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「カーサ・ガラリーナ」にお引っ越ししました


by galarina
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バベル

2006年/アメリカ 監督/アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
<TOHOシネマズなんばにて鑑賞>

「伝わらぬ思い、そして絶望の向こうに何を見る」
バベル_c0076382_1546864.jpg
(ラストシーンについてふれています)

この映画は、1本のライフルが狂言回しとなり、複数の物語がラストに向けて繋がっていく、という筋書きではない。何だかそのような宣伝をされているため、話が最後にどう繋がるのかと期待してしまう人もいるようだが、そうではない。思いを伝える術を失ってしまった人間どもの痛々しい姿を、白日の下にさらす。それが「バベル」という映画だ。

「バベルの塔」の物語は、本来同じ言葉を持つ人間が神に近づこうとして裁きを受け、異なる言語を持たされてしまったということだが、この「バベル」では現代人のディスコミュニケーションは単なる言語の壁だけによるのではない、ということを訴えているように思う。その最もシンボリックな存在が菊池凜子演じるチエコだ。なぜなら、チエコは聾唖であり、言語を持たないからだ。

アメリカ人のリチャードがモロッコ人に助けを求めて叫ぶ。メキシコ人のベビーシッターがアメリカの警察に子どもたちを助けようとしたのだと訴える。共にその願いは聞き入れられることはないが、ふたりは語りかける言語を持っている。ところがチエコの存在はこの両者とは違う。どんなに思いが強かろうと、訴える言語を彼女は持たない。そして、言葉を発することができないからこそ、さらに膨れあがる彼女の「誰かと繋がりたい」という強い衝動が胸を打つ。その痛々しい姿こそが、言語という壁よりもさらに深い溝を抱えている現代人の絶望のシンボルにも見える。

よって、私はモロッコの事件も、メキシコの事件も、まるで、チエコの絶望という主旋律を際だたせるために存在する副旋律なのか、とすら思えたほどだった。つまり、この映画の主人公はチエコではないのか、と。一糸まとわぬ彼女が父親に抱きしめられるラストシーンを観て、ますますその思いは強くなった。なぜならこのシーンは救済を連想させるからだ。

もちろん、映画の見方はいろいろあって当然であり、私がこのように感じたのは、それだけ本作において菊池凜子に圧倒的な存在感があるからだ。
前作「21g」でのナオミ・ワッツのように、菊池凜子は人間の内なる叫びを体の奥底から絞り出すようなすばらしい演技を見せている。本物の聾唖者を起用したいと考えていたと言う監督の意向に100%応える渾身の演技だったと思う。他者に受け入れられない絶望が彼女の表情からあふれ出し、私の心に突き刺さった。

それにしても、モロッコの物語も、メキシコの物語も観ていて感じるこの「はがゆさ」は何だろう。伝えられない、叶わないものたちに立ちはだかるのものは一体何か。もはや、それを言葉で乗り越えることはできない。この作品はその事実を痛烈に描いている。言葉を持たぬ者、チエコが救われ、言葉を持つ者はいつまでも理解しあうことはない。では、思いを伝えるために人間は一体どうすればいいのか。そんなことを考えずにはいられない。
by galarina | 2007-05-06 16:30 | 映画(は行)