「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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カテゴリ:映画(あ行)( 68 )

悪魔の手毬歌

1977年/日本 監督/市川崑

「磯川警部にもっとスポットを当てた方が良かった」

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角川で大ヒットした作品をを東宝に移しての2作目。市川+石坂版では、最高傑作と言われることが多いようですが、私は獄門島の方が好きです。その評価の高さは、若山富三郎が演じる磯川警部と岸恵子が演じる青池リカの悲恋にあるようで、確かに原作よりはうまく料理できていると思います。ただ、作品全体を眺めると磯川警部の存在感は決して大きくないんですね。その理由は、私は加藤武演じる立花警部の存在感のせいだと思います。一つの事件にふたりの警部が共存しているんです。これ、原作は違うだろうと思ってました。「よーし、わかった!」のセリフを言わせるために無理矢理キャスティングしたんだろうと。そしたら、原作もそうだったんです。驚きました。ただ原作の立花警部はもっと地味で名台詞も言わないし、薬も持ち歩いてません。

この年は続けて「獄門島」も発表しており、加藤武はそっちも出演しています。ですから、いっそのこと「悪魔」は磯川警部に絞っても良かったんじゃないでしょうか。そしたら、リカとの悲恋ももっとクローズアップされたのに。元々原作の金田一シリーズにおいて磯川警部は、どのキャラよりも金田一と親交が深く、原作ファンには思い入れの深い存在。でも、加藤武というキャラがそのポジションを奪ってしまってるんですからね。本シリーズにおける笑いの要素というのは、とても重要なのはわかるのだけど、加藤武が出ずとも、大滝修治やら三木のり平がその役割を十分果たせています。本作の大滝修治は最高です。それから、白石加代子もすごいです。気味が悪くてぞわ~と鳥肌が立ちそうになります。

そして、市川作品にも数多く出演している岸恵子。さすがに市川監督は美しく撮っています。しかも、なぜか市川監督はリカというキャラクターに「おっちょこちょいで忘れっぽい女」という肉付けを行っています。そのことによって、リカは終始お茶目で明るくて生き生きとした女に見え、一転して後半は犯人の抱える哀切へと繋げていく。原作にはない、登場人物の新たな一面を加えるというのが市川監督は実にうまい。それは、原作を変えてオリジナリティを出したいということではなく、原作を深く読み理解しているからこそできることだと思います。

市川監督が金田一耕助を語る時に「天使」とか「神の視点」のようなことを話しているのを聞いたことがあります。なるほど金田一を前にしての犯人の告白は懺悔のようでもあります。原作でリカは放火をした後、沼に転げ落ちて事故死するのですが、映画ではしっかり懺悔のシーンが用意されています。そして、ラスト。「あなたはリカさんを愛していたのですね」という言葉が、走りゆく機関車の音にかき消されてゆく。ここはシリーズ中最も印象に残る名シーンではないでしょうか。
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by galarina | 2007-12-16 23:48 | 映画(あ行)

赤い殺意

1964年/日本 監督/今村昌平

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この時代の今村監督の作品は、モノクロのコントラストが実に美しい。市川崑が「黒を作り出す」巧さだとすると、今村昌平は「白を作り出す」巧さではないでしょうか。いや「白」と言うより「光」の使い方と言った方が正しいか。

春川ますみ演じる主人公貞子は、いつも毛糸の帽子に野暮ったいスカートを履き、体も太っているし、はっきり言って美人ではない。そんな彼女が幾度となく強盗犯に陵辱される。のけぞる彼女の顔、特にぽっちゃりとした頬に光が照らされる。その時の彼女の艶めかしさと言ったらこの上ない。それは、レイプされる女を美しく撮ろうというごまかしの映像では決してなく、言われなき陵辱に為す術もない女の顔に迫れば迫るほど、恐ろしいような美しさが際だってくるのだ。

このようにどこに光を当てるかで、見せたいもの、強調したいものを瞬時に観る側に悟らせる。これは、モノクロ映画ならではのテクニックだろう。光の存在は、特に室内の撮影で効果を発揮している。安普請の日本家屋、無理矢理連れて行かれる連れ込み宿、強盗犯が勤めるストリップ小屋。どこにいても光の存在が際だつ。不幸を絵に描いたような貞子と言う女の物語の泥臭さと「白」の強調がもたらす映像の美しさが見事に溶け合っている。先に書いた「にっぽん昆虫記」も同様だ。

夫、姑、社会、制度。あらゆる呪縛にただただ耐える女、貞子。夫からぶたれようが、姑からいじめられようが、愛人から馬鹿にされようが、「わたしはなにもできない女」という思い込みは、骨まで染みている。あげくの果てに強盗犯にレイプされ、付きまとわれ、いいことなんかなんもないと世の中を嘆く。貞子という女はとことん無力で、自分を卑下して生きている。その様は、現代人にはとてつもなく愚鈍に見えるが、しかし、女という生き物の一つの側面であることには間違いない。一方、貞子を囲むふたりの男。妻をいびることしか頭にない夫(西村晃夫)と死期を前に強引に女に迫る男(露口茂)は非常に身勝手だし、器が小さい。が、しかし、その狭量さもまた、男という生き物の確かな側面なのだろう。人間の醜さやずるさを切り口にして、「生」を鮮やかに描く。これぞ、今村昌平の真骨頂。

自ら自分を変えようという積極的な意思はかけらもなく、ただ男の好き放題に呑み込まれるだけの貞子だが、それゆえ、多くの修羅場を切り抜け、ほんの少しの強さを身につける。夫には絶対服従だった貞子が、夜中にザッザッと編み機を動かす。「うるさい」と言われても動かす。「子どもの学費がいりますから」と初めて口答えする。そのほんの少しの第一歩は貞子をこれからどう変えていくのか、彼女の後ろ姿に思いを馳せる、秀逸なラストシーンだ。
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by galarina | 2007-11-28 23:19 | 映画(あ行)

アラキメンタリ

2004年/アメリカ 監督/トラヴィス・クローゼ

「ドキュメンタリー以前」


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若い外国人監督と言うことで、ほとんどアラーキーの紹介に終始していて、ファンとしては目新しいことがなく、ちょっと残念な作品。外国人の目から見た、日本的エロスの代表者なんでしょう、アラーキーは。ゆえに緊縛などのヌード写真の様子をメインに展開している。が、しかし、緊縛写真だけで荒木を語ることができないのは、ファンなら誰しも知っていることで、確かに陽子夫人の話やその他の写真も展開されているが、全体的には女性の局部の残像だけが残ってしまった感じだ。もう少し、違う切り口があっただろうに。

例えば、女性の緊縛写真を海外で発表する際、フェミニズムの観点から「こんな写真は展示できない」と拒否されることがあると言う。その摩擦はなぜ起きるのか。海外に向けて荒木というカメラマンを紹介するには格好の材料だと思うのだけど。なぜ、荒木の前で女たちは何もかもさらけ出すのか。見た目ただのエロ爺にしか見えない荒木をなぜみんなはモンスターと恐れるのか。ネタはいっぱい転がってるのに、ただ撮影風景と関係者のインタビューをダラダラと撮っているだけなんだなあ。これは、ドキュメンタリーと言うよりも、もっと前段階のフィルムですよ…

ダイアン・アーバスを見たばかりなので、ちょっとその観点で。フリークスを撮影したいという衝動に逆らえなくなったダイアンを夫のアランは理解できなかった。ダイアンはその後離婚し、48歳という若さで自殺している。一方、女性の裸を追い求め、局部にまで迫る荒木を、陽子夫人は理解した。いや、彼女こそ、最大の理解者であった。赤裸々なセックスの写真も含む新婚旅行での日々を撮った写真集を当時電通に勤めていた陽子夫人は自ら売り込んでいたと言う。(このエピソードは本作の中で荒木自身の口から語られていて、こういう部分をもっと突っ込めなかったかなあ、と思う)

やっぱり、自分の傍に理解者がいるかどうかということは、表現者の生き方に大きな影響を及ぼすんだなあ。だって、アラーキーはどこに行っても歓迎され、多くの人に愛され、陽気にふるまう。きっと、それは陽子夫人が彼を理解し、彼に大きな自信を与えていたからだと思う。というわけで、作品が今イチだったので、今から「センチメンタルな旅」でも見て気分を盛り上げるのだ。
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by galarina | 2007-11-27 23:21 | 映画(あ行)

犬神家の一族

1976年/日本 監督/市川崑

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横溝作品の映画化が大成功を収めた一番大きな要因は、市川崑の「様式美」が持ち込まれたことだ。横溝作品に美しさがないということはないが、作品に「品格」を与えるような美しさが生まれたのは、やはり市川監督の手腕に他ならない。その「様式美」を成すのは市川流の流麗なカメラワーク。そして、古い日本建築の徹底的なこだわりようだ。犬神家では、壮大なお屋敷の中の襖絵や金屏風、古びた商人宿の柱時計に至るまで戦後の日本が美しく再現されている。超都会っ子の小学生の私にとっては、横溝+市川版は一種のファンタジー映画だった。その完璧なまでの世界観は、ありえない世界。おとぎ話だったのだ。

そして、原作よりもコミカルな部分が多いこと。原作において、喜劇的な側面はほとんど金田一耕助がひとりで担っている。しかし、映画では「よーし、わかった!」の名ゼリフの橘警部を演じる加藤武を始め、三木のり平や坂口良子といったメンバーがそこかしこで軽妙なムードを作り出す。それは、おどろおどろしい殺人事件と絶妙な緩急を作り出している。そして、ルパンシリーズで有名な大野雄二の音楽が、実に現代的でいい。

こうした、現代にマッチさせるための工夫がある一方で、市川監督は本シリーズに横溝作品における大切なモチーフを、より増幅させて表現している。それは「哀切」のムードだ。最も代表的なのは、ラストの金田一の別れのシーンだろう。「見送られるのは苦手なんです」と事件現場を去る金田一の後ろ姿に、事件のやるせなさが余韻としてじんわりと残る。このラストの切なさこそ、金田一シリーズの肝になった。犯人松子を殺人に駆り立てていたのは、佐兵衛翁の怨念ではないか、という含みも実は映画独自の解釈なのだが、これまた悲しき殺人者像を作り上げるすばらしいアイデアであったと思う。

何度も見てもラストまでぐいぐい引っ張る。横溝作品に限らず、あらゆるミステリーにおいて真犯人の独白は、この上ないカタルシスを見る者に与えるが、本作においては高峰三枝子の熱演が光る。最初は金田一の来訪にも堂々とふるまっていた松子。が、観念して静馬殺害を告白し回想シーンの後、アップに切り替わった時の、あの魂が抜けたような表情。本作以降、殺人犯こそ、女優としての気概を見せる格好の役どころになった。これまた、実に画期的な出来事だったのではないだろうか。
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by galarina | 2007-11-26 22:34 | 映画(あ行)

あの子を探して

1995年/中国  監督/チャン・イーモウ

「とてもいい話なのに、どこまで素直に受け止めていいかわからない」

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過疎の村の小学校の代用教員になった13歳の少女ウェイは、1ヶ月間生徒が誰ひとり学校を辞めなかったら50元もらえるということで、授業もそっちのけでひたすら生徒たちの監視を続けていく。そんなある日、クラスのひとりホエクーが、出稼ぎに行ってしまった。ウェイはチャンを探しに町へ赴くのだが…。

これほど、感想を書くのが難しい作品は未だかつてないかも。なぜなら、セミ・ドキュメンタリーという構成は、どこまでが現実でどこからが虚構なのか、わからなくなってしまうからだ。表向きは感動作品であり、もちろん、このまま素直に受け止めればいい。ラストの黒板のシーンなんて、とっても美しくて思わず泣けてきた。ところが、このシーンにとあるナレーションがかぶさって、一気に私の涙が止まる。それは、ウェイがテレビに出たことによって、これこれの寄付があり、そのお金をこのように使いました、と言う内容のものなのだ。

ホエクーが出稼ぎに出かけ、必至にウェイが街で彼を捜し、テレビで涙の訴えをする。それらは、私はあくまでも素人の子供たちを使った架空の物語だと思っていた。もちろん、この物語の背景である中国や抱える教育問題は事実なんだろうと思う。過疎で貧しい子供たちが直面している現実。それこそがこの作品の訴えたいことであろう。しかしながら、この物語がきちんとした脚本に基づいたものだとしたら、この寄付をした人はいっぱい食わされたということにならないだろうか。

それとも、ウェイが代用教員になったことも、ホエクーが出稼ぎに出かけたことも、事実なの?だったら、寄付の話も納得できるんだけど。本作、メイキングが出ているらしいので、この疑問もそれを見ればわかることなのかも知れない。でも、メイキングを見ないとはっきりとした感想が書けない作品って、どうも納得できない。だから、セミ・ドキュメンタリーという作風は感想が書きづらいのだ。

出てくる大人が、子供たち対して冷たい。これにしても、本当にそういう反応だったのか、それともイーモウ監督の演出なのか。どちらかによって、私の感想も変わってくる。ああ、ややこしい。

子供たちの生き生きとした様子は見ていて気持ちよかった。貧しいながらも女の子たちが来ている洋服がかわいくてね。やっぱり女の子だから赤い色の洋服が多くて、それが村の景色と相まってすごくきれいに見える。ホエクーに勉強をさせたいわけじゃなくて、ただお金が欲しいから探しに行くんだって言う動機も実に子どもらしくていいなと思う。ウェイという女の子の性格は、とても頑固なのよね。融通が効かないの。いつもぶすっとしているし。その辺は妙なヒューマニズムを持ち込んでなくて、とてもいいと思う。ラストに向けて「いい話だなあ」とじわ~んとしていただけに、なんで最後の最後になって現実に戻すようなナレーションを入れたのか、本当に合点がいかない。
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by galarina | 2007-11-19 23:21 | 映画(あ行)

アンテナ

2003年/日本 監督/熊切和嘉

「コンセントと見比べると面白い」
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原作「コンセント」と「アンテナ」、設定は違いますがテーマは似ています。家族を失った喪失感を埋めるプロセスを描くということ。そして、そのプロセスには性的な解放が欠かせないということ。作品を貫く陰鬱なムードもほぼ変わりません。なのに、映画として「コンセント」と「アンテナ」を見比べてみると、その違いはどうでしょう。監督によってこうも変わるものかと言うほど。なので、私は「原作の映画化」ということを考える上で、この2作品を見比べるというのは、なかなか面白い作業ではないかと思います。

で。熊切監督はネクラな原作をさらにずんどこまで暗くしました。いやあ、頭を抱えたくなるほど暗いです。しかし、その暗さを超えて、見ている側に訴えかけてくる力を持っている。ストーリーは知っているのに、祐一郎が抱えるやりきれなさにどんどん同化していく自分がいました。誰の視点で捉えているのかわからない階段からリビングを見下ろすショット、鏡に映る妹の姿、廊下にぽつんと置かれた扇風機など、特に自宅内の描写は不安定なムードを助長します。

この暗さの増幅と言うのは、主人公が女性から男性に変わったことも大きいかも知れません。祐一郎を演じる加瀬亮。渾身の演技。役者魂を感じます。ある意味、加瀬亮と言う役者にとことんフォーカスするなら、これぐらいの暗いムードで迫らなければならなかったと言えるのかも知れない。もちろん、どちらが良いと言うわけではなく、双方の監督は「原作の映画化」という命題に対して決してそのままなぞらえるのではなく、共にとことん「らしさ」を発揮したのです。一つ難を言うと、女王様を演じる女優の存在感。そして、映画としてどっちが好みかと聞かれると、私は「コンセント」です。
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by galarina | 2007-10-11 23:28 | 映画(あ行)

おかえり

1995年/日本 監督/篠崎誠

「役者の存在感が際だつ即興演出」
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だんだん精神に異常をきたす妻とそれを見守る夫の物語。北野組ではヤクザ役の多い寺島進が本作では一転して物静かな夫役を好演している。

一緒に住んでいるパートナーが精神的に病んでいく、それを目の当たりにした時、人はどのような行動を取るだろうか。なぜ彼女はおかしくなったのか。作品中では語られることはない。普通なら夫はその原因を突き止めようとするだろう。ましてや夫婦ふたりきりの暮らしなら、原因は自分にあるのではないか、とパニックになるかも知れない。しかし、この作品の夫が最後に選んだ行動。それは、ただ黙って彼女に寄り添うこと。

本作は妻がおかしくなる様子を含め、実に淡々と物語が進む。場面も薄暗いマンションの一室がほとんどなので、つい寝てしまいそうになる、と言ってもおかしくない程。でもその静けさは全て、ラストシーンのためにあると言ってもいいのかも知れない。ふたりでキッチンの壁にもたれて座り込み、ただ黙って肩を寄り添いあうラストシーン。とてもとても長いワンカット。それは、いつも君のそばにいる、と言う夫の決意の現れであるのだが、その何と静かで穏やかなこと。ゆるやかに顔を照らし始める窓からの日差しがあたたかく二人を包み込むよう。

カメラは、実に長い時間夫婦ふたりの顔をとらえて離さない。その間、監督はどう演技指導したのだろう。目の前にいる二人の演技は、リアルというよりも、「素」のまんまという感じ。おそらく即興的な演出ではないだろうか。本作は、物語そのものに起伏はないけれど、全編に渡って見受けられる即興性がこの先どうなるのか見えない、という不安感を誘う。その綱渡り的な雰囲気が妻が精神的に不安定になっていく、というストーリーとうまくリンクしている。ものすごく地味な映画であるが、やってることは結構挑戦的な一本ではないかと思う。
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by galarina | 2007-10-02 23:55 | 映画(あ行)

アラバマ物語

1962年/アメリカ 監督/ロバート・マリガン

「その正義はどこから来たのか」
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1932年、アラバマ州。妻を亡くし幼い息子と娘を抱える弁護士フィンチ(グレゴリー・ペック)は、暴行事件で訴えられた黒人トムの弁護を引き受ける。だが黒人への偏見が強い町の人々はフィンチに冷たく当たるのだった…。

本作は黒人の人権問題とスカウトと言うひとりの少女の成長物語という、一見して合いづらいモチーフがしっかりと融合していることがすばらしい部分だと思う。「白人たちが黒人は悪いことをすると思ってしまう感性」と「スカウトがブーのことを怖いと思っている感性」は、見事にオーバーラップしている。それは、本質をしっかりと見ないことがもたらす恐怖である。物語の結末から見ると、その間違った見識を正しく取り戻すのは、大人の白人たちではなく、少女であるスカウトの方。だから、この作品はスカウトの物語として観た方が私にはしっくり来る。人権問題に焦点を当てながら本作を見ていると、どうも納得しがたい感情が残ってしまうのだ。

主人公アティカスの生き方を否定するつもりは毛頭なく、むしろ偏見に立ち向かった勇気と正義感にあふれた人物だと思う。しかしながら、視点をどんどん引いていって作品全体を眺めた時に感じるのは、白人特有の奢りなのだ。アティカスは未だに「アメリカの父」とも呼ばれるシンボリックな存在のようだが、現代アメリカ人(白人)が自己を投影してしまうような人物像に、私はいささか懐疑の念を禁じ得ない。(まあ、ちょっとひねくれた見方なのかも知れないが、笑)。

それは、アティカスの行為の源を「正義感」という概念に頼るのかどうか、という点に尽きると思う。本作の制作は1962年とある。キング牧師の有名な“I Have a Dream”の演説が1963年のことだから、黒人の人権運動が活発に行われる中、このような映画が制作されたこと自体は、意義あることなのだろう。しかしながら、時を経て、アティカスの行動と世界を牛耳ろうとする現代アメリカのメンタリティに共通点を見いだしてしまう。むしろ、アティカスにはトムを助けたい「個人的な理由」があった方がすっと心に馴染む。

同じテーマでアラバマが舞台である、先日レビューした「ロング・ウォーク・ホーム」の方が私は格段に好きだ。それは黒人差別という大きなテーマが「個」の物語へとしっかりシフトされているからだ。おそらく善人を絵に描いたようなアティカスという人物を素直に受け入れられないのは、今の私がアメリカ人が示す「正義」に首を傾げたくなることが多いからだ。

原作者は、ハーパー・リーという女性であり、自伝的物語として発表したのだけれども、グレゴリー・ペックという当代随一の人気俳優を起用したことで、アティカスは理想の父として祭りあげられる。それは、果たしてハーパー・リーの本意だったのだろうか。「善き白人像」を広く知らしめるために本作は作られたのか、と言う思いがチラリと頭をかすめる。このあたりのニュアンスは、原作を読めばわかることなのかも知れない。機会があればぜひ読んでみたいと思う。
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by galarina | 2007-09-25 22:45 | 映画(あ行)

8mm

1998年/アメリカ 監督/ジョエル・シューマカー

「正義をふりかざす時の動機づけがきちんと描けていたならば」
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猟奇ものやアンダーグラウンドの見せ方が、ハリウッドは上手だ。もちろん、それは見せ方のテクニックに長けているということで、アメリカにこういう趣味の人が多いからということでは決してない。こういう趣味の人間というのは世界中に存在している。しかし、本当に目の前にすれば嫌悪感を抱くに違いない人々とそれらにまつわる事をエンターテイメントとして描ける。それがアメリカ。その事実は、倫理的な側面から見れば、実に嘆かわしいことなのかも知れない。だけども、そういう世界を覗いてみたいという観客の好奇心を本作は確実に捉えている。

で、そのテクニックとは、アンダーグラウンドワールドを決してセンセーショナルに見せない、ということなのだと思う。主人公トムが秘密クラブに潜入すると、各種変態どもがうようようごめいているけれども、カメラは彼らをなめるように動いたり、行為をしている人をアップで捉えたりはしない。また主人公を演じるニコラス・ケイジは必要以上に驚いたり、騒いだりせず、黙々と捜査を進めている。おそらく好奇心丸出しの演出は、観客自身に跳ね返ってきてしまうのだ。こんなものを見ている自分は間違っているんじゃないだろうか、と。観客が自分自身を責めてしまえば、エンターテイメントとしては成り立たなくなる。

そういう演出上の効果もあり、前半部は殺人フィルムの存在の有無についてスリリングな展開が味わえる。だが、人間の好奇心というのはやっかいなもので、いざ真相がわかってくると、一気にボルテージが下がってしまう。それを見越してかどうか、ラストにかけて物語は悪いヤツどもを成敗するお話へと様変わりしていく。しかし、残念なことにこの視点移動がどうもスムーズに進んでいない。一番大きいのは主人公がそこまでの怒りを持つに至る動機が弱いことだろう。「決着をつけられるのは俺しかいない」と言って家族の元を去るけど、この主人公はそんなに正義感の強い人間だったであろうか。

殺された少女の家族ではなく、トムが復讐するという行為は、すなわちトムと共に謎を追った我々観客自身がこの卑劣な者どもを成敗することを意味している。しかしながら、悪を葬り去ったという余韻にはなかなか浸れない。それは何より、猟奇的な世界への好奇心という観客の本能が本作を支えるものだからだ。そこには、避けがたい矛盾がある。だが、殺人フィルムを観客に対するエサとしてだけ利用するのではなく、なんとか決着を付けさせようとした気持ちは買いたい。なぜなら、エサだけで終わってしまう映画が世の中にはたくさんあるからだ。トムの心に彼らを罰しなければならないというスイッチが入る瞬間。そこがどこだったのか、私にはわかりづらかった。そこが納得できれば、困難なチャレンジをクリアできた作品になったように思う。
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by galarina | 2007-09-09 23:43 | 映画(あ行)
1991年/日本 監督/北野武

「優しさと、愛と」

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「退屈な映画」とは、何をもって退屈と感じるのだろう。私は何度もこの作品を見ているが、このあまりにセリフの少ない、あまりに静かな物語を、退屈だと思ったことは一度もない。主人公が泣き叫んだり、爆弾がひっきりなしに落ちたりしても、退屈だと思う映画はいくらでもあるのに。

主人公二人のバックボーンについて、映画は一切を語らない。しかも、二人は言葉が不自由だからセリフがない。我々は見ながらそれらを想像するしかない。しかし、この作品には、想像しなければならないことの「もどかしさ」がない。そこが退屈だとは思わない大きなポイントなのだと思う。なぜ、わからないことがもどかしくないのか。それは、セリフではなく映像が我々に語りかけているからだ。全てのシーンが、私たちに語りかけている。それに耳を傾け、想像することの何と楽しいこと。

例えば、主人公の彼女がサーフボードの値引きを頼んでいるシーン。カメラは主人公の位置にあり、彼女はガラス越し。聾唖の彼女が一体どうやって値引きを頼むのか。その様子もガラス越しゆえによくわからない。こんな些細なシーンでも、私は様々な想像が頭をよぎる。もしかして、彼女は耳が不自由でも、言葉はしゃべられるのかも知れない、というストーリー上のイマジネーション。

そして、北野監督は彼らが聾唖であるという事実をことさら映像で強調したくないのかも知れない。または、主人公の彼女を思いやるハラハラした気持ちを観客に同化させるためにこのようにしたのかも知れない、という演出上のイマジネーション。北野作品の場合、「このシーンはこういうことかしらね」と自分なりの想像や感じ方を誰かと語りたいシーンが本当に多い。本作は、セリフがとても少ないので余計なのだが、挙げ始めるときりがないのだ。

サーフボードという小道具の使い方で二人の思いや距離感を表現するやり方も実に巧い。前と後ろをふたりで持って堤防を歩く様子で、心の動きが手に取るようにわかる。いつも、ボードのお尻を持って、彼の後を控え目に歩いていた彼女。なのに、主人公の死後の回想シーンでは、彼女がサーフボードの前を持って、大手を振って浜辺を行進している様子が挿入される。もう、これには、参りました。涙腺弾けちゃうし。

この幸せだったあの頃の一コマが次々と挿入されるラストシークエンスは、見せないことを信条とする北野作品にしては珍しいと言えるほどのわかりやすさ。しかし、やはり「愛」を描くんですもの。最後にこれくらいは盛り上げてもらわないと。「愛」を真正面から捉えた北野作品は、今のところこれしかなく、何とかもう1本作ってくれないかな、と願うばかり。

そして、本作では「思いやり」や「優しさ」と言ったものが実にストレートに表現されている。(ストレートと言っても北野武なんだからハリウッドばりのストレートさじゃないですよ、もちろん)清掃車の相棒の河原さぶとサーフショップの店長。この二人が示すじんわりとした優しさの表現を見れば、北野武なる人物が死と暴力の表現にがんじがらめになっていないことは明らか。愛はもちろんのこと、難病や介護などヒューマンなテーマだってきっと面白い作品が撮れそうな気がする。まあ、武のことだから、そんなストレートな題材選びはしないんだろうけど。
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by galarina | 2007-08-28 23:13 | 映画(あ行)