受けて立つぞ、って気持ちになって一生懸命見てしまった。

「太陽の光に魅入られる」というコンセプトは、なかなか面白い。間近で見れば間違いなく視力を失う。なのにもっと近くで見たい、という欲求に逆らえないクルーたち。おそらくSFものって言うのは、宗教観とは切っても切れない。やっぱり宇宙に出ることは、神に触れることなのだろうし。でも、その宗教臭さの代わりに「太陽光」への畏敬の念をもってきた。それはなかなか新しい視点じゃないだろうか。

クルーが一人ずついなくなってしまう。まあ、ちょっと予測できる展開ではあるけど、最終的に核弾頭を投げ込む人物をヒーローにおだてあげたりしないのは好感が持てる。しかし、クルー同士の信頼や裏切りといった部分にもう少しドラマ性が欲しい。まあ、いろんな意味で裏切られる映画。そこを楽しめるかどうかですね。そして、全体的にとても地味なトーンなのに、船外で着る宇宙服だけが、目もくらむばかりのピッカピカの黄金宇宙服。これまた、妙な残像。
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by galarina | 2007-11-15 00:00 | 映画(さ行)

シカゴ

2003年/アメリカ 監督/ロブ・マーシャル

「ナイスバディに酔う」

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俳優の惜しみない努力を当然と見るハリウッドに感服。それはもちろん、キャサリン・ゼタ・ジョーンズとレニー・ゼルウィガー、ご両人のこと。役作りのためにサーフィン習いました、とか、病院実習行きました、なんてのが子どもの戯れ言に聞こえる。いや、それはもちろん努力しないよりした方がいいに決まっているのだけれどね。キャサリンの見事な開脚、レニーのお尻ぷりっぷりのキャットウォーク。一体、彼女たちはどれほどの努力をしたのでしょうか。見上げたプロ根性です。そして、脇を固める超ナイスバディなダンサーたち。女のアタシもクラックラ来ちゃいました。

「ドリーム・ガールズ」のビル・コンドンが脚本担当ですが、やはりこの人は通常の演技の部分とミュージカルシーンの境目、つまり歌への導入部分が実にスムーズに行くよう配慮しているのだというのがよくわかる。よって、私のようなミュージカル嫌いでも存分に楽しめる。ミュージカルの何がイヤって、突然歌い出すあの感じなの。でも、ストーリー全体の流れからミュージカルシーンが浮いてない。流れを大事にした上で、もっともっとスピード感を出そうと試みたのが「ドリーム・ガールズ」なんでしょう。しかし、冒頭においては「シカゴ」の勝ち。遅れてきた主役キャサリン・ゼタ・ジョーンズが楽屋で慌ただしく衣装を身につけ、手に付いた血を拭いて、いきなりセクシーなダンスで舞台に登場。歌い終わると、即殺人犯で刑務所送り。ぼーっとしてると置いてけぼりをくらいそうな実に鮮やかなプロローグです。

「シカゴ」は文字通りシカゴ、「ドリーム・ガールズ」はデトロイト、そしてただ今公開中の「ヘアスプレー」はボルチモア。昨今のアメリカのミュージカルムービーは、地方都市らしさというのを存分に映し出しているのが特徴。「シカゴ」では禁酒法の話題はちらっとしか登場しないけど、むせかえるタバコの煙に包まれたキャバレーとショーガールたちのエロティックなコスチュームから、時代の空気がぷんぷん匂う。セットや小道具など、当時を彷彿させるこれぞプロ!と呼ぶべき作り込みもまた、観客を物語へぐいぐい引き込む大きな要因になっているのは間違いないだろうと思う。
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by galarina | 2007-11-11 16:33 | 映画(さ行)

スターダスト

2007年/アメリカ・イギリス 監督/マシュー・ヴォーン
<TOHOシネマズ二条にて鑑賞>

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ニール・ゲイマンのベストセラー・グラフィックノベルを映画化したファンタジー超大作。越えてはならない壁の向こうに落ちた流れ星を探すため、壁の外に広がる魔法の国を旅する青年の冒険を描く。

確かに、ハリーにしろ、指輪にしろ、昨今のファンタジー映画ってのは、壮大になりすぎだと思う。それは、大人も一緒に見に行くんだ、というのをどう捉えるかってことにもなるんだけど、あんまりたくさん盛り込むと見ていて疲れるってこともあるわけで。その点、本作のようなおとぎ話というのは、見ていてラクなのね。子どもと一緒に見て、ただ単純に面白かったね!と言える。かくして、王子様とお姫様は結ばれました、めでたし、めでたし、という結末の作品は、最近なかなかお目にかかれないように思う。

物語はとてもオーソドックスで、さえない男の子が冒険の旅を経てたくましく成長する。そこに、王位継承の鍵である宝石探しが絡んできて、魔女やら王子やらがそれを追いかけて、主人公も巻き込まれていく。ただ、このお話のユニークなところは、空に輝く星が地球に落ちてきたら、美しい人間の女性の姿になっているということ。しかも、この落ちてきた星が「金星」なんですよ。「金星」=「ヴィーナス」でしょ。でも、演じるクレア・デインズがねえ…ちょっとヴィーナスってイメージじゃないのよね。もう少し華奢な人が良かったなあ。

魔女役のミシェル・ファイファーは、ちょっと気の毒なくらいフケメイク。美女になったのは一瞬ですからね、後はどんどんシミとシワが増えていく、という。いやあ、ツライ役だったろうと心中お察しします(笑)。でも、ラストの魔女の館での一騎打ちはなかなか迫力がありました。

王位継承者の7人の王子が次々と殺されて幽霊になるんだけど、王位が誰か決まらないと浮かばれないって言うんで、この世に浮遊してんの。で、殺し合った兄弟なのに、幽霊になった途端やたらと仲良くなっちゃって、あっちこっちでツッコミを入れる場面が面白い。強面の船長が実は変な趣味があった、とか、笑えるシーンがかなり多いのも良かった。

決して深いメッセージのある作品ではないけれども、旅の先々で空飛ぶ船に乗ったり、魔女と戦ったりっていうシーンは、やっぱり映画館のスクリーンだから味わえる醍醐味。それは十分に味わうことができました。
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by galarina | 2007-11-04 23:05 | 映画(さ行)

世界最速のインディアン

2005年/アメリカ 監督/ロジャー・ドナルドソン

「マイノリティたちへの高らかな応援歌」
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私は物事を違う角度で眺めたり、異なる視点で捉える作品が好きなのだが、本作はあまりにも真っ当、ストレート。出てくる人は次から次へといい人ばっかりで、何ともご都合主義的展開…と思ったら、実はスピードに賭ける男のロマンを描きつつ、別のテーマを内包していることに気がついた。そこで、一気に私の気持ちはラストの競技会でぐんと高まり、大拍手を持って清々しく見終わったのだ。

それは、インディアンというマシーンが「世の中のマイノリティ」を象徴しているのだ、ということ。バートがアメリカに降り立ち、競技場に着くまでに幾つものトラブルを乗り越えていく。その時手をさしのべてくれるのは、紛れもないアメリカ社会のマイノリティたちなのだ。トランスジェンダーのフロント係、南米移民のカーディーラー、ネイティブアメリカン、砂漠にひとり住む未亡人。もちろん、バート自身もアメリカにおいては、ダウンアンダーからやってきたマイノリティ。インディアンというマシーンそのものも、競技会においては整備不良の時代錯誤のポンコツと揶揄される。

そんなマイノリティたちの気持ちを乗せて、インディアンは塩平原を駆け抜ける。ふらふらと揺れながらも最高時速をたたき出す。インディアンの勝利はマイノリティの勝利を意味する。そこに、実に大きなカタルシスがあるのではないだろうか。競技場についてからは、複数のアメリカ人がバートを助けてくれる。よくもまあ、地球の裏側からやってきた、と。

しかし、出会った人々の助けがなければバートはこの場にいない。つまり、バートはアメリカ社会のマイノリティたちに導かれてここにやってきたと見ることはできないだろうか。そして彼らに導かれたバートがアメリカ人を動かし、変えた。競技会委員がルールを破っても出場させたことを考えれば、マイノリティがシステムを変えたとまで捉えられるのかも知れない。

もちろん、物語を引っ張るバートのキャラクターが魅力的であることも大きいのは確か。ハンニバル・レクターことアンソニー・ホプキンスが、今作では打って変わって裏表のない清々しい役どころ。世間ずれしておらず、やんちゃな少年がそのまま大人になったようなキャラクターで、女にモテるのも納得。63歳からスタートしている物語だけに彼の来し方が気になるところだけど、映画ではその辺は潔くばっさり切り捨てている。これは、物語をシンプルにする故だろうが、この展開は至って正解。

男の人ならメカに関する描写も楽しめること間違いなし。挑戦することのすばらしさ、人間の優しさをしっかり描きながら、世の中のマイノリティを高らかに応援する作品。多くの方にオススメしたい。
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by galarina | 2007-08-19 21:29 | 映画(さ行)

ソナチネ

1993年/日本 監督/北野武

「死に向かう美しい舞踏」
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およそ映画作家であるならば、物語の起伏や役者の演技に頼らず、「映像の力」だけで、とめどないイメージの喚起を呼び起こせる、映画にしかなし得ない力強くも美しい瞬間を創りたいと誰しも願うはず。「ソナチネ」における浜辺での相撲シーンはまさにそれでしょう。私は、このシーンを見るというだけでも、この作品をお薦めできる。

浜辺に打ち上げた藻で土俵を作り、シコを踏む男たち。一糸乱れぬ相撲の所作は様式的な美しさを見せるし、これから死にゆく男たちの儀式のようにも見える。映像が醸し出すイメージに胸を打たれるということほど、映画鑑賞における至高の体験はなく、北野武は、4作目にしてその至高の瞬間を作ってしまった。

間違いなく俺たちは死ぬ。その確信を目の前にして繰り広げられる男たちのお遊び。それは、時におかしく、時に切なく、時に美しい。私は、この作品を見てなぜだか一遍の舞踏を見たような感慨に見舞われた。人間は誰でも死ぬのだとするなら、この作品は全ての人に訪れる死の前のダンス。無音の舞台の上でしなやかな体の男が静かに粛々と踊り続け、そしてまた静かに舞台の上で死んでいく。そんな映像が頭から離れない。

北野武は決して「そのもの」を描かない。銃声が響き、血しぶきが湧いている場面でも、画面に映し出されるのはそれを傍観している男たちの顔だ。殴り込みに出かけすさまじい殺し合いが起きても、そこに映っているのは明滅する弾丸の火花。それらの静かな映像は常に「死」と隣り合わせであるからこそ、切なくリリカルに映る。

また本作では武ならではのユーモアも非常に冴えている。殺し合いに行くのに遠足バスのように見せたり、スコールの中シャンプーをしていたら雨が突然止んでしまったり。これらの「笑い」は何かの対比として描かれているのではなく、もしろ「死」そのものが「笑い」を内包しているから描かれている。つまり、人は誰でも死ぬ、そして死にゆくことは滑稽なことである、という武独特のニヒリズムがそこに横たわっている。

繰り返すが、浜辺での一連のシークエンスは本当にすばらしい。北野武以外の誰も思いつかない、誰にも描けない映像だと思う。
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by galarina | 2007-08-15 14:53 | 映画(さ行)

殺人の追憶

2003年/韓国 監督/ポン・ジュノ

「人間の内面に切り込む演出が冴える傑作」
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なぜ、もっと早く見なかったの、と壁に頭を打ち付けたいくらいの衝撃。すばらしいです。そのひと言でレビューを終えたいくらい。

猟奇殺人が絡むと、映画というのはどうしても作品全体が浮き足立ってしまう。それは殺人そのものがスキャンダラスであり、それを映像にしただけでセンセーショナルな画面になってしまうからだ。観客は、猟奇殺人にまつわるもろもろにどうしても興味の方向が引っ張られる。そこを乗り越えて、事件を捜査する刑事の人間ドラマとして描くには、よほどの深い洞察力と地に足付けた演出が必要だ。そういう意味でこの作品は、全く申し分がない。

驚くべきは、生身の人間を描くという「生っぽさ」が主眼にも関わらず、作品全体には静かで落ち着いたムードが漂っていること。それは、この田舎の農村風景を美しく捉えたシーンがふんだんに盛り込まれていることが大きい。カメラは、ただただありのままの田畑を捉えているに過ぎないのだが、そこには昔の田舎は良かったというノスタルジーはない。また、一方で連続殺人が起きた場所として何か意味づけをするでもない。まさしく何もない静かな農村が目の前に広がるだけなのだ。

そして、美術。パク・チャヌクもそうだが、韓国映画のセットのクオリティの高さはすごいと思う。当時の生活の泥臭さが、実に些細なディテールまで再現されていて、そのリアル感が刑事ドラマとしての骨太さを盛り上げている。刑事が通う女の部屋の汚れたタイル、焼き肉屋に充満する煙と油に汚れた壁など、汚いことが圧倒的なリアル感を与える。ソン・ガンホが着ているチェックの綿シャツのよれ具合といったら!日本映画が昭和を描く場合に「いかにもセットでござい」という風体になってしまうこととあまりに対称的だ。

乱暴で強引な捜査を続けていたのに、やがて悟りを得たかのような静けさを持ち始めるパク刑事と分析力で捜査に切り込むものの犯人が捕まらない焦燥感から次第に暴力性を増すソ刑事。ふたりの対比がとにかくすばらしい。特に、ソン・ガンホの存在感は秀逸。人間臭さを表現することにおいて、彼の右に出る者はいないんじゃないだろうか。

パク・チャヌクは作品の中に個性や作家性を持ち込もうとしているけど、本作にそのような余計な色はない。ゆえに、様々な嗜好の人に分け隔てなく受け入れられるだけの力をもった作品だと思う。実に重厚な人間ドラマの中に、サスペンス、そして叙情的で美しい映像と映画の醍醐味がぎゅっと詰め込まれている。全ての人にこの傑作をおすすめしたい。
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by galarina | 2007-08-10 23:34 | 映画(さ行)

3-4x10月

1990年/日本 監督/北野武

「間」の才能
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原案・脚本・監督全て北野武メイド。本来の意味では、これが監督デビュー作と言える本作。実に面白いです。もちろんサスペンスやエンタメ映画を見て「あ~おもしろかった」という「面白い」ではございません。やはりこれは北野武にしか作り出せない面白さ。しかも、出演者のほとんどが「たけし軍団」。演技という演技は、全くと言っていいほどない。それでこのような映画が作れるのだから、全く演技って何だと叫びたくなる。

HANA-BI」でも書いたけど、「間」の使い方がうまい。もう、ほんとそれに尽きる。タイミングと長さが絶妙。例えば、ぶんぶんとバットを振っているだけのシーン。それが、やけに長いと何かが起きるのかなと言う期待が生まれる。例えば、バットが飛んでいっちゃうのかな、とか、ボールがどっかから飛んできて頭に当たっちゃうのかな、とか。ところが、何も起きなくて突然ぱっと違う画面になってしまう。そこで観客は裏切られたような感触が残るのだけど、それはバットを振っているという映像と共にしっかり心に焼き付いていて、「バットを振る」という行為に何か意味があるのだろうか、という考えにまで及んでいく。「間」のもたせ方ひとつで、こんなに観客の感じ方に奥行きが出せるところに、北野武の才能があるんだと私は思っている。

主人公は、柳ユーレイ。その他、比較的出演シーンの多いのが、ガダルカナル・タカとダンカンなのだが、この3人の演技が非常にいい。それは「演技している」とはおよそ言えたものではない。セリフは棒読みだし、でくのぼうみたいに立ってるし。だけども、武が描き出す世界の雰囲気にぴったり合っている。たぶん、監督による表情の切り取り方がうまいのだと思う。人物はバストアップで捉えた画面が多く、語り手は手前で映っておらず、ぼんやり話を聞いているダンカンだとか、ユーレイの間抜け顔が映っているだけなのだけど、やはりその間抜けな雰囲気に独特の「間」が存在していて、どうしても画面に引きつけられる。ぼんやりしたムードなのに、画面に吸い寄せられてしまうという感覚も、これまた北野武ならでは。

目の前では実に直接的な暴力が描かれているにも関わらず、全体のトーンはあくまでも一定で、波風が立たない。しかし、だからこそ、ドキッとするんですね。ピストル出して、何かセリフ言って、ツカツカ歩いていって、と言う暴力描写は、観客に対して「さあ、これから始まりますよ」と教えてあげているわけだけども、北野武はそうやって観客を甘やかしたりしない。予告もなければ、余韻もない。撃たれたら、もんどり打って苦しんで死ぬまでのたちうちまわるようなこともない。ゆえに暴力のリアリズムが際だつ。

さて、沖縄のインテリヤクザとして、豊川悦司が出演。彼は今までの役者人生で最も大きな影響を与えた人は誰かというインタビューで、渡辺えり子と北野武だと語っているのだけど、影響云々を語れるのかしら、というほどのちょい役。でも、現場での衝撃は強烈だったと語っており、北野武の何がそれほど彼にショックを与えたのか、実に興味深い。

前作「その男、凶暴につき」では、子供が遊ぶバットが一瞬のうちに凶器になってしまうシーンがあったが、本作でものんびりした草野球チームの様子とそんな彼らが暴力に呑み込まれる様子が淡々と描かれ、静かな日常と暴力を同じ平野で捉え続ける北野武らしい作風を堪能できる。興行的には失敗したらしいが(そりゃそうだろう)、興味深い作品であることは間違いない。暴力映画でありながらも、冴えない男の少し遅れた青春ストーリーとしても見ることができるところもこの作品のすばらしいところだと思う。
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by galarina | 2007-08-06 23:26 | 映画(さ行)

新宿泥棒日記

1969年/日本 監督/大島渚

「盗まれる言葉たち」

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これはとても詩的で実験的な作品。紀伊國屋書店でジュネの「泥棒日記」を万引きをした青年、横尾忠則が彼を捕まえた女性店員、横山リエと性をめぐる観念の世界へ逃避行に出る。そんな感じでしょうか。
本を盗むということは、言葉を盗むということ。故に、言葉の洪水のような作品でもある。言葉によって喚起される数々のイメージを頭に思い描きながら、新宿の街を泥棒気分で逃げ回るのだ。

性科学権威の高橋鉄によるカウンセリングシーンや佐藤慶や渡辺文雄がセックスについて大まじめに語り合うシーンなどのドキュメンタリー的なシーンと、様々な文学の一節を朗読するシーンや唐十郎率いる状況劇場の舞台などの観念的なシーン、それらが虚実ないまぜ、渾然一体となって進んでいく。

ひと言で言うと「映画は自由だ!」ってことかしら。物語とか、辻褄とか、わかる、わからないとか、そういうところから一切解放されて映像を紡ぐこともこれまた映画なり。わかるかと聞かれると全くわからんのですけど、面白いかと聞かれると間違いなく面白い。この面白さっていうのは、やっぱり作り手の「自由にやってやる」という意気込みがこっちに伝わってくるから。その鼻息が通じたのか、ラストは撮影中に出くわした新宿の本物の乱闘騒ぎの映像が入っており、当時の生々しい空気感が感じられる。

シーンとシーンの間に、時折文字のみの映像が差し込まれるのだが、冒頭は確か「パリ、午後二時」とかそんなんなのね。その中で「ウメ子は犯された」って文字がでかでかと出てくるシーンがあるんだけど、つい吹き出してしまった。犯されたことが可笑しいとか、そういう不謹慎なことではなく、そんなことわざわざ文字にするなよ、見てりゃわかるじゃんってこと。とことん性に対して大真面目に突進していく様子が何だかおかしいのだ。

それにしても、この時代の作品は大島渚だけでなく、女と言うのは、常に「犯される存在」だ。今で言うともちろんレイプということになるのだけど、この時代はやはり「犯される」という言葉が一番ぴったりくる。それは、征服するための行為というよりは、むしろ「聖なるものを穢すことで何かを乗り越える。そのための儀式」に感じられる。

それだけのリスクを冒さなければ、向こう側に行けない。手に入れたいものが見えない。そんな時代の鬱屈感を表現する一つの方法。それが女を犯すという描写ではないかと感じるのだ。このように言葉にすれば、女をコケにしたとんでもない表現方法に感じるかも知れないが、逆の視点で見れば、当時の女という概念はそれだけ聖なるものであり、乗り越えなければならない高みを示していたのかも知れない。

犯し、乗り越えていくためのシンボルとして女性が描かれることは、今やほとんどなくなってしまった。それは果たして、喜ぶべきことなのだろうか、それとも悲しむべきことなのだろうか。横山リエの妖しげな表情を見ながら、ふとそんなことを考えてしまった。
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by galarina | 2007-07-31 23:43 | 映画(さ行)

新宿マッド

1970年/日本 監督/若松孝二

「新宿の“中"と“外"」
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私が映画ファンになったのは、学生時代「大毎地下劇場」という御堂筋に面した小さな地下劇場で、日本やヨーロッパの古い作品をたくさん見たのがきっかけだ。今は子供も小学生になりハリウッド映画も見るけれど、個人的には60年代後半から70年代のATG作品が大好きだ。

モノクロームのATG作品を見て強く感じるのは、私もこの時代の息吹をリアルに感じてみたかった、というストレートな願望だ。この時代をリアルに生きた人が羨ましい。体制への反抗、あふれ出る創作意欲、表現することが生きることと同じ価値を持っていた時代が放つ圧倒的なエネルギー。それを、この自分の肌で感じてみたかった。

本作「新宿マッド」は、新宿で劇団員をしていて殺された男の父親が、息子が殺された理由を知りたいと、九州の田舎町から上京し、新宿をさすらう物語である。前衛的な作品も多いATG作品の中では、この「新宿マッド」は比較的わかりやすい物語だと思う。

息子の父親は田舎で郵便配達夫をしている。地方都市の郵便配達夫というのは、おそらく「自分の意思もなく体制に呑み込まれてしまった人間」の象徴ではないか、という気がする。なぜ、息子は殺されなければならなかったのか、息子の友人を訪ねまわり、新宿の街を徘徊し、新宿の狂気を目の当たりにするに従い、真面目に生きることだけが取り柄のような田舎の中年男の価値観が崩れてゆく。

すぐ誰とでも寝る女、麻薬に溺れ働かない男たち。新宿の人々は、真面目な田舎者の父親を嘲笑する。しかし、彼らが繰り返し叫ぶ観念的な言葉は、最終的には田舎者の父親の生きた言葉の前に屈する。映画の冒頭に出てくる新宿の街で横たわる若者たちの死体、そして新宿マッドなんてカリスマはいない、とする結末を見ても、新宿的なる世界の終焉を見事に切り取った作品と言えるだろう。

しかしながら、目の前で繰り広げられる退廃的でけだるい新宿の街の描写は、私を惹きつけて離さない。およそ、この時代に生きる人々は、新宿の“中にいる者"と“外にいる者"。その二通りしかいなかったのではないかと思わせる。「あいつは、この街を裏切った。新宿を売ってしまったから殺された。」父親が息子の友人から聞き出したこのセリフがそれを物語っているように感じるのだ。
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by galarina | 2007-07-30 23:31 | 映画(さ行)
2002年/カナダ 監督/イザベル・コイシェ

「もしも私だったら…」を放棄した方が楽しめる
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医師から余命2ヵ月の宣告を受けた23歳のアン。病気のことは誰にも話さないと決心し、死ぬまでにやりたいことをノートに書いた彼女は、その一つひとつを実行していくのだった…。

これは、おとぎ話なんじゃないのかな。だから「もしも私だったら…」という思いが頭をよぎると、この作品の雰囲気を十分に味わうことは難しいのかも知れない。「私なら」と考えてしまう人が多いのは、タイトルのせいもあると思う。私だって思わずノートに書きそうになったもん。でもですね、あれあれ?と思ったきっかけは、「誰か他の男を夢中にさせること」って書いたら、すぐにお目当てのセクシーな男が現れるでしょ。それをきっかけに、そんなにうまいこといくかいなってくらい願い事が叶っていく。そこで思ったわけです。これはおとぎ話なんだと。

この物語のゴールは「死」なので、どうしても道徳的な判断をしてしまいがちだけど、そこはいったん横においておく。で、物語のありのままを受け止めながら見ていると、ささやかな日常、それも限られた時間の中で主人公が一つひとつの願いをクリアしていくことを微笑ましく見守ることができる。もうすぐ死んじゃう女の子なのに、いいなあ~なんて羨ましくなってくる。そう、この主人公は女性と言うよりも「女の子」と呼ぶべき少女性を持っている。これもおとぎ話だと思える一因。気持ちを落ち着けるために病院でお医者さんからキャンディもらうでしょ。こういうところも、実に少女っぽいの。

若くして結婚し、定職のない夫に子どもを抱えてトレーラー暮らし。すごくけなげに毎日を生きてる。なのに、余命2ヶ月。でも、彼女の願いは確実に叶えられていく。これは、まるでシンデレラじゃない?「むかし、むかし、あるところに貧しいながらも毎日を一生懸命生きている女の子がいました。でも、その女の子は不治の病になってしまいました。そこで女の子は死ぬまでに10の願いを叶えたいと思いました。すると魔法使いが現れて…」って感じかしら。

他の男の人と寝たことがないからしてみたい、なんてのも、考えてみれば実に子どもっぽい発想。だから、「もしも私なら…」という現実世界に引き入れずに、見る。そうすると、小さい女の子が夢を叶えていくようなロマンチックな雰囲気にあふれた映像にとても引き込まれる。願い事が叶うという女の子なら誰でも夢見るストーリーだけれど、お話の締めくくりは「そして、女の子は死んでしまいました」ってこと。だから、願い事が叶えられたことへの安堵と切なさがいりまじった素敵な余韻に浸れるのです。
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by galarina | 2007-07-10 23:32 | 映画(さ行)