「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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カテゴリ:映画(あ行)( 68 )

インランド・エンパイア

2006年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ
<京都シネマにて鑑賞>

「抜け出せぬ迷宮」
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リンチと言えば「倒錯」の世界なんだけども、今回は100%「迷宮」。見終わった瞬間は、何が何だかさっぱりわからない。1週間ほど前に見に行って、なんとか思考をまとめようかと思ったけど、できそうにない。次にもう一度DVDで見たら、きちんと筋を通せるかも知れません。ただし、3時間ものこの映画、もう一回見るかなあ(笑)。

物語は
1.女優ニッキーの世界
2.ニッキーが出演する映画『暗い明日の空の上で』の世界
3.『暗い明日の空の上で』内の映画『47』のポーランドの世界
4.ロスト・ガールの世界
5.謎のウサギ人間の世界

と5つの世界が交錯する。それぞれの世界を繋ぐ「扉」は作品内に「しっかりと」描かれている。これがクセもの。扉を開けると別の世界に行くという直接的なものから、電話のベルが鳴って受話器をあげると別の世界に切り替わる、映像がテレビ画面に吸い込まれて別の世界に切り替わるなど、明らかに5つの世界には「接点」があるという構造になっている。

映画館で見終わった時は全く「?」だったが、こうやって書き出して見ると、1と2と3はいわゆる入れ子構造の3世界であり、4と5は明らかに異質だとわかる。そして、大いなるヒントは「ロスト・ガール」という言葉ではないだろうか。実は本編中「ロスト・ガール」という言葉は一切出てこない。これは、私は公式ホームページで知った。(パンフレットにはもっと詳しく書いてあるんだろうなあ。買ってないのでわからん)

ロスト・ガール。迷子の女性、死んだ女性、破滅した女性…。日本語にするとどうなるかは定かではないが、いずれにしても、彼女がテレビ画面をのぞき込んで涙を流していること、そして、『暗い明日の空の上で』(または『47』)内で演じているローラ・ダーンがテレビ画面から飛び出してきて最後にロスト・ガールと抱き合うシーンがあることを考慮すれば、ロスト・ガールのいる世界は、1.2.3の入れ子世界よりも上部、または包括するレベルにあるのだと思う。そうなると、5のウサギの世界は何か?これは、ロストガールと1.2.3の世界を繋ぐ場所、または、1と2や3を繋ぐ場所にあるのではないか。いずれにしても、どこかとどこかの世界の中間に存在しているような気がする。

まあ、何となく繋げてみて思うのは、1.2.3の世界は、ロスト・ガールが作りだしたものなのかな?ということ。しかもタイトルは「内なる帝国」。誰の内なる帝国を描いたものか?やはり、ロスト・ガールと考えるのが妥当だろう。ただ、180分という長い時間の中でロスト・ガールの世界の描写が実に少ない。果たして全てを牛耳っているのが、ロスト・ガールと断定していいものか悩んでしまう。しかも、関係性がわかったとて、それぞれの世界の意味付けが全くできない。これはとにかく、もう1回観るしかなさそうです。


さて、オープニングとエンディングがすごくカッコイイんだよね。オープニングのレコード盤が回る映像に別の映像が重なって、重低音のクールな音楽が流れてきた時にはゾクゾク~としちゃった。それから、「ツイン・ピークス」でローラの母を演じていたグレイス・ザブリスキーが出ているんだけど、あいかわらずの怪演ぶり。そして、裕木奈江のあどけない顔から発せられる下品な言葉のオンパレードで構成される長台詞。ふたりとも訛りのきつい下手な英語をしゃべっていて、おそらくそれはリンチの指示なんだろう。居心地の悪さが醸し出すむずがゆい感じがまさにリンチ・ワールドといった感じ。

で、圧巻はローラ・ダーンのキレっぷり。よくもまあ、ここまで狂気に満ちたヒロインを演じましたよ。あっぱれ。しかも、リンチはちっとも美人になんか撮ってくれないもんね。ひとり3役ですからワケわかんなくなってたと思うけど、まさにそのわかんない感じをリンチは引き出したかったのでしょう。演技そのものが混乱に満ちていて、それがそのまま主人公ニッキーの混乱ぶりを表していた。

とにかく女優陣のアップが怖い。今回、リンチは全編SONY PD-150と呼ばれる小型のデジタルカメラで撮影したようで、どこまでも女優の顔に近づいていきます。恐れ、おののき、泣く女の顔が次から次へと現れ、観客を不安と混迷の世界に引きずり込んでいく。さながら、いったん嵌ると抜けきれない底なし沼のような作品だ。
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by galarina | 2007-08-11 23:21 | 映画(あ行)

オペレッタ狸御殿

2005年/日本 監督/鈴木清順

「爺様の壮大なるお遊び」
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見終わってすぐさま浮かんだのは「じさま演出による学芸会」。私は敬老会に呼ばれたような気分だった。いえいえ、何も鈴木清順氏をバカにしているわけではありません。とにかく壮大なお金のかかった学芸会だな、と。人を食ったかのような開き直りと、大人の大真面目なバカ騒ぎについていければ楽しめます。お気楽に手拍子でも打ちながら鑑賞すれば、堪能できるかも知れない。

しかしながら、わたくしはこの清順ワールドを呑み込み、堪能するところまで到達できなかった。と、いいますのも、オダギリくんの雨千代というキャラへのなりきり度が気になって、気になって仕方なかったから。やはりこの手の映画は役者のなりきり度が観客に伝わるもの。きっとオダギリくんは、この演技が恥ずかしいんじゃないだろうか。鈴木清順だからと、即返事したものの本当は後悔しているのではないか。そんなことばかり考えてしまった(笑)。実は「嫌われ松子」の中谷美紀を見ていても同じことを考えていたんだよなあ。

その点、チャン・ツィイーはさすが母国を出てアメリカくんだりまで飛び出しただけあって、根性が座っている。うろ覚えの日本語に臆することなく、お姫様になりきっている。墨絵や尾形光琳など日本の美術セットにしっかりおさまって、美しい表情を見せるのはさすがプロ。オダギリくんは、今この役のオファーが来たら断るだろうなあ…。

これを斬新と言うことに異存はないけど、やっぱり観る者を選ぶ作品。残念ながら私は全くついていけなかった。
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by galarina | 2007-08-01 23:48 | 映画(あ行)

イルマーレ

2006年/アメリカ 監督/アレハンドロ・アグレスティ

「More Romantic!!」

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何でもかんでもリメイクするのはどうかと思うが、しかしここまでリメイク上手だと「これならハリウッドはどう料理する?」と考えに及んでしまう今日この頃。韓国、日本で大ヒットした「イル・マーレ」、果たしてハリウッド版はよりロマンティックに乙女心をくすぐる佳作になっておりました。いやあ、思ってたよりも全然ステキだった。

オリジナルを見ていながらも楽しめた、ということは、ことこの作品においては大いに評価されるべきだと思う。なぜならこの時空を超えたラブストーリーには、そうなるのか!という素敵などんでん返しが用意されていて、肝心要のこのどんでん返しもリメイク版は同じであるからだ。しかし、同じオチでも見せ方は違う。オリジナルは「ふたりの出会いからリスタートする」結末であるのに対し、リメイク版は「女も男も待つ」ことを選択する。これまた、ハリウッドとは思えない偲ぶ愛の結末。恐れ入りました。

本作で好感が持てるのはリメイクという作業においてハリウッド的派手さを無理に取り入れていないこと。今話した結末の見せ方がその最も顕著な例で、ここでは「待つ」ということが一つのテーマになっている。「運命で結ばれたふたりならばきっと会える。だから、機が熟するのを待つんだ」そんなラストの展開は、アグレッシブが褒め言葉というアメリカ的価値観とは異なるものを感じる。よく考えれば男が女を迎えに行くオリジナルの韓国版の方がよほど欧米的展開ではないのか。

オリジナルのプロットはそのままで、いかによりロマンチックに、よりドラマチックに仕上げるか、その試行錯誤が様々な面で良い方向に出ているんだと思う。主人公の職業についても男性側は同じ建築家であるのに対して、女性側は声優の卵から女医という設定に変わっているが、仕事と恋の間で揺れる女心という点においてはハリウッド版の方が共感を誘う。

そして、思わず「うまい!」と唸ったのは、ラストの出会い以前にこの二人にひと時の邂逅を与えていること。この出会いによって、ふたりの恋は「宿命」となる。また、これがムード満点のキスシーンなんだな~。いいぞ、キアヌ!と思わず拍手。というわけで、ストーリーを知っているのにオリジナル以上に盛り上がったのでした。

もしかしたら、オリジナルのイ・ジョンジェよりもキアヌの方が好みだってことも、盛り上がりの一因かも知れませんが…。このふたりにはフレッシュさがないという意見もあるみたいですけど、私は年を取ったとは言え、キアヌ・リーブスが恋に悶える様子にはかなりトキメキましたですよぉ。
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by galarina | 2007-07-17 23:43 | 映画(あ行)

明日の記憶

2005年/日本 監督/堤幸彦

「登場人物の心象風景を見せて欲しい」

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決して悪い作品ではないと思う。ただ、深く心に残る物語だったかというと正直微妙だ。そもそも「働き盛りの男がアルツハイマーになってしまう」という軸を聞いただけで、これから展開される内容にある程度の想像はつく。主人公の挫折と苦悩、家族の献身、周辺人物のとまどい。その予想される展開を踏まえながらも、心に訴えかけるものを作らねばならない。難病ものって、作り手にとって実にハードルが高いテーマだと思う。

「泣かそう」というあざとさは本作にはない。渡辺謙も樋口可南子も熱演している。それでもぐっと来ないのはなぜか。奇しくも先にレビューした「いつか読書する日」と言う作品では、監督は執拗なほど人物たちの日常を追いかけていた。坂を登る、自転車を漕ぐ、バスに乗る、布団を敷く…etc。これらの繰り返される日常のシークエンスはいわば登場人物たちの心象風景とすら言える。しかし、本作には「心を表現する」シーンが乏しいのではないか。

セリフのあるシーンは役者の力量で何とかなる。しかし、セリフのないシーンで心に訴えるシーンがあるかと言うとほとんど思い出せない。皮肉なことに、自分が分裂して見えるというような今っぽい演出のシーンが印象に残っていたりする。堤幸彦監督はこの作品に正面から取り組み、オーソドックスな手法で物語を綴ろうとしたのだと思うが、「間」や心を映し出すシークエンスが少なくて物語が心に染みこむような瞬間にあまり出会えなかった。

妻の献身ぶりがきれい事に見える、と言う意見も多い。私も同じように感じた。キッチンで怪我をして叫ぶシーンをさっ引いても違和感は残る。彼女には彼女なりの心の移り変わりがあったはずで、その心模様が見えてこない。これまた皮肉なことに樋口可南子のシーンで一番心に残っているのは、店長になった彼女が運送業者にぴしゃりとクレームを入れているところだったりする。「専業主婦が仕事なんてムリ」と親友に馬鹿にされていた彼女が仕事を通じて成長したことがかいま見えるのだ。

及川光博演じる医師、そして上司に病気の話を告げた部下の田辺誠一。彼らのような周辺人物と主人公の関係性が中途半端なのもひっかかる。もっと後半の展開にも絡んできて欲しかった。香川照之以外はみんな彼の前を通り過ぎていくだけのように感じたもの。だから、いっそのこと夫婦ふたりの心模様に全面的にスポットを当てても良かったんじゃないかと思うのだ。

陶芸教室の木梨憲武が料金をごまかすシーンが出てくるんだけど、逆にこういうところでほっとしちゃった。だって、何もかもきれい事で済まないと思うから。現実ってもっと残酷で不条理なもの。以前レビューした「海を見る夢」という映画では、病気の主人公の前に毎日自分の愚痴ばっかり話して帰る自己中女が登場するのだけど、これがすごく作品の味になっているのね。

山あり、谷ありの物語での谷の部分において観客を驚かせたり、困惑させたり、怒らせたりする意外性というのは物語に深みを与えると思う。「明日の記憶」においては、そういう意外性は出現しない。それが全体的な深みのなさ、という実感に結びついているように思う。
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by galarina | 2007-07-09 23:27 | 映画(あ行)

いつか読書する日

2004年/日本 監督/緒方明

「秘め続けた思いが解放される時、切なさが洪水のように押し寄せる」
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小さな田舎町を舞台に描かれる冴えない中年男と中年女の秘めた恋。熟年層にウケた、なんて話も聞きつつ、ちょっと斜めの目線で鑑賞。…がっつりやられてしまいました。非常に丁寧に丁寧に作られた映画です。ウケた、とかウケないとか、そういう物差しで批評するのはこの作品に対して失礼。

玄関のポストに牛乳を入れる時に放たれる「コトコト」と言う瓶の揺れる音が、思い続けてきた女の来訪を知らせる。それは、毎朝毎朝聞き続けてきた音だった。そんな、実に繊細な描写があちこちで見受けられ、ふたりの生活を足下からとらえていくことで味わいのある物語が紡がれてゆく。それは、人物の身の回りにも徹底的に表現されている。

岸辺一徳演じる槐多(かいた)を、監督は実にリアルな五十代の男として描いている。肌着のシャツをパジャマズボンに入れたその姿は、主人公が何十年も思い焦がれる男の姿とは到底思えない。しかし、このどこにでもいそうな平凡な中年男女の日常のリアルさが際だてば際だつほど、彼らに寄り添う私がいた。

ふたりを結びつけているものは、「過去のわだかまり」。そして、その時に閉じこめられた恋心。ずっと、ずっと、それを引きずっている。それは、実に不器用で無様な生き方。でも、そんな生き方しかできない二人のキャラクターが細やかな演出を通して、情感豊かに浮かび上がってくる。妻といる時は穏やかな槐多が、児童虐待を目の当たりにして感情を爆発させる。それまで何があろうと、淡々と機械的な言動しか見えない槐多だったのに。そして、妻が亡くなり、美奈子に声をかけられてからは、まるで人が変わったような軽妙な言葉を発する。彼が妻の前でいかに感情を押し殺して生きてきたかがよくわかる、岸辺一徳の演技がすばらしい。

そして、静かに進む物語だからこそ、橋の上での呼び声が止まっていた時間を動かし始め、幼いふたりが互いに求め合うような、ぎこちなくも激しい抱擁までの一連のシークエンスが胸に刺さる。過去に残してきたものを今叶える、そんな願望は誰の胸にでもあると思うから。

美奈子の生き方に共感できるかと言われるとそうじゃない。私には、美奈子にとっての牛乳配達は一種の“行”のように見えた。何十年も前の男のことが忘れられない馬鹿げた執着をほんの少しでも忘れる時間が、“行”にも似た坂道のアップダウンだったのではないか。そして、そういう生き方しかできない自分を美奈子本人も好きではなかったんじゃないか、と。

ラストの微笑は、そんな自分から解放された喜びなのかも知れない。こうやって言葉にすると、ずるいし、暗い。しかし、引きずり続けてきた過去が一瞬でも輝かしい時間になったことで美奈子はこれからの人生を生きていける。予期せぬあっけない幕切れに驚きながら、輝きの後の切なさにいつまでも胸を締め付けられた。
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by galarina | 2007-07-08 23:44 | 映画(あ行)
2006年/イギリス 監督/リチャード・エアー
<OS名画座にて鑑賞>

「日記という物語の中に住む女」
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美しい美術教師と、彼女に執拗な関心を抱くオールドミスの教師とのスキャンダラスな関係を描く心理スリラー。アメリカで実際に起こった女教師の事件を基に作られた小説がベースになっている。ケイト・ブランシェット、ジュディ・デンチ、二大女優の演技合戦が実に面白く、密度の濃い映画。92分という長さもいい。最近の映画は、尺が無意味に長すぎるもんね。

さて、孤独な中年女バーバラのシーバに対する異常な執着ぶり。これをストーカーを引き合いに出して語る人もいるようだけど、私はストーカー心理とは少々異なるような気がする。むしろ、シーバは、バーバラが作り上げる物語の登場人物に過ぎないように感じた。つまり、「私の脚本通り演じなさいよ」という監督と俳優の関係のよう。もちろん、そこには監督の俳優に対する圧力、優越感のような様々な感情が渦巻いている。

私が最もそう感じたのは、何もかもが露呈されてシーバと夫が大喧嘩を始め、それをバーバラが見守るシーン。バーバラはそこでこう言うのだ「天井桟敷から眺めるオペラはすでに最終幕を迎えていた」と。(ちょっとうろ覚え)このシーンから感じられるのは、シーバへの実に冷ややかなスタンス。で、振り返ると最初にシーバが現れた時のバーバラの態度はまるで、自分が書いた脚本にぴったりの新人役者を見つけたような口ぶり。

シーバに対する強烈な執着はバーバラが思い描く「私と親友の親密な関係」という物語(それは実に異常なる依存関係なのだが)を何としても完遂させたいという思い。結局シーバが好きなのではなく、自分のことが一番好きなのよ、バーバラって人は。私のことを一番に思ってくれる親友が私にはいます、っていう甘美な思いに浸りたいんだね。

相手の秘密を知った日の日記に金星のマークをつけるなんて、こんなイヤな女はそうそういないんだけど、ジュディ・デンチの熱演によって、私はだんだんこの人が哀れに見えてきた。バスルームでひとりむなしさを吐露しながらタバコを吸うシーン、何とか親身になりたい妹の申し出に思いやりを感じ取れない状況、何もかもが哀れだった。

シーバをかくまった時にパパラッチが「ババアの方が出てきた!」みたいな口ぶりだったでしょ。中年の独身女への偏見や社会の圧力が積もり積もって、バーバラはあんな性格になってしまったのかも知れない。生徒も教師たちも、みんなバーバラには心を開かないもんね。まあ、そういうバリアを自分から出しているわけだから、ますます孤立してしまうのも当然なんだけど。

ケイト・ブランシェットに関して言えば、終盤のキレ具合がすごかった。それまでいい母親を演じ続けてきた大人しそうな性格ばかりクローズアップされていたから、あの変わりっぷりは面白かった。92分、ただならぬ緊張感に満ち満ちていました。

それにしても、この映画女性の友人同士で見に行くのは避けた方がいい。もしかして、「この人…」なんて疑心暗鬼になってしまうかも知れないです。
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by galarina | 2007-06-30 21:17 | 映画(あ行)

エレファント

2003年/アメリカ 監督/ガス・ヴァン・サント

「交差すれど交錯しない若者たち」

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アメリカのコロンバイン高校の銃撃事件を題材にして、素人の高校生をオーディションで選び起用して作り上げた問題作。2003年のカンヌ国際映画祭で、史上初のパルムドール&監督賞をダブル受賞した。

ガス・ヴァン・サントは、全ての少年少女たちを同じ地平で描いている。もし、犯人の少年二人を主役としては描けば、彼らが「悪」になったり、いじめの「犠牲者」だったりして、必ずそこには「対立軸」が存在する。しかし、何かと何かを対立させる見せ方を、この作品は一切拒んでいる。そこが、実に印象的なのだ。

そのことによって、浮かび上がるのは何か。本作は、日常に静かに溶け込む暴力を表現しているのに間違いはないが、私が感じたのはむしろ、凶行を行う少年たちではない、普通の学生たちの日常の空虚さだ。一人ひとりの学生の名前が紹介され、カメラは後ろ姿を捉え続ける。それぞれの学生が交差することはあっても、交錯することは一切ない。その描き方はまるで、路線図の上を黙々と通過する地下鉄のよう。衝突することは決してないのだ。

「クラッシュ」という作品で、人間はクラッシュして浮かび上がることがあると書いたけれど、彼らはクラッシュしない。ただ、横をすり抜けていくだけだ。そのことを、淡々と後ろ姿を捉え続けるカメラワークが如実に物語っている。だからこそ、たった一度のクラッシュに心奪われる。

犯人の少年たちがジョンに「中にはいるな。地獄になるぞ」と語りかけるシーンだ。それまで、少年たちが交わすのは日常会話に過ぎなかった。ようやく登場人物が相手の領域に踏み込む表現が出るのだが、それがこの警告の言葉。実にやりきれない。

確かに多くを語らない映画である。学生の虚無感と交錯しない若者たち、という印象だって、もちろん私なりの感じ方。しかし、ただひたすらに少年たちの後ろ姿を追い続けるという手法をなぜガス・ヴァン・サントはチョイスしたのか。その点に思いを巡らせると、鑑賞後も様々な考えが頭に浮かぶ。81分と短い作品だが、鑑賞後の余韻はいつまでも続く。
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by galarina | 2007-06-25 20:40 | 映画(あ行)

赤目四十八瀧心中未遂

2003年/日本 監督/荒戸源次郎

「何も変えれぬ男に用などないわ!」
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と過激な啖呵を切ってしまいましたが、生きる意味を失った男・生島のいじけぶりに後半イライラしてしまいました。私この作品ずっと、芥川賞受賞作だと思っていたのですよ。直木賞なんですね。なんでこんなに暗い話が直木賞なんだろう。

さて、のっけから文句を言いましたが、物語の前半はなかなか惹きつけられるものがありました。「ぼくには甲斐性がありません」と黙々と臓物を串に刺す毎日。来る日も来る日も臓物にまみれるという極めて劣悪な仕事にこそ、自分の居場所を見いだす生島自身にダメ男ならではの魅力がうかがえます。また「臓物」をビジュアルでとらえると、その生々しさにドキリとさせられる。毎日「臓物」を届けに来る男、新井浩文の存在も光ってます。

しかし、最終的には生島自身は生きる意味を見つけることも、自分に自信を取り戻すこともできなかった。ふたりの愛の証である新聞紙にくるまれたパンティーも消えてしまった。何とかわいそうな男よ、生島。おまえは「尼(あま)」という異空間に自ら飛び込み臓物と共に自らを埋没させるつもりであったのに、「アンタはここにいる人やない」と自分の意思とは関係なく引っ張り上げられてしまった。それでもなお、自分を変えることはできなかった。そういうひとりの男の絶望のお話。生島のナルシスト的な自虐愛に終盤かなり疲れを感じました。

全く異なるスタイルの映画ですが、昨日「さよならみどりちゃん」のいじけぶりに共感すると書きました。しかし、ゆうこはラストにほんの少しの背伸びをするのに、本作の生島はダメ男のままです。これは、いかにも小説世界の展開で、「おお、なんと哀れな男の一生よ」と言う読後感なんでしょうが、映画になると、綾と言う生身の女を目の前にして、天から降ってきたチャンスをむざむざと逃してしまったダメ男ではなくバカ男に見えてしまいました。

むしろ、本作の見どころは「尼」という異空間そのもの。異空間というよりも、もはや異次元。ぼろアパートを中心に猥雑な商店街を徘徊する奇々怪々な尼の人々がいる風景は、ワンダーランドです。私は関西人ですが、関西を描けばどれも一緒なそんじょそこらの作品とはまるで異質。中でも、彫物師を演じる内田裕也の収まり具合は恐ろしいほどで、この人がいないと「尼」は「尼」でなくなる。それくらいの存在感を放ってました。映画俳優、内田裕也がこんなに光って見えたのは「十階のモスキート」以来で、実に感慨深い。

赤目四十八滝の美しい滝のシーンと対比すれば、醜悪な「尼」の街ではあるけれど、私には夢の世界に見えました。蝶を追いかける少年が見た白昼夢。夢の世界であるならば、生島という男の一生にも哀れを感じます。
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by galarina | 2007-06-18 23:06 | 映画(あ行)

エレファント・マン

1980年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ

「いかがわしい好奇心と崇高な好奇心」
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一体人間の「好奇心」とは何なのだろうと考えずにはいられない。見世物小屋で働くエレファントマンと呼ばれる男、ジョン・メリックは、その奇っ怪なる顔を一度見てみたいという大衆の好奇心に晒されて生きている。もちろん、それは彼が望んでいることではない。しかし、彼に治療を施し人間らしい暮らしを提供するフレデリック博士だって、医者として珍しい症例に対する好奇心が少なからずあったから彼に近づいたんだろうし、このテーマに取り組んだデヴィッド・リンチにも異形の者に対する好奇心があるに違いない。

大衆の好奇心はジョンを傷つける。フレデリック博士の好奇心はジョンに人間らしい生き方を与える。そして、リンチの好奇心は我々に人間の尊厳とは何かを考えさせる。

私は人間にとって「好奇心」は非常に大事な要素だと思っている。恐ろしいのはむしろ「無関心」だと。だから、夜な夜なジョンの顔を覗きにやってくる人々よりも、彼と親しくなることで貴族社会での名誉を得ようとする人々の方が、人間的には奇異に感じられる。そして、化け物扱いしていた人物を紳士に仕立て上げて社交界で持ち上げる。その手のひらを返したような人間心理の恐ろしさ、大衆の愚かさを感じて仕方なかった。

デヴィッド・リンチ自身は異形の人々に対し、ひとかたならぬ愛情があるんだろうと思う。それは、一見してキワモノ趣味やゲテモノ趣味と取られかねない。しかし、実に印象的なシーンがある。それはフレデリック博士が初めて見世物小屋でジョンの顔を見たシーン。カメラはフレデリック博士に近づき、顔のアップ。そして彼はポロポロと涙を流す。まるで聖なるものや奇跡に出会った時に自然にあふれ出る涙のようなシークエンス。ここに私はリンチの愛を感じるのです。

また、冒頭人間の目がアップになるシーンもリンチ的で興味深い。「目のアップ」は、見る者と見られる者の関係性、つまり主体と客観の在り方についての投げかけだろうと思う。目をどんどんアップにすると、瞳の中に映っているものが見えてくる。見ていると思っているものが見られる者に取り込まれるような感覚。主体と客観の同一化とでも言おうか。

話が少し横道にそれるが、岡崎京子の漫画にも「目のアップ」が多用されているのを思い出す。後期の作品には嫌と言うほど目のアップが出てくる。「ヘルタースケルター」のラストシーンはほぼ「ブルーベルベット」なもので、彼女がリンチに影響されていたのは間違いないと思うのだが、岡崎作品にも常に出てくるテーマが「見られて生きることの生き難さ」であった。私は岡崎ファンで作中何度も見ていた、その目のモチーフはすでにリンチが2作目で出していたんだな、と思うと感慨深いものがある。

本作は、エレファントマンと呼ばれた男、ジョン・メリックが人間としての尊厳を手に入れようとして死んでいくという感動作である一方、リンチ独特の幻惑的な映像がカルトムービーとしてのテイストを生み出している。その匂い立ついかがわしさは、観客の好奇心をくすぐる。映画を見たいという衝動も大いなる好奇心の表れなんだろう。
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by galarina | 2007-06-06 17:50 | 映画(あ行)

UDON

2006年/日本 監督/本広克行

「いい意味で裏切られた」
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フジテレビ製作、しかも宣伝の割には人が入らなかったなど、ネガティブな印象が強く見始めたのですが、これが思ったよりも真摯な作りで期待以上。やっぱり映画って前評判と関係なく見るべきなんだなあ。

物語は前半と後半に分かれていると漏れ聞いていたのですが、私はそうは感じなかった。むしろ、この物語は「讃岐うどん」そのものが主役だと考えると、実に一貫したストーリーとして捉えることができる。しかも、この言いたいこと=テーマが押しつけがましくなく、丁寧に作られていることに実に好感が持てる。

香助たち、麺通団の活動によってブームになってしまったうどんは、地元の人の手から離れて流行の産物となってしまいます。しかし、ブームはやがて過ぎ去りうどんは落ちぶれる。後半は一転して父と息子の物語に、と言う人がいますけど、私が感じたのはそうじゃない。つまり物語はうどんを再び地元の人の手に返すということに転じていくのです

物語上は父親の死がきっかけにはなっていますが、香助が自分で麺を打ったのは、流行の産物に仕立ててしまった責任を取り、けじめをつけるためとも考えられます。そして、香助が店を継ぐのか、と思わせておいて、そうしないのも粋な展開です。だって「うどんを地元の人に返さないと」意味がないわけですから。そして、続くオチも蛇足なんかではない。つまり、香助はかの地でもうどんの伝道師を続けているというわけです。

結局、物語を動かすのは香助ですが、地域に根付くソウルフードは、なぜソウルフード足りうるのか、というお話。地元の小中学生が、早く松井のうどんが食べたいと書き込むシーンなど実に心温まるエピソードに感じられましたし、地元住民の松本明子が行列の人々が落としていった空き缶を拾う後ろ姿も良かった。作り手がどれほど「うどん」をよく知り、愛しているかが伝わってきました。

麺通団のいきさつも、私は同業者なので思うことがいろいろ。やっぱり、自分の足を使って、自分で食べて、自分で感じたことを記事にすることって大切!こんなにちゃんと取材して回る編集部って、そうそうないもんです、ここだけの話(笑)。なぜ、うどんがブームになったか。それは麺通団がうどんに感動したから。そこんところも数々のうどんビジュアルを通じて共有できました。

もちろん、難を言い出すといろいろあるのは間違いない。小西真奈美のナレーションはくどいし、尺は長いし。でも、私はいい意味で裏切られ、楽しめました。これはもしかしたら「踊る大捜査線シリーズの本広克行監督が」という触れ込みで見る人がターゲットじゃないかも知れないなあ。いやはや映画の宣伝の仕方ってホント難しい。見て欲しいターゲットを逃していたんじゃないだろうか。
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by galarina | 2007-06-05 20:45 | 映画(あ行)