「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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カテゴリ:映画の原作( 8 )

原作/悪魔の手毬歌

発表年/昭和32年
舞台/昭和30年7月、岡山県・鬼首村


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「見立て殺人」で、かつ「被害者は3人の娘」という設定。これは「獄門島」にとても似ている。しかも、映画は「悪魔の手毬歌」が先に公開されているので、こちらが元ネタかと思ったら実は逆。「獄門島」がとても評判が良かったので、それに似たムードを、という周りの要望から生まれたようです。

本作の大きなポイントは磯川警部が犯人の青池リカを愛してしまった、ということなのですが、実際に原作を読んでみると、意外と警部の苦悩と言うのはあまり顕わになってないんですね。物語の進行の中で、ふたりがしんみりと会話するシーンもないし、ラストの金田一の告白に慟哭するわけでもありません。この悲恋はむしろ映画の方がうまく盛り上げています。

「獄門島」が芭蕉の俳句という実際の俳句を使用したのに対して、この手毬歌は横溝正史が創り出したもののようです。よって、何だか都合良くストーリーが進むなあ、という感じが否めません。桝屋、秤屋、錠前屋という屋号についても、できすぎじゃないの~なんて(笑)。まあ、もちろん、それらしい歌詞を創り出すという作業はなかなか凡人にはできることではないのですが。

手毬歌になぞらえる殺人と言う描写がセンセーショナルで目を引きがちなんですけど、私が感心したのはむしろ入り組んだ人間関係。本作は意外と登場人物が多いです。しかも、閉ざされた田舎町でそれぞれ怨恨だの、恋愛だの、様々な関係が入り乱れているんですが、恩田という詐欺師を軸にうまく糸が繋がっています。また、青柳源治郎と恩田幾三は同一人物だった、というトリックは巧いですね。犯人と被害者が入れ替わるというのは、おそらくよくあるパターンだった思うのですが、同一人物に仕立て上げた。この秘密が明らかにされぬまま、リカが死に、一同は金田一の告白を待つわけですから、ラストにミステリーの醍醐味であるカタルシスはしっかり味わえます。

グラマーガールとかトーキーと言った時代の移り変わりを作品に取り込む巧さはさすがです。どの作品でもそうですが、戦後間もない日本の姿なんて、今や映画か小説でしか知りようがありません。そういう意味では横溝作品を「昭和00年の物語である」とまず頭にきちんと刻み込んでから読めば、歴史の教科書を読むよりも断然リアルに当時の日本を感じ取れる。これもまた横溝作品のすばらしさの一つですね。
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by galarina | 2007-12-13 23:36 | 映画の原作

原作/獄門島

発表年/昭和21年
舞台/昭和21年9月 瀬戸内海・獄門島


「エンターテイメントと和文化の見事な融合」

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<ネタバレです>
本作は「本陣殺人事件」でデビューした金田一の2つめの事件(設定は昭和21年9月)として、シリーズの中ではとても重要なポジションを占める作品なのですね。昭和12年に「本陣殺人事件」を解決した金田一が戦争から帰ってきて、磯川警部と感激の再会をすること、依頼を頼まれたのが復員船の中ということなど、戦争のもの悲しさをそこかしこで感じさせます。

しかしながら、一方繰り広げられる殺人事件は、実に大胆でセンセーショナル。まずその一つは「見立て殺人」。美人三姉妹は俳句に見立てて殺される。しかも、梅の木に吊されたり、釣り鐘の中に押し込められたりと、ビジュアル的な刺激をそそります。奇妙な殺され方に島の人間は頭を抱えますが、その理由が俳句の見立てとわかった時には、不謹慎ながら高揚感を覚えてしまう。

そして、二つめは「トリック」。3人の殺人それぞれに巧妙なトリックが隠されているわけですが、1番目の闇夜を利用したトリックと3番目の猫の鈴を利用したトリックもさることながら、2番目の「釣り鐘」トリックが秀逸。当時横溝正史が書きながら映画化を考えていたとは思えないのですが、これほど映像向きなトリックはないでしょう。張り子の鐘がまっぷたつに割れて、中から本物の釣り鐘が出てくるなんて、まるで奇術のようなトリック。私が作家なら、これで映画化マチガイなし!とほくそ笑んでしまいそうです。

そして、三つめは、犯人が3人とも異なるという結末。これ、映画と違うものですから、ずいぶん驚きました。3人を殺人に駆り立てたのは摩訶不思議な偶然を呼び寄せた嘉右衛門の怨念という辺りは、横溝正史らしい筋書き。3人の殺人者の中心人物である和尚が「あの三人娘は、そもそも、殺して惜しいような人間でもなかったでな。あっはっは。」と豪快に笑い、世の中を超越したような面持ちで金田一の前に対峙するラストの謎解きシーンは、何度読んでも面白い。さあ、金田一さん、謎を解いてもらおうやないか、と居直る和尚の前で萎縮する金田一の様子がこれまた目に浮かぶよう。

瀬戸内海の小島を舞台に繰り広げられる本作は、殺人の小道具や俳句の導入など、いわゆる日本古来の要素が巧みに取り入れられた点において、世間に横溝ワールドが決定づけられたのは間違いないでしょう。しかも、海賊が往来したという獄門島周辺の歴史が平安から現代に至るまで語られる箇所は、その他の作品同様、知られざる日本の歴史散策をしている気分にさせてくれる。母の捻れた愛という情念で突っ走る「犬神家」とは違って、「獄門島」は舞台設定、殺人方法、オチに至るまで実に隙のない、非常に完成度の高い作品だと感じました。
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by galarina | 2007-12-02 23:04 | 映画の原作

原作/犬神家の一族

発表年/昭和25年
舞台/昭和2×年 信州・那須


「オープニングを飾るにふさわしい作品」

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私は、ドラマや映画の横溝作品が大好き。特に「市川+石坂版」が。小学生のくせに、毎週古谷一行も観てました。ところが、こんないい年になるまで、原作をひとつも読んだことがなかった。なぜなら、映像世界だけで十分満足していたからなんですねえ。

そもそも、私が映画を観てから原作を読もうと思う動機は、原作を読んで何か明らかにしたい場合があった時、つまり映画で完全燃焼できなかった時がほとんどなのだ。しかし、横溝作品においては、なぜだか一度もそう感じたことはなかった。そして、映画は一体どれほど繰り返し見たことだろう。しかし、こうやって記事を書くようになり、もしかして原作を読めばより映画が楽しめるんだろうか、という考えに遅ればせながら辿り着いたというわけです。

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のっけから驚き。いきなり犬神佐兵衛の生い立ちで始まるプロローグで、育ての親野々村大弐との男色関係が語られる。映画ではずいぶん後で明らかになる秘密が、いきなりのネタバレです。しかし、初めて読む読者はこの淫靡な世界に、開いた数ページで一気に横溝ワールドに引きずり込まれるのでしょう。

私は以前、横溝正史と江戸川乱歩の作風が似ていると耳にしたことがあったのですが、映画でしか横溝作品を味わったことのない私には、似ても似つかぬものとしか思えませんでした。しかし、こうやって実際に読んでみると、登場人物、特に女性たちの「お黙り!うそをおっしゃい!」とか「なんでもありませんのよ」などと言った仰々しいしゃべり言葉に、なるほど乱歩との共通点を見いだしました。そして、何より絶世の美女が出てくる、ということ。

「犬神家の一族」ではもちろん珠世だ。原作での珠世登場シーンはこんな風。「珠世の美しさは、ほとんどこの世のものとは思えなかった。----美人もかえってここまでくると恐ろしい。戦慄的である」いやあ、すごい褒めようですね。他の作品もそうだが、この浮世離れした美女の描写は、およそ現実世界とは乖離しており、それを映像化するとどうにも嘘くさくなったはず。しかし、映画化を市川監督が出がけたことで、そこは難なくクリアできた。横溝正史と市川崑という組み合わせ、これは実に幸福な巡り会いだったんだと原作を読んで改めて思った。

そして、角川書店が映画界に進出する、その先陣を切るために、なぜ本作を選んだのかよくわかる。遺言状の公開という実に鮮やかなオープニング、莫大な遺産相続を巡る殺人事件、松子、竹子、梅子など子供にも分かるような家族関係、「よき・こと・きく」という言葉遊びを絡めた謎など、本作を構成する要素はまさにミステリーの王道のアイテムばかり。平家の怨念や田舎の因習など、日本の民話や風習をふんだんに盛り込んだ作品も多い横溝正史だが、こと「犬神家の一族」に限っては、そのようなじめじめした村社会は出現しない。「八つ墓村」や「悪魔の手鞠歌」などが「陰」とすれば、本作は間違いなく「陽」。シリーズのオープニングにふさわしい華やかさを持っている。

原作ではお琴の師匠が青沼菊乃だったんですね。映画版にどっぷり浸かっている身とすれば、原作と映画との違いがあちこちで目につく。しかし、これもまた楽しい作業。市川監督が何を省略して、何を加えたのかよくわかる。これまで何度も見てきた金田一シリーズだが、「読んでから観る」とまた違った味わいが出てきそうだ。
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by galarina | 2007-11-25 23:28 | 映画の原作
公開前に読了。
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今まであまり体験したことのない読後感を味わいました。この本は手紙だけが延々と載せられています。(最後に補足としての解説はありますが)しかも、全ての手紙が栗林中将からの一方通行の手紙だけです。妻や子供たちからの返事は一切載っていません。でも、だからこそ、彼の思いやりあふれる手紙を家族はどんな思いで受け止めたのだろうとイメージせずにはいられません。

戦いのまっただ中にありながら、手紙のほとんどは家族への想いで占められています。自分のことと言えば、虫が多いこと、水がなくて困っていること、ほとんどこのふたつ。食料のこと、子供の学校のことなど実に細かいアドバイスが続きます。アメリカの戦艦や戦闘機に攻撃されている状況で、よくこんなことを、とそのギャップに驚きます。いや、このギャップ感こそがこの手紙のリアリティに繋がっているのでしょう。

床板のすきま風を直す方法を図解付きで説明するその細やかさにも感心しますが、最も印象深かったのは、娘や息子から来た手紙の誤字脱字を毎回指摘することです。そして、手紙の最後に「期会」→「機会」などと、ていねいにひとつずつ書き直してある。「きちんと正しい字を書かなければいけません」、と再三再四子供たちに語りかける彼の手紙を読んで、この当たり前のことを言える親が今どれほどいるだろう、と考えずにはいられませんでした。

特に胸を打つのは、末娘「たこちゃんへ」で始まる手紙の数々です。家族と離ればなれで田舎に疎開してしまった末娘へのあふれんばかりの愛が感じられます。手紙も子供が読みやすいようひらがなを多く使っています。「お父さんは面白い夢をみました」で始まる夢の話。そこには、たこちゃんが出てきておかあさんのおっぱいを飲んでいるというシーンが説明されます。硫黄島の暗い地下壕でこの夢から醒めた瞬間の彼の心境はいかばかりだったでしょう…。

冒頭でも述べましたが、これは一方通行の手紙ばかりで、しかも硫黄島の戦局の具体的な話はほとんど出てきません。でも、だからこそ読者はいろんなイメージを描きます。彼は一体どこでこの手紙を書いたのだろう。その時爆弾は落ちてこなかったのだろうか、などなど。そしてこの読後感はどこかで体験したことがあると気付きました。この本は、驚くべき事にクリント・イーストウッドの映画を見終わった時に似た感情を引き起こすのです。クリントが栗林中将に興味を持ったことも納得できます。

さて、先日関西ローカルの番組に主演の渡辺謙が出演していました。「あのせまくて息苦しい地下壕で絶望的な戦いをしていたからこそ、彼は手紙を書くことで心を保てていたのではないか」というようなことを言っていましたが、まさにその通りだと感じました。公開が楽しみです。
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by galarina | 2006-12-07 01:58 | 映画の原作

原作「東京タワー」

ドラマ版はさっぱり盛り上がらなかった「東京タワー」。
映画への期待も込めて、原作の感想を別ブログに載せていたものを転載します。

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2006年3月9日

やられた。事前情報全くない状態、ノーガードで読み始めたもんだから、すっかりノックアウトされちまった。こんなことならちゃんとトレーニングしとけばよかった。読了して号泣。号泣している私は、バカか!?と思ったら、みんな号泣している模様。これ、れっきとした号泣本として売られているんですね。図書館で借りると帯がないもんで…

子供の育て方とか、親の有り様ってこれが正しいという答がないのは当たり前のことで、それはみんな頭では理解しているんだけど、いざ自分が親になってみると、これが正しいんだろうか?これが子供のためになるんだろうか?といちいち考えてしまう。だけどリリーさんのオカンはすがすがしいほど潔く生きてる。たまにしか家に帰らないオトン、母子家庭同然で親戚の家を転々としながらも一生懸命働いて、一生懸命ご飯作って、これ以上ないほどの愛情を息子に注ぎ込むオカン。

環境の違いに大小あれど、この本を読めば誰だって自分のオカンを思い返すだろう。あの時オカンがしてくれたこと、あの時オカンが言ってくれた言葉。読みながら自分のオカンの姿が脳裏に浮かぶ。

上京した息子はすっかり都会で自堕落な生活にふける。大学もまともに行かず、仲間と飲み明かす。でも、心には常にオカンへの後ろめたさが募る。ああ、そんな時期私にもあったな。読みながらつい反省。だけど、最後にはリリーさんはちゃんとオカンと向き合って、東京で二人の暮らしを築こうと努力する。逃げたり、迷うことなくオカンを幸せにしたろうとがんばる。えらいよ、リリーさん!

リリーさんの仕事仲間を巻き込みながらの東京生活の生き生きとした描写がまたすばらしいんだな。息子ただ1人を頼って上京したオカンも、ここが自分の居場所だと言う実感を初めて得たかのように、満ち足りた暮らしを送るのだが…

私にも息子が1人いる。こいつのためなら私の命なんかいくらでもあげると思う。でも、愛しすぎて前が見えなくなることがある。そんな時この本に出会った。マザコン、溺愛、甘やかし。世の中の人はいろいろ言うけど、オカンの愛は100%無償だ。私だって、私なりのオカン道を突っ走ったろうじゃないの!本を閉じた瞬間そう思った。
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by galarina | 2006-11-22 22:37 | 映画の原作

原作「ゆれる」

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映画「ゆれる」は、兄弟を中心に描いていたけど、原作では彼らを取り巻く周辺人物について非常に詳しく書かれている。読み終わった後、物語を俯瞰で眺めたような気持ちになった。

最も興味深いのは、やはり「川端智恵子のかたり」の章だろう。ここでは、智恵子の幼い頃の話もふんだんに書かれており、智恵子が早川兄弟とどのように関わってきたかよくわかる。やっぱり小さい時から猛のことが好きだったんだね。

驚くべきは、智恵子が猛を「わざと」誘ったのだということ。映画ではスタンドで稔と一緒に仲良さそうな雰囲気だったのは自然な描写に見えたが、これは「猛への当てつけ」だった。猛はそれにまんまと引っかかったのだ。しかもトラブっているお客さんをわざと足止めさせて、稔を呼び出した。猛の車に乗ってくるだろうと、予測して。嗚呼、女とは恐ろしや。

さて、ふたりの父親である早川勇とその兄である早川修のかたりも多くを割かれている。原作を読むと、親世代の兄弟間の確執もまた、非常に大きかったことがわかる。兄弟の不和は親子で受け継がれていたのだ。

修のかたりは「僕と弟のわだかまりが消えることはない」と締めくくっている。そして、親世代の喪失をその子供たちに味合わせてはならないと、修は思うのだ。果たして、修の願いは叶うのか。ラストは映画と同じで果たして兄の笑顔が何を意味するのかわからない。ただ、あの何とも言えない余韻は遙かに映画の方が上。読み終えて、懸命に走るオダギリジョーと曖昧な笑顔の香川照之を再び思い浮かべた。


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by galarina | 2006-09-27 22:14 | 映画の原作
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いやあ、驚きました。小説は30ページほどの短編なんですね。しかも、のっけからジョゼと恒夫はつきあってました。

というわけで映画はずいぶんと話を膨らましてます。でも、小説世界で築かれてゆく二人だけの世界観は、映画でもとても忠実に描かれています。小説はひとえにこの「小さな世界で生きるふたりのひそやかな愛」に終始しています。それが、読み手の心を癒します。

ジョゼは勝ち気でナイーブな大阪弁の女の子。彼女を池脇千鶴が演じることで、さらに寓話的な世界が広がります。恒夫は大阪弁の気の良い奴。妻夫木くんとはずいぶんイメージが違います。映画の恒夫はもっと優柔不断でいいかげんです。ですが、そのことがラブストーリーとしてはハラハラしたり、胸がきゅぅんとなったりして、いい感じ。

何より、ラストの展開が全然違うんですね。原作を先に読まれた方は、何でこんなに悲しい結末なの。つらい…って思っちゃうのもわかる。小説では、二人が別れることはありません。でも、恒夫はいつか出て行くかも知れない、なんて達観したジョゼがいるんですね。映画はその先を書いちゃった。結末はつらいけど、ジョゼは恒夫の愛を胸にひとりで強く生きていくってことになってる。私はね、これはこれで、すごくいいラストシーンだと思ってるんですね。

ラストを原作と変えちゃうと、もうこれは「映画と原作は別物!」って印象になりがちでしょ。よりによってラストですから。でもね、この映画は小説の世界観をすごくしっかり表現してるから、すごく納得できる。まさにこの続きは、映画通りじゃないかなって気さえする。小説の世界観の再現という幹がとってもしっかりしているから、そこから新たに芽吹いた枝葉も何の違和感もない。小説読んだら、また映画が見たくなって来ちゃった。


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by galarina | 2006-09-05 23:38 | 映画の原作

原作「下妻物語」

一角獣は、原作じゃ一角獣じゃなかった(笑)。
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とりあえずそれが確認したくて読み始めたのが、こいつぁ、おもしれえ!それにしても、映画はほぼ原作通りなんだ。わかっていたようで、ある意味驚き。

本物語は一貫して桃子のひとり語りなのだが、冒頭のっけから桃子の語りが始まったとたん、私の頭の中ではそれらは全て深田恭子の声に変換されるのだ。これはいかに「下妻物語」の世界が映像として、自分の頭の中にすり込まれているかということ。桃子がロココについて語るセリフも映像も、全編映画のシーンが蘇ってくる。ここまで小説世界と映像を一致させることができているなんて、やはり中島監督はスゴイね。

原作と違うところは大きく2点ある。ひとつは、キャラクターの誇張。まず、阿部サダヲ演じるスカジャン野郎は、原作ではただのチンピラ。あと、宮迫博之と篠原涼子演じる両親も、原作ではこんなにキャラ立ってません。ああ、あと荒川良々や樹木希林もしかり。飛んでるハエをつかんだり、黒い眼帯なんかしてない。でも、主人公二人はほとんど原作通り。つまり、主人公ふたりのキャラがめちゃくちゃ強烈な分、映画では周りの人物もそれに負けないようにキャラを立たしてるんですね。このことによって、ストーリーの広がりは出てるし、笑えるシーンもいっぱいあるし、俄然映画として面白くなってる。しかし、どうやったらスカジャン野郎の頭を一角獣リーゼントにしようなんてアイデアが生まれるのかねえ。

2つめは、ラストに向けての若干のはしょり。でも、このはしょり方がウマイんだなあ。原作では桃子が刺繍を仕上げたBABYの洋服の撮影モデルが急遽キャンセルになり、代わりにイチゴがモデルをする。ちょくちょくモデル仕事をしているうちに仲間から落とし前をつけるように言われる、という流れ。だけども映画ではイチゴのモデル話は、最後にオマケのようについているだけで、「桃子がBABYの社長との約束を断ってまでイチゴを助けに行く」となっている。こうすることで、桃子は大事な仕事を蹴ってまで、友達を助けに行くという映画的カタルシスを生み出してるんだ。いやあ、憎いねえ。

ディテールまでこだわって、ほぼ大筋は原作通り。ちょっとした改変もあるけど、それは映画を格段に面白いモノに変換させている。これは原作ファンも大納得の仕上がり。映画が先でも、原作が先でも、どっちでも痛快に面白い希有な例じゃないか。

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by galarina | 2006-09-02 15:10 | 映画の原作