「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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カテゴリ:映画(や行)( 13 )

容疑者Xの献身

2008年/日本 監督/西谷弘
<TOHOシネマズ二条にて鑑賞>

「今回ばかりはフジテレビの我慢ぶりを称えたい」

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なんと、なんと、出来映えは、予想以上。ちょっと意外なほど。確かにドラマ『ガリレオ』の様式は残していますけど、かなり原作を重んじました。これ、大正解。今回、フジテレビはずいぶん我慢したんじゃないでしょうか。

冒頭、ドラマ同様、犯罪を立証する大がかりな実験から幕を開けます。これは、もろドラマファンサービス。でも、つかみとしてはアリでしょう。非常にワクワクします。以降、物語が動き始めてからは、石神(堤真一)と花岡靖子(松雪泰子)のふたりの関係に完璧にシフトします。冷静になって考えると、いくらドラマがヒットしたとはいえ、直木賞受賞作の映画化。もしかしたら、観客の比率は原作ファンの方が多いかも知れません。原作をいじれば、読者からの反発は大きかったでしょう。

それにしても。この映画の主役は、堤真一でしょう。この役、彼じゃなかったら、どうなってただろうと思います。確かに原作の石神はルックスの冴えない醜い男として描かれていて、堤真一とはギャップがあります。しかし、もしこの役を原作通りの見た目の俳優が演じていたら、それこそイケメン福山雅治ひとりが浮いてしまって、ドラマ的軽薄さが増したでしょう。あくまでも、福山雅治とタイマンを張る俳優ということで、堤真一にしたのは、とても賢い選択だったと思います。原作読んでるのに、ラストシーンは、かなり泣いてしまいました。また、松雪泰子もとてもいいです。最近多くの話題作に出ていますけど、「フラガール」より「デトロイト・メタル・シティ」より、本作の彼女の演技の方が引き込まれました。。

映画館を出てから息子に「あのシーン、なかったなあ。あの、ヘンな数式、その辺に書き殴るヤツ」と言われて気づきました。確かに。小学生の息子がヘンだと言うのですから、あれを映画に入れていたら台無しだったでしょうね。湯川先生(福山雅治)と内海(柴咲コウ)の関係にしても、あのフジテレビですから、ほんとは恋愛関係に持って行きたいところじゃないかと思います。しかし、我慢しましたね。「友人として」話を聞いてくれ、と湯川先生に言わせて、それをはっきりと表明しています。まるで「このふたりのキスシーンは我慢しました」というフジの製作者の無念の声が聞こえてくるようです(笑)。

結局、原作の力が大きいのです。そして、それは良い原作なのだから、それでいいのです。個人的には東野作品は「白夜行」のような重い物語の方が好きです。「容疑者Xの献身」が直木賞を取ったときも、正直これより前の作品の方が面白いのあるじゃん、と思いましたしね。でも、映画化ということで考えれば、この作品は向いているのかも知れません。数学VS物理の天才、という構図だとか、アリバイのトリックとか。確かに見終わって、あのショットがとか、脚本が、といういわゆる映画的な感慨もへったくれもないわけです。ただヒットドラマの延長線上で作った、というノリは極力抑えようとしたことが良かった。よって、ドラマファンの息子はもちろん大満足、そして東野ファンのオカンもそこそこに満足、という両方のファンをそれなりに納得させたことにおいて、今回ばかりはうまくフジがバランスを取ったな、と思います。 1本のミステリー作品としても、秀作ではないしょうか。
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by galarina | 2008-10-14 17:27 | 映画(や行)

闇の子供たち

2008年/日本 監督/阪本順治
<京都シネマにて鑑賞>

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救いがないとは聞いてはいましたが、これほどとは思いませんでした。それは、やはり原作を改編したという、主人公南部の秘密があまりに強烈で。これから、ご覧になる方もいると思いますので、内容は控えておきます。何かがあると聞いてはいたのですが、私はこれは全然予測できませんでしたので、余計に呆然となりました。

この改変については、賛否が分かれることでしょう。しかし、私は阪本監督が並々ならぬ意思を持って、このエンディングにしたという決意を感じました。「我々観客=幼児売春、臓器売買などやってはいけないというモラルの持ち主」は、後半に行くにつれ、その思いを主人公南部に託します。なんとかしてくれ、と。それが、あのエンディングですから。これは、その思いを人に託すな、自分の意思で行動せよ。というメッセージだと私は受け止めました。

非人道的な臓器売買が行われるのがわかっていながら、どうしようもできない。しかし、南部は「俺はこの目で見るんだ」と繰り返し言います。まさしく、この言葉こそ我々観客にとっては、「私たちは今このスクリーンでそのどうしようもない事実を自分の目で見るのだ」という行為につながっているように思います。

そして、ラストカットがすばらしいのです。ああ、なのに。流れてくるのは桑田のかる~いサウンド。苦々しい余韻が吹っ飛んでしまいました。あれは、ないでしょう、ほんと。

阪本作品は人情悲喜劇が好きなのですが、本作では笑いを誘うようなセリフや間など全く存在せず、ひりひりと痛い2時間が過ぎていきます。私が感銘を受けたのは、作品のほぼ9割ほどを占めるタイでのロケです。人々がごったがえす街中や、暗い売春宿など、まるでそこに居合わせているようなほど、リアルな情景が続きます。ロケハンを始め、現地スタッフとのやりとりなど、苦労が多かったろうと思いますが、見事に報われています。そして、子供たちの演技がとても自然です。阪本監督は子供たちへの演技指導、そして演技後のケアにとても力を注がれたと聞きましたが、彼らの無言の涙とスクリーンを見つめる目に胸が締め付けられました。

この事実をひとりでも多くの日本人に伝えたい。本作の存在意義はその1点に尽きると思います。江口洋介、宮崎あおい、妻夫木聡。もしかしたら、別のもっと堅実な俳優陣が出演していた方が、作品としてはもっと落ち着きのある重厚な感じに仕上がったかも知れない。それは、否めません。しかし、彼らのような有名俳優が出演していることによって、より多くの観客動員が見込めるのなら、そちらを選択する、ということではないでしょうか。現在の観客動員ももしかしたら「篤姫」効果かも知れない。それでも、いいから見て欲しい。そういうことではないでしょうか。そういう意味において、周防監督の「それでもボクはやってない」と立ち位置の似た作品かも知れないと感じました。
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by galarina | 2008-09-13 11:29 | 映画(や行)

黄泉がえり

2002年/日本 監督/塩田明彦

「したたかな塩田監督」
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本作は、純愛だとか、ファンタジーとか、そういうカテゴリーのものでしょうか。多分にそれは、主演が竹内結子であったり、柴崎コウのライブシーンと共に無数の光が夜空を流れるようなシーンがラストを飾るためであり、正直私はこれはホラーだな、と強く感じたのです。だって、実に気味の悪い演出がそこかしこに見受けられますから。まず主演の草薙剛の存在がとても不気味です。死んだ人が蘇ると言う現象に対して何の驚きも見せず、淡々と調査を続けます。色白で頬のこけた草薙剛が焦点の合わない目線でぼんやりを何かを見つめるようなカットが多々あり、まるで彼が幽霊のように見えます。スクリーンに誰もいないというシーンも多いですし、カメラの並行移動もじっとりとしています。哀川翔が再び死後の世界に引きずられるCGでも、顔がぐにゃりと変形する様にぞっとしました。

また、音楽が少ないことで、ラストの柴崎コウのライブシーンが生きているわけですが、それが本来の目的ではないような気がします。やはり、前半部の気味悪さは、圧倒的な物語の省略から生まれているのですが、音楽を入れないことも、その省略の一環だと思えるのです。

ゆえに、これだけミーハーな俳優陣を集めてもなお、自分らしい演出を貫いた塩田監督に映画監督の気骨を感じました。ジャニーズ絡みで、テレビ局資本の大作で、おそらく妥協しなければならない部分は多かったと思いますが、それでもなお、しっかりと監督の個性が生きていますし、一方以前の塩田作品なんぞ見ていない人々にとっても「ファンタジー感動作」としてのカタルシスはちゃんと与えられているのですからね。これは、凄いことだと思います。この辺のファンタジーテイストのうまい取り込み方は、脚本が犬童一心ということも大きいのかも知れません。自分の撮りたい作品と、ヒットさせねばならない大作物。その両者の間をうまく泳いでいますね。「ありがとう」を撮った万田監督もしかりでしょう。
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by galarina | 2008-07-16 17:23 | 映画(や行)

山のあなた~徳市の恋~

2007年/日本 監督/石井克人
<TOHOシネマズ二条にて観賞>

「カヴァーすると言う大いなる意義」
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清水宏監督のオリジナル「按摩と女」が傑作であると多数の方から話をいただき、これは見るしかないと、最終日最終上映回ですべり込み観賞。いやはや、鑑賞後、呆然。これは参りました。カメラの動き、間、演出、全てにおいて実に良くできた作品だと感心しました。これは早速オリジナルを観なければなりません。

リメイクではなく、カヴァーである、ということ。これは、オリジナルのすばらしさを現代に伝えたいという石井監督の強い意志に他なりません。また、それほどオリジナルが良いと言うことでしょう。このすばらしさを現代の良い音響、良い映像で観客に届けたい、と言うことでしょう。もしかしたら、この成功を受けて小津や溝口のカヴァーと言うのも生まれるのかもしれません。そう考えると、何だかワクワクします。

ちょっとした心の動き、機微の見せ方が実に巧みなのです。それを、セリフではなく、間と映像で語る。これこそ、映画の醍醐味です。起きている出来事は大した事件ではありませんから、これを退屈だとか、淡々とした話だとか言う人がいるかもしれません。しかし、侮ってはなりません。これは実に緻密な計算がなされているのではないでしょうか。例えば、按摩さんを呼びに来た女中さん(洞口依子)が宿の扉を怒ったようにぴしゃっと閉める。これはおそらく、客人のいい男(堤真一)が東京から来た女にデレデレしているのが気にくわないのでしょう。そういうちょっとした仕草でもいろんなイメージが広がるのです。

そして、子供の使い方が秀逸。帰りたくない、早く帰りたい。おばちゃんと過ごしたい、一緒にいてもつまらない。彼の心の揺れが物語の振り子の役割をしています。そして、彼の登場と退場が各エピソードの繋ぎとなっているのです。静かな物語の中で彼の「ちぇっ!」と言うイライラしたような舌打ちがざわざわと波を立てます。物語の結末から言えば、堤真一の役どころだって、通りすがりの男Aと言う感じですが、偶然出会った女に惹かれる心情の揺れが実に巧みに伝わってきます。

草薙剛の按摩はやや大袈裟な感じもしますが、よくがんばりました。むしろ、感心したのは美千穂を演じたマイコです。「そうなんですの」「~ですわね」など、おっとりとした昔ながらのていねいな日本語が実に堂に入っていました。往年の名女優の雰囲気を見事に体現していたと思います。橋の両側に男と女がそれぞれ立ち、その間をわざと知らぬ顔で按摩が通り過ぎてゆくカットの切なさ。女が男を追いかけ、川を渡す桟橋に按摩がひとり残された時の不安感。「お客様!」と土下座した按摩のやるせなさ。胸をわしづかみにされるのではなく、心のどこかをツンと突かれるような感傷が沸き起こるのです。日本を形容する時に、侘び寂びなどと言いますが、それは一体何を指すのかと思っていましたが、本作を見て初めて侘び寂び的なるものに触れたような、そんな気が今しています。
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by galarina | 2008-06-27 23:34 | 映画(や行)

八つ墓村

1977年/日本 監督/野村芳太郎

「シリーズの中の1本とは呼べない」

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これは、横溝シリーズの一遍ではなく、「砂の器」「鬼畜」に並ぶ紛れもない野村芳太郎作品。本作の主要テーマは、辰哉という青年の過去を取り戻す旅です。そこには、過剰なおどろおどろしさも、同情すべき犯人もいません。死んだ母を思い出し、自分の汚れた血に思い悩むショーケンに大きなスポットが当てられるその姿は「砂の器」の加藤剛を思い出させます。そこに、芥川也寸志 のメロディアスな旋律がかぶさり、横溝ならぬ野村ワールドが広がります。やたらと夕暮れのシーンが多いのも、印象的ですね。すごく陰鬱な感じが出ています。

市川版における主役とは、犯人であり、金田一です。犯人にはいつもやむにやまれぬ動機があります。しかし、本作はどうでしょう。財産目当てというストレートな動機で、犯行が見つかったら般若の顔に一変し、ついでに尼子の怨念までしょわされています。原作とは全然違う。金田一だって、徹底的に影の存在です。物語が幾重にも重なる横溝作品。それらの中で最重要位置を占める、犯人と金田一への思い入れを本作はあっさりと捨ててしまっている。しかし、その分、戦国時代の落ち武者の殺戮シーン、そして要蔵の32人殺し。いずれの回想シーンも恐ろしさが際だっています。

市川版では、毒を盛られた人は口の端からつーっと血を流したりするんですけど、野村監督は容赦なく吐瀉物を吐かせたりするんです。別に殺しの美学なんて、どうでもいいって感じ。ひとえにこの気味悪さこそ、本作のもう一つの見どころと言えます。特に、頭に懐中電灯を付け走って行く山崎努を土手から捉えたシーン、あれは夢に出てきそうなくらい怖い。落ち武者の怨念から始まった呪いの連鎖を多治見家の消失でもって終わらせ、ラストに辰哉の生きる希望を見せる。橋本忍の脚本も完璧じゃないでしょうか。

ともかく、スポットの当てどころと落ち武者の怨念のケリの付け方など、原作を変えたことで作品としての深みは俄然増しています。でも、でも。シリーズファンとして、金田一の存在があまりにも薄いことが悲しい。この寂しさは、作品のクオリティの高さとは、また別物なんです。縁の下の力持ちどころか、ぶっちゃけ、いなくてもいいくらいのポジション。渥美清が金田一らしいかどうかと言う前に、この金田一のポジションの低さが本作品を諸手を挙げて褒めきれないもどかしさを生んでいるのです。
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by galarina | 2008-02-13 22:46 | 映画(や行)

やわらかい生活

2006年/日本 監督/廣木隆一

「やわらかく行くのはムズカシイ」
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廣木監督は、しのぶちゃんを好きになってしまったのかしら?と思えるくらい、寺島しのぶが愛らしい。躁鬱病を抱える袋小路な女としては、ちょいとカワイすぎるんですよ、導入部。人生行き詰まった女に対しては、監督はもっとサディスティックに行った方が、面白いんだけど。とか思いつつ観ていると、タイトルが「やわらかい生活」でした。そう、きりきりしないで、何とかほんわりやって行こうと、がんばっている女の物語。ほんわりの向こうにあるのは、薬漬けのどうしようもない自分。その辺が、少しずつ、じわりじわりと透け始めてくる。そしたら、優子という女がだんだん愛おしく見えてくる。

本当は蒲田という場所に馴染みがあれば、もっと楽めるんだろうな。だけど、タイヤの公園とか、蔦の象さんの家とか、なんだこりゃ?みたいな異質なものが街に馴染んでるでしょ。それが優子にとって、とっても居心地いいんだろうなっていうのは、伝わってきた。それって、すごく大事なんだよね。昔、「ざわざわ下北沢」って映画を見て、下北沢なんて行ったことのない私は、とっても内輪なノリですごくヤな感じだったの。好きな人だけで盛り上がってちょーだい、みたいな。

寺島しのぶは、同性を何となく納得させちゃうようなものを持ってる女優だな、と思う。人物設定として、自分の好き嫌いはあっても、見ているうちにその人物が抱えるものがわかってくる。不思議な女優です。豊川悦司のあの足の長さは、作品によっては裏目に出ませんか?もちろん、ファンとしては大きな魅力の一つなんだけど、この作品で言うと、久しぶりのショートヘアでしょ。余計に足の長さが目立って、目立ってしょうがない。その足の長さがね、どうも気のいい博多弁の従兄弟というイメージを遠ざけてしまう。スタイル良すぎるのも罪ですね。カラオケフルコーラス歌ってまして、意外とキーが高いのでビックリ。しかも、お上手。このただ歌っているだけのシーン、だんだん2人の距離が縮まるのが感じられてなかなかよいです。

原作の絲山秋子、「沖で待つ」を読みましたが、働く女のしんどさをひりひりと感じさせる作家です。描写はとても生っぽいんだけど、主人公の内面はとても乾いている感じで、独特の作風でした。この元ネタの「イッツ・オンリー・トーク」も読んでみようと思います。
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by galarina | 2008-01-27 23:13 | 映画(や行)

2005年/韓国 監督/キム・ギドク

「どんな形でも愛は、愛。」

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すばらしかったです。ため息出ました。空に放たれた矢が彼女の「中」に舞い戻るラストシークエンスは息を呑みました。自分勝手な思い込みだけで構築されている老人の愛をいったんは拒否した少女でしたが、最後はその命懸けの熱情に応えるのでした。いくら自由を束縛されようと、それはそれで崇高な愛の形であり、全身全霊でひとりの男に愛されることほど、女に生まれて無上の喜びはなかろうと思わされました。

男の性欲だけを満たさんがために一方的に女を監禁して、いつのまにやら女もその気に、なんて反吐が出そうな映画と、この「弓」という作品の違いは何かと聞かれると、実は論理的にうまく説明できません。結局は作品全体から、それを「愛」だと観客が感じられるかどうか、だと思います。主人公ふたりにはほとんどセリフがなく、目や表情で互いの意思が表現されます。抑えた演出なんてベタな表現が恥ずかしくなるほど、ふたりのシーンはただ相手に対する「想い」が一切のセリフや感情的表現を廃して示されている。その排除の仕方は、強引とも言えるほどですが、これぞまさにギドクならではのテクニックだろうと感心せざるを得ません。

そして設定は奇異でも、伝えたいことは実に単純。愛とは何か。人を愛するとはどういうことか。本作のすばらしいのは、このような突拍子もない設定の物語から最終的には誰にでも当てはまる普遍的なテーマへと視点を下ろせるところなのでしょう。そして、色鮮やかな映像、弓占いという独自の表現が絡み合って生まれる作品の超越的なムードが一つの寓話として我々を強く魅了します。これは、ギドク作品でも大好きな1本となりました。そして、その感情をほぼ「目」だけで演じきった主演のハン・ヨルムという若い女優に心からの拍手を贈りたい気持ちでいっぱいです。
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by galarina | 2007-12-21 23:35 | 映画(や行)

40歳の童貞男

2005年/アメリカ 監督/ジャド・アパトー

「尻上がりに面白くなる」

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いい年した童貞男をみんなでいじって、下ネタで笑わせておいて、後は「童貞喪失バンザイ!」というちゃらけた映画かと思っていたら、さにあらず。だんだん尻上がりに面白くなる。後半はピュアなラブストーリーで、初恋を叶えるために仲間がこぞって奮闘するような青春映画のよう。コメディあまり観ない方なので偉そうなことは言えませんが、「もしも昨日が選べたら」よりは断然良かったです。

確かに卑猥な言葉も出てくるけど、演出としては、無理矢理エロなシーンにするベタさがなくって、むしろ爽やかなシーンの方が印象に残ってたりするの。颯爽と自転車通勤してるシーンとか、子供に手品を見せたりするシーンとか。アンディ自身にまつわる描写はすごく好感が持てる。別にこの人、変わることなんかないじゃない。今のままでもいいじゃない、なんて思ったりして。そういう気持ちで観ているから、後半はごく普通の初恋物語に見えてきて微笑ましいの。あと、相手役をキャサリン・キーナーにしたのが良かったね。彼女が出ているおかげで、おバカ映画には全然見えない。

それから、音楽の使い方がとってもツボを抑えてる。冒頭、電気店で「毎日マイケル・マクドナルドばっかり流すな!」って怒ってる店員がいて、爆笑。(私は「ヤ・モ・ビー・ゼア」好きなんだけどなあ)で、アンディが意を決してポルノビデオ見るシーンは、なぜかライオネル・リッチーのメロウなバラード「ハロー」。この組み合わせ方、うまいなあ。で、ラストの「アクエリアス」で歌って踊っての大団円でしょ。80年代のなつかしポップチューンがしっかり笑いを引き出していて、なかなかやるじゃん、と思ってしまいました。
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by galarina | 2007-12-17 23:20 | 映画(や行)

善き人のためのソナタ

2006年/ドイツ 監督/フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク

「奪われた人生は取り戻せるのか」
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旧東ドイツで実際に行われていた、国民が国民を監視する組織「シュタージ」の実体を暴きつつ、人間の尊厳とは何かを訴えかける傑作。

こういう社会的な問題を扱う作品を見てきて痛切に思うのは、いかに「個の物語」として落ちているかが重要だと言うこと。「グアンタナモ」しかり、「ブラッド・ダイヤモンド」しかり、「ゾフィー・ショル」しかり…。ひとりの人間の苦悩、生き様を通じて訴えるからこそ、扱うテーマは大きくても、我が事のように共有できる。「善き人のためのソナタ」も、ヴィースラーという男の孤独と苦悩を通じて「シュタージ」という非人道的なシステムが人間の尊厳を、人間の人生そのものを奪ってしまう様子を克明に感じ取ることができた。

一番上まで律儀にジッパーを閉める。交代時間ぴったりに監視部屋に到着する。家と監視部屋を往復するだけで趣味ひとつない。「監視」というまがまがしい行為の向こうに見えるのは、ひとりの男のあまりも味気ない日常と孤独。そんなヴィースラーの人物描写が実に巧みである。ヴィースラーは、ドライマンより立場は上かも知れないが、その人生の彩りのなさは比べものにならない。だからこそ、ヘッドフォンの向こうから聞こえてくる豊穣な世界に引き込まれるのを抑えられないのだ、と見る者を納得させる。

物語の中盤は、ドライマンの執筆がシュタージに見つかるのかどうかという、サスペンス的展開になり、重いテーマながら物語をぐんぐん引っ張る力を見せる。そして、感動のエンディングへ。

ベルリンの壁崩壊後、シュタージに監視されていたものは本人に限り閲覧が許されるようになった。その事実に私は大変驚いた。恥ずべき過去に蓋をするのではなく、逆にオープンにするという選択肢。しかも、この情報公開がきっかけとなり、ドライマンはヴィースラーの存在を知る。つまり、ヴィースラーが再び己の人生を取り戻したのは、この情報公開という選択肢を国が選んだからでもある。この展開は、過ちを犯した国でも、正しい一歩を踏み出せば、また国民に希望を与えることができるという、もう一つのメッセージとは受け取れないだろうか。つまり、過ちを犯したことのある、全ての国に希望とは何かを示唆するエンディングだったのだと。

最初に「個の物語」としてすばらしいと書いたけれども、こういう大きな目線に立っても語ることのできる懐の深さを持つ作品。映画大学の卒業制作、かつまだ30代前半の若手監督とは到底思えぬ完成度の高さだ。アカデミー受賞は実に納得。本当に昨今のドイツ映画のレベルの高さをまざまざと見せつけられた1本だった。
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by galarina | 2007-10-01 23:20 | 映画(や行)

ヨコハマメリー

2005年/日本 監督/中村高寛

「戦後を生き抜いたある娼婦の物語」
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年老いてもなお、横浜の街に立ち続けた孤高の娼婦、ヨコハマメリーの生涯を彼女を取り巻く人物たちのインタビューで構成したドキュメンタリー映画。メリーさん本人が語るシーンは一切ない。しかし、他の人がヨコハマメリーを語りその人物像を顕わにしていくことで戦後の日本がリアルに我々に迫る。

私は始まって10分もしないうちに泣けてきた。何かが起きたわけでもないのに、ただそこにメリーさんが立っていたというビルの一角のショットでもう泣けてきた。歌舞伎役者のように白塗りのメイクをし、貴族のような白いレースのドレスに身を包んだメリーさんは、一体どんな思いでここに立ち続けたのだろうか。

メリーさんが他の娼婦たちと明らかに違うのはその気位の高さだった。メリーさんと呼ばれる前の呼び名は「皇后陛下」。やくざや元締めとは一切関わりをもたない「立ちんぼ」だった娼婦のあだ名が「皇后陛下」っだって言うんだから、いかにメリーさんが常人とは異なる雰囲気を醸し出していたかよくわかる。

また、横浜界隈で開かれていた芝居やコンサートにはきちんとチケットを買って見に来たり、店の前に立つことを許してくれたオーナーにお歳暮を贈ったりと、メリーさんはもしかして本当に身分の高い人だったのではないか、という様々な想像がうずまく。しかしメリーさんの昔を知らない若者たちは、その奇妙な容貌から、白いお化けなど化け物扱いするような目で見る者もいた。メリーさんの存在は都市伝説のようになっていったのだ。

そんなメリーさんが突然横浜の街から消えたのが1995年。メリーさんは一体どこへ行ってしまったのだろうか。彼女を知る証言者が現れてくるにつれ、期待と不安が高まっていく。果たしてメリーさんは、どうなったのか。

私はこの映画を多くの人に見て欲しいと思うので、ネタバレになるようなことを書くのはやめようと思う。伝説の娼婦はどうなったのか、ぜひ自分で確かめて欲しい。

私が感じたこと。それは、メリーさんは「ヨコハマメリー」を演じ続けたのだ、ということ。戦後の混乱期に生き抜くために選んだ職業、それがヨコハマメリーであった。彼女はその仕事に誇りを持っていた。自分のやり方で私は私の人生を生き抜いてきた、ただそれだけなのだ。メリーさんを影で支え続けた永登元次郎さんが歌う「マイ・ウェイ」の歌詞がメリーさんの人生とオーバーラップする。

男は戦争に行って死に、残された女は体を売って生き抜いた。メリーさんという女性に迫れば迫るほど、私の中の「女性性」も剥き出しにされて、痛かった。なんとつらい、しかしなんと気高い人生だったろうか。女とは、生きるとは、そして誇りとは何かを考えさせる珠玉のドキュメンタリー。ぜひ見てください。
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by galarina | 2007-02-28 20:02 | 映画(や行)